文久3年(1863)5月20日、姉小路公知が、京都御所の猿ヶ辻で暗殺されました。享年26歳。
当時の朝廷は、開国を進める幕府に寄った開国派と、長州藩に寄った攘夷派の公家が争っていた時期でしたが、公知は攘夷派の急先鋒とも目されていた人物でした。
この頃の京都では、安政の大獄に関与した人物や、幕府に近い人物を中心に暗殺される天誅事件があちらこちらで起こっていましたが、その被害者のほとんどは洛中といえども人目につきにくい場所や、被害者の屋敷などだったのですが、姉小路公知は右近衛少将で国事参政という身分を持った公家であり、しかも事件が起こった場所が禁裏の朔平門外という天皇の住まいのお膝元だったことも、この事件の大きさを世に示しているのです。
世に言う猿ヶ辻の変(朔平門外の変)が起こった猿ヶ辻とは、御所の北東に位置しています。ここが鬼門に当たるために、わざと内側に折り曲げるようにして塀が作られました。
そしてこの屋根裏に御幣を持って烏帽子を被った猿の木像が置かれたのです。これは鬼門の守りとして日吉山王神社より勧進された猿だったのですが、この猿の像が夜になるといたずらをするためにウロウロしたことから、金網が張られたとの説がある不思議な場所なのです。
文久3年5月20日、この日も公家たちの議論は激しく続き、公知が御所を出たのは夜の10時頃でした。姉小路家の屋敷がある東側から退出するのではなく、家格の規定に従って西側中央付近の宜秋門から出ると、御所の塀に沿って北に歩き始めたのです。
公知には4人の供が従っていました。一人は提灯持ち、一人は靴持ち、あとの二人は金輪勇と吉村左京(中条右京か?)という警護の侍でした。
姉小路邸まであと20歩も進まないほどに近づいた時、猿ヶ辻の折れた物陰から覆面をした三人の浪士風の男たちが現れたのです。
一人目は提灯を切り落とし、提灯は転げ倒れた蝋燭の火が引火して提灯が激しく燃えました。二人目が公知に切りつけますが、公知は手に持った扇で払おうとして、逆に扇が切られそのまま左に浅く袈裟切りを受けたのです。前月に公家ながら徳川家茂と共に軍艦に乗ったくらいに気丈な公知は。腰に差した杓を左手で抜き、右手は金輪勇の方に伸ばして「刀!」と叫んだのです。
しかし金輪は公知の太刀を持ったまま逃走、提灯と靴持ちも逃げ出しました。場に残ったのは吉村左京のみで、左京は公知の扇を切った男に反撃し軽傷を負わせました。男が逃げだしたので吉村はこれを追ってしまいます。
こうして現場には公知と二人の刺客が残ってしまうのです。
二人の刺客は同時に公知を襲いました。一人は公知の頭部を四寸(約12センチ)ほどの深さまで斬ります。そしてもう一人は公知の鼻の下を二寸五分(約7.5センチ)ほど斬ったのです。頭部の傷は致命傷になるものでした。
この勢いで止めを刺そうとする刺客に、公知が襲いかかり刀を取り上げようとしたのです。揉み合っていてもう一人も公知が狙えない状態であることに気が付いた刺客は、自らの刀を手放してさっと後ろに引き、それを見て公知に止めを刺そうとしたところに左京が戻ってきたのです。
刺客二人はそのまま逃げだしたのでした。
惨劇の後、公知は奪った刀を杖のようにして立ち、左京に支えられながら20歩にも満たない道中をゆっくり進み、玄関に辿りついたところで式台に向かって倒れ込みました、この時「まくら」と言ったのが最後の言葉となったのです。
こうして、公知が奪った刀が証拠として残ります。
公知は、攘夷派の急先鋒でしたが、前月に徳川家茂と共に蒸気船に乗り、そこで勝海舟に海外交易の大切さを教えられ、後日には海舟の弟子の坂本龍馬も姉小路邸を訪れて公知を説得したのです。
そのようなことから、攘夷派と言われながらもその主張が揺るぎつつあることが周囲にも知れるほどでした。
当時の天誅事件のほとんどは、幕府に近い者に対する尊王攘夷派志士の起こすテロでした。公知の心変わりに気が付いた尊王攘夷派がある程度の組織ぐるみで暗殺が計画され実行されたのです。
この犯人は、残して行った刀から薩摩藩の田中新兵衛とされましたが、新兵衛は取り調べの途中で自害し真相は闇になかになっています。
