文久3年(1863)5月9日、江戸幕府はイギリスに11万ポンド(33万両)の賠償金を支払いました。
内訳は、生麦事件が10万ポンド、第二次東禅寺事件が1万ポンドです。
この支払の責任は老中格の小笠原長行が行ったのですが、事件解決のために江戸に変えると孝明天皇に宣言して京都を離れた一橋慶喜が前日に江戸に入ったために、慶喜の江戸入りを待ったうえでの賠償金支払いと考えられているのです。
これによって、イギリスと江戸幕府との賠償問題は解決しましたが、イギリスは薩摩藩にも犯人の引き渡しと2万5千ポンドの賠償を請求していて、この解決について注目されるようになるのです。
内訳は、生麦事件が10万ポンド、第二次東禅寺事件が1万ポンドです。
この支払の責任は老中格の小笠原長行が行ったのですが、事件解決のために江戸に変えると孝明天皇に宣言して京都を離れた一橋慶喜が前日に江戸に入ったために、慶喜の江戸入りを待ったうえでの賠償金支払いと考えられているのです。
これによって、イギリスと江戸幕府との賠償問題は解決しましたが、イギリスは薩摩藩にも犯人の引き渡しと2万5千ポンドの賠償を請求していて、この解決について注目されるようになるのです。