彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

べらぼうの時代(2)

2025年01月26日 | ふることふみ(DADAjournal)

 田沼時代に彦根藩主であった井伊直幸は直弼の祖父となる人物であるが彦根藩主になるまでに大きな障害があった。
直幸の父・直惟は江戸時代を通して唯一二度の大老職を務めた井伊直興(直該)の子として生まれるが兄弟が多く彦根藩主に就く可能性は少なかった。しかし直興隠居後に彦根藩主を継いだ直通と直恒が次々と亡くなり直惟が彦根藩主になったのです。徳川家重の加冠役を務めますが病弱を理由に弟・直定に家督を譲って隠居しすぐに病没、直定は直惟の子である直禔が成長するまで待ち藩主の座を譲るが直禔は在任60日で亡くなってしまい直定が再び彦根藩主の責務を負うこととなった。

 井伊直幸は直惟の子であり直禔の弟でるため再任した直定の次に彦根藩主を任されるのは自分であると自負するようになっていたはずである。しかし直定は宇和島藩伊達家から伊達伊織を養子に迎えて井伊家を継がそうとした。直幸はこれに反発、そして幕府からも直幸に家督を継がせるように命が下り直幸は彦根藩主となった。直幸が彦根藩主になったのは宝暦5年(1755)であり、直幸と深い関わりを持つこととなる田沼意次が台頭するのは3年後である。こののち両者は与板藩井伊家を仲介として閨閥関係を築いてゆき、与板藩主であり意次の次女を正室に迎えていた井伊直朗は若年寄にまで出世している。歴史に「もし」は禁句であるが、もし田沼意次が失脚していなければ与板藩は加増され、直朗は老中になっていた可能性は高い。
 早い段階で田沼派に組み込まれていた直幸だったが、意次は早くから井伊家の権力を利用しようとはせず、直幸自身も彦根藩領での治政を行っていた。特に井伊家一門への教育に対して力を入れていて、世継ぎ以外の子弟たちにも教育が行き渡るように控屋敷の役割を改善している。この成果が井伊直弼を育てる一翼にもなったのだ。また直幸の嫡男であった直富は直幸が江戸に参勤しているときに国許をよく治めていた。直富の話はのちに譲りたいと思うが田沼時代の彦根藩では井伊直幸と直富父子による藩政改革が確実に進んでいた。それは幕府内において田沼意次と意知父子が幕政改革を進めていた形とよく似ている。

 田沼時代のキーパーソンは田沼意知である。意次の嫡男として期待され若年寄に就任したが、反田沼派の陰謀により江戸城内で暗殺された。その死から半年後に井伊直幸は大老になる。大老の意見は将軍すら変えることができないという絶対権力でありながら井伊直該から70年近く大老に就く者はいなかった。田沼政権もこの権力は欲していなかったが、意知という政治の担い手が暗殺されたため意次は井伊家の大老としての権力に縋ったのである。この結果、直幸は意次の傀儡と目されのちの歴史家から「江戸時代に唯一必要がなかった大老」や「田沼意次に利用された大老」との評価を受けることとなる。

井伊直幸の墓(世田谷区豪徳寺 2007年撮影)

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『べらぼう』の話(4)地本問屋

2025年01月26日 | 史跡

蔦屋重三郎が苦い想いをしたのは、当時の出版事情だったかもしれません


江戸時代前期は上方で続いていた文化を引き継いで行く形で、上方が出版の中心地でした

そのような上方で発生したものが関東などの地方に行くことを「下る」といい、本も「下り本」と呼ばれました

余談ですが、品質が悪くて下ることもできないものが語源として「くだらない」との言葉が生まれます


しかし、江戸でも上方に頼らない文化が起こります

このように江戸を地元として生まれた本が「地本」と呼ばれ、赤本、青本、黄表紙などがこの中に入ります(学術書などは地本に含まれない)

地本を作り販売したのが「地本問屋」ですが、これは株仲間を組織していて株を手に入れないと江戸市中での出版販売が許可されなかったのです

また、地本以外の本は書物問屋が存在しました


蔦屋重三郎は、通油町に店を構えた丸屋から地本問屋の株を買い、丸屋の店舗を居抜き改装して耕書堂のメインを吉原大門から通油町に移転したのです

これにより、耕書堂にも書肆としての肩書が使えるようになります


通油町の耕堂堂跡


蔦屋重三郎はのちに書物問屋株も手に入れています
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