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2022年は彦根城築城第二期工事が終了して400年の記念年。彦根城総構え400年であることから昨年より総構えに関わる話を記している。あるとき「昔の城下は職業ごとに集まった町ができていたと聞きますが、同じ職業が集まると不都合の方が多いのではないですか?」との質問を受けた。
歴史的に当たり前と思っていたことが、現在の常識から外れていることもある。と、私が思い知らされた瞬間であり城下町に関わる大切な事項であるためこの機会に紹介してみたい。
城下町において同じ職業の人々が集まり、彦根城下でも「鍛冶屋町」「桶町」「左官町」「八尾屋町」「魚屋町」などを見ることができる。この中で「鍛冶屋町」「左官町」などの職人が住まう地域は協力して大きな仕事を行うときに便利であるとも考えられるが、商人たちはどうであろうか? 例えば「魚屋町」と聞いて現在の感覚を重ねるならば何軒もの魚屋が店を並べてそれぞれに客を迎えるイメージではないだろうか。こうなると立地・値段・鮮度・珍しさなどを売りにして店同士で生き残りを賭けた激しい争いが起こすことになると想像してしまう。魚屋町は彦根城下に「上魚屋町」と「下魚屋町」があり、現在の彦根市本町二丁目(上魚屋町)と城町一丁目(下魚屋町)の辺りだった。この範囲で40軒近い魚屋があったとされているのだ。普通に考えるならばその40軒が城下町の方々に散った方が各店で繁盛すると思われる。なぜ一か所に集まっていたのだろうか? この答えには私たちの常識を壊す必要がある、それは江戸時代初期に店舗という考え方がなかったということである。
「店」はもともと「見世」が語源であり、室町時代に大きく発展した市で筵などに商品を並べて見せて販売する形だった。市は八の付く日(八日市)四の付く日(四日市)など一か月に数日だけ開かれるだけであり商人は行商が基本的なスタイルだったのである。特定の場所に店舗を構えて日常的に商品の販売を行えるようになるのは18世紀初頭の元禄文化まで待たねばならない。それまでは商売をする人々が必要な物を持って声をかけながら歩き回っている。朝食の時刻に合わせるように納豆売りや魚売りが長屋近くを通り、夜になると落語でよく登場するような屋台のそばやうどん、江戸では日中に寿司屋や天ぷら屋も出ていたが彦根城下ではどんな屋台が出ていたのかいずれは調べてみたい課題でもある。
魚屋町で店を構えて来客を待った訳ではなく、各地から仕入れた魚が行商によって城下町に広がって行くのである。彦根藩では魚市が行えるのは上下の魚屋町に限られていた。現在の感覚で考えるならば魚屋町という卸売市場に魚が集まりキッチンカーで調理販売されていたということになるのかもしれない。これが業種ごとに存在したのである。
旧魚屋町への案内石柱(彦根市本町二丁目)
歴史的に当たり前と思っていたことが、現在の常識から外れていることもある。と、私が思い知らされた瞬間であり城下町に関わる大切な事項であるためこの機会に紹介してみたい。
城下町において同じ職業の人々が集まり、彦根城下でも「鍛冶屋町」「桶町」「左官町」「八尾屋町」「魚屋町」などを見ることができる。この中で「鍛冶屋町」「左官町」などの職人が住まう地域は協力して大きな仕事を行うときに便利であるとも考えられるが、商人たちはどうであろうか? 例えば「魚屋町」と聞いて現在の感覚を重ねるならば何軒もの魚屋が店を並べてそれぞれに客を迎えるイメージではないだろうか。こうなると立地・値段・鮮度・珍しさなどを売りにして店同士で生き残りを賭けた激しい争いが起こすことになると想像してしまう。魚屋町は彦根城下に「上魚屋町」と「下魚屋町」があり、現在の彦根市本町二丁目(上魚屋町)と城町一丁目(下魚屋町)の辺りだった。この範囲で40軒近い魚屋があったとされているのだ。普通に考えるならばその40軒が城下町の方々に散った方が各店で繁盛すると思われる。なぜ一か所に集まっていたのだろうか? この答えには私たちの常識を壊す必要がある、それは江戸時代初期に店舗という考え方がなかったということである。
「店」はもともと「見世」が語源であり、室町時代に大きく発展した市で筵などに商品を並べて見せて販売する形だった。市は八の付く日(八日市)四の付く日(四日市)など一か月に数日だけ開かれるだけであり商人は行商が基本的なスタイルだったのである。特定の場所に店舗を構えて日常的に商品の販売を行えるようになるのは18世紀初頭の元禄文化まで待たねばならない。それまでは商売をする人々が必要な物を持って声をかけながら歩き回っている。朝食の時刻に合わせるように納豆売りや魚売りが長屋近くを通り、夜になると落語でよく登場するような屋台のそばやうどん、江戸では日中に寿司屋や天ぷら屋も出ていたが彦根城下ではどんな屋台が出ていたのかいずれは調べてみたい課題でもある。
魚屋町で店を構えて来客を待った訳ではなく、各地から仕入れた魚が行商によって城下町に広がって行くのである。彦根藩では魚市が行えるのは上下の魚屋町に限られていた。現在の感覚で考えるならば魚屋町という卸売市場に魚が集まりキッチンカーで調理販売されていたということになるのかもしれない。これが業種ごとに存在したのである。
旧魚屋町への案内石柱(彦根市本町二丁目)
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