掛川城の話の時に、朝比奈泰朝の祖父泰煕が近くの丘から城を移したと書きましたが、その丘にも城跡があります。
子角山と呼ばれる城跡ですが、その距離感からか、徳川家康が掛川城を攻める時に陣を置いた場所とも言われています。
また、龍華院というお寺があるのですが、この地には三代将軍徳川家光の霊牌を納めた大猷院霊屋が建っています。
掛川城天守最上階の展望室からすぐ近くに見える場所でした。
子角山と呼ばれる城跡ですが、その距離感からか、徳川家康が掛川城を攻める時に陣を置いた場所とも言われています。
城跡としての土塁や大きな堀切も残っていました。
また、龍華院というお寺があるのですが、この地には三代将軍徳川家光の霊牌を納めた大猷院霊屋が建っています。
掛川藩には、北条氏重という人物が藩主になった時がありました。氏重は保科正光の弟(保科正之の義叔父)で、母親は徳川家康の異父妹、孫(娘の子)は大岡越前(忠相)という歴史の鎖を繋ぐような人物で、玉縄北条氏(北条綱成の家系)の氏勝に養子に迎えられた人物でした。
玉縄北条氏は、北条軍学を継ぐ立場であったともされていて保科氏が武田旧臣であることからも、関東の戦国大名ニ家の軍学を学んだ人物だったとも考えてられるのです。
しかし、氏重が掛川藩主になった時には娘しかおらず、自分が亡くなった後に家が取り潰しにならないための策として家康所縁の地に家光の霊牌を収める霊屋を作ることを江戸幕府に願い出て許されたのです。
しかし、氏重は跡継ぎを決めないまま64歳で亡くなり掛川藩北条氏は廃絶となったのです。
ちなみに、玉縄北条氏は氏勝の弟繁広が旗本として残しているのですが、なぜ氏勝は繁広がいるのに他家から氏重を養子に迎えて後を継がせたのか?
なぜ繁広には「氏」の名を残さなかったのか?
そして、幕府はなぜ大猷院霊屋まで作らせておいて掛川藩北条氏を取り潰したのか?
など、謎が多く残る歴史の闇を覗きたくなる場所でもあります。
ちなみに、大猷院霊屋は火災で焼失し、文政5年(1822)に太田資始(老中を三度務めた幕末期の掛川藩主)によって再建された物が今に伝わっています。