源頼朝が石橋山の戦いで大敗を喫しながら直ぐに態勢を立て直すことができたのは、上総介広常(と千葉常胤)の参戦があったからでした。
上総介広常は、上総下総に勢力を広げた房総平氏惣領の流れをくみ平広常や上総広常とも呼ばれています。
頼朝は、上総介広常と千葉常胤を味方につける為の使者などを送り、広常は大軍でこれに答えて頼朝に付いたのでした。
この時、頼朝が遅参した広常を咎めて軍を追い返そうとしたとの話が有名ですが、広常は平治の乱では頼朝の兄・義平の軍で戦ったことがあり、石橋山の敗戦後に頼朝が房総半島に逃げたことから考えて、頼朝の挙兵時には広常が味方についていたとの説もあります。
頼朝軍最大の兵力を持って早くから味方していた為か?頼朝に対して尊大な態度をとったとも言われています。
寿永2年(1183)12月20日、頼朝の命を受けた梶原景時が広常邸を訪れます。二人は双六を楽しみましたが、途中で景時が広常に斬りかかり上位討ちとしたのです。
その後、朝夷奈切通しの清水で太刀に着いた血を拭ったとされています。
上総介広常の墓との伝承がある場所は、鎌倉から朝夷奈切通しを抜けて直ぐの場所にあります。
(太刀洗水は、朝夷奈切通しの鎌倉側)