鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である北条仲時。
その墓を六はら山に移した井伊直定(推定)
そして、六はら山の麓に祀られている井伊直孝。
どんな歴史的背景があるのか?
考えると楽しくなってきますが、六波羅といえば六波羅探題が置かれていた京都の地も井伊家とは深い繋がりがあります。
六波羅探題の跡地の一部に建てられている六波羅蜜寺。
平清盛や空也上人の木像を観ることができることで有名ですが、それらと並んで井伊直政の木像も観ることができます。
六波羅蜜寺は戦国時代に荒れ果てていたのを、豊臣秀吉が再建した寺社の一つですが、井伊直政はここの住職秀誉に帰依しまた。
直政の死後、元和元年(1615)に、直孝が鐘楼を寄進し、彦根城築城が完成した翌年の元和9年(1623)に六波羅蜜寺本堂の南側に祥寿院と言う堂を建立して、ここに直政像と衣冠装束を安置しました。そして明治2年までは井伊家の保護は続いたとされています。
直政の戒名は「祥壽院殿清凉泰安大居士」なので、この堂が直政の為に建立された物であることは間違いありません。
ここに安置された木像は、直政の死後すぐの像であることから一番直政の様子を伝える物ではないか?とも言われています。それが現在に伝えられているのです。
そして今も、祥寿院は弁財天堂として本殿の南に残っていて「祥寿院」の扁額や橘紋の瓦を見ることができます。
深読みすると、彦根藩主にとって六波羅は大切な場所であり、北条仲時に対しても畏敬の念があったかもしれないとも考えられるかもしれません。