当時の朝廷は、開国を進める幕府に寄った開国派と、長州藩に寄った攘夷派の公家が争っていた時期でしたが、公知は攘夷派の急先鋒とも目されていた人物でした。
この頃の京都では、安政の大獄に関与した人物や、幕府に近い人物を中心に暗殺される天誅事件があちらこちらで起こっていましたが、その被害者のほとんどは洛中といえども人目につきにくい場所や、被害者の屋敷などだったのですが、姉小路公知は右近衛少将で国事参政という身分を持った公家であり、しかも事件が起こった場所が禁裏の朔平門外という天皇の住まいのお膝元だったことも、この事件の大きさを世に示しているのです。
世に言う猿ヶ辻の変(朔平門外の変)が起こった猿ヶ辻とは、御所の北東に位置しています。ここが鬼門に当たるために、わざと内側に折り曲げるようにして塀が作られました。
そしてこの屋根裏に御幣を持って烏帽子を被った猿の木像が置かれたのです。これは鬼門の守りとして日吉山王神社より勧進された猿だったのですが、この猿の像が夜になるといたずらをするためにウロウロしたことから、金網が張られたとの説がある不思議な場所なのです。
文久3年5月20日、この日も公家たちの議論は激しく続き、公知が御所を出たのは夜の10時頃でした。姉小路家の屋敷がある東側から退出するのではなく、家格の規定に従って西側中央付近の宜秋門から出ると、御所の塀に沿って北に歩き始めたのです。
公知には4人の供が従っていました。一人は提灯持ち、一人は靴持ち、あとの二人は金輪勇と吉村左京(中条右京か?)という警護の侍でした。
姉小路邸まであと20歩も進まないほどに近づいた時、猿ヶ辻の折れた物陰から覆面をした三人の浪士風の男たちが現れたのです。
一人目は提灯を切り落とし、提灯は転げ倒れた蝋燭の火が引火して提灯が激しく燃えました。二人目が公知に切りつけますが、公知は手に持った扇で払おうとして、逆に扇が切られそのまま左に浅く袈裟切りを受けたのです。前月に公家ながら徳川家茂と共に軍艦に乗ったくらいに気丈な公知は。腰に差した杓を左手で抜き、右手は金輪勇の方に伸ばして「刀!」と叫んだのです。
しかし金輪は公知の太刀を持ったまま逃走、提灯と靴持ちも逃げ出しました。場に残ったのは吉村左京のみで、左京は公知の扇を切った男に反撃し軽傷を負わせました。男が逃げだしたので吉村はこれを追ってしまいます。
こうして現場には公知と二人の刺客が残ってしまうのです。
二人の刺客は同時に公知を襲いました。一人は公知の頭部を四寸(約12センチ)ほどの深さまで斬ります。そしてもう一人は公知の鼻の下を二寸五分(約7.5センチ)ほど斬ったのです。頭部の傷は致命傷になるものでした。
この勢いで止めを刺そうとする刺客に、公知が襲いかかり刀を取り上げようとしたのです。揉み合っていてもう一人も公知が狙えない状態であることに気が付いた刺客は、自らの刀を手放してさっと後ろに引き、それを見て公知に止めを刺そうとしたところに左京が戻ってきたのです。
刺客二人はそのまま逃げだしたのでした。
惨劇の後、公知は奪った刀を杖のようにして立ち、左京に支えられながら20歩にも満たない道中をゆっくり進み、玄関に辿りついたところで式台に向かって倒れ込みました、この時「まくら」と言ったのが最後の言葉となったのです。
こうして、公知が奪った刀が証拠として残ります。
公知は、攘夷派の急先鋒でしたが、前月に徳川家茂と共に蒸気船に乗り、そこで勝海舟に海外交易の大切さを教えられ、後日には海舟の弟子の坂本龍馬も姉小路邸を訪れて公知を説得したのです。
そのようなことから、攘夷派と言われながらもその主張が揺るぎつつあることが周囲にも知れるほどでした。
当時の天誅事件のほとんどは、幕府に近い者に対する尊王攘夷派志士の起こすテロでした。公知の心変わりに気が付いた尊王攘夷派がある程度の組織ぐるみで暗殺が計画され実行されたのです。
この犯人は、残して行った刀から薩摩藩の田中新兵衛とされましたが、新兵衛は取り調べの途中で自害し真相は闇になかになっています。