文久3年(1863)5月24日、山内容堂が土佐勤王等へ自粛を求めました。
前年より京都を中心に活動していた土佐勤王党でしたが、文久3年に入ってすぐの頃から容堂は危険視していました。それは上洛した容堂が直接京都で感じたことであり、これが原因で1月29日に平井収二郎らに帰国を命じて土佐で投獄していたのです。
そして5月24日には藩校致道館で土佐勤王党の自粛を命じたのです。これにより土佐勤王党は実質的に土佐藩によって解散命令が出たことになったのです。
前年より京都を中心に活動していた土佐勤王党でしたが、文久3年に入ってすぐの頃から容堂は危険視していました。それは上洛した容堂が直接京都で感じたことであり、これが原因で1月29日に平井収二郎らに帰国を命じて土佐で投獄していたのです。
そして5月24日には藩校致道館で土佐勤王党の自粛を命じたのです。これにより土佐勤王党は実質的に土佐藩によって解散命令が出たことになったのです。