文久3年(1863)5月14日、一橋慶喜が将軍後見職を辞すると朝廷に上奏しました。
長い上洛から江戸に戻るために、朝廷が出した条件は攘夷決行期限を決めることでした。
これに対し慶喜は5月10日を期限とすることを発表したのです。朝廷はこの返事を聞いて慶喜の東帰と将軍家茂の大坂行きを認めるのです。
しかし慶喜は攘夷を行うつもりは毛頭ありませんでした。ですので攘夷決行はあくまで方便でしかなかったのです。これを決めた瞬間から策士でもある慶喜の行動は決まっていました。
5月8日に江戸に戻り、その翌日には生麦事件の賠償金を支払った幕府の行動をもって、「攘夷を行う覚悟で江戸に戻りましたが、幕閣の賛同を得られなかったので、責任を取って将軍後見職を辞するしかありません」との辞表を関白近衛輔熙に送りました。
これを受け取った朝廷は辞表を受理せず引き伸ばされたのです。
長い上洛から江戸に戻るために、朝廷が出した条件は攘夷決行期限を決めることでした。
これに対し慶喜は5月10日を期限とすることを発表したのです。朝廷はこの返事を聞いて慶喜の東帰と将軍家茂の大坂行きを認めるのです。
しかし慶喜は攘夷を行うつもりは毛頭ありませんでした。ですので攘夷決行はあくまで方便でしかなかったのです。これを決めた瞬間から策士でもある慶喜の行動は決まっていました。
5月8日に江戸に戻り、その翌日には生麦事件の賠償金を支払った幕府の行動をもって、「攘夷を行う覚悟で江戸に戻りましたが、幕閣の賛同を得られなかったので、責任を取って将軍後見職を辞するしかありません」との辞表を関白近衛輔熙に送りました。
これを受け取った朝廷は辞表を受理せず引き伸ばされたのです。