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昔から彦根市近辺に住んでおられる方にとっては、幼い頃から聞き覚えがある川の名前の一つが“宇曽川”。
市内では中南部に位置して、荒神山の麓をのんびりと流れていますが、この名前を聴いた皆さんはこんな事を疑問に思った事はありませんか?
「宇曽川って、何でそんな名前なん? 『うそ』って、まるで嘘つきみたいやん…」
実はそうなんです。
戦国時代、織田信長が小谷城の浅井長政と戦っていた頃、浅井・朝倉の兵を匿っていたという事で比叡山延暦寺を焼き討ちにしましたが、同じ頃、信長に反発する近江国内の寺社勢力も次々と焼き討ちにされたのです。
彦根の近くにある湖東三山もその対象となっていました、信長は湖東三山に近い川付近に陣を張って、山を囲んでいたのです。
寺の危機に接した金剛輪寺の住職は、本堂近くの高台で火を燃やさせました。この様子を見た信長は、寺が燃えていると勘違いして兵を引き上げさせたのでした。
この時、信長が陣を張っていた場所を、『嘘つきの川』として“宇曽川”と命名されたのです。
また、別の説もあって、急に干上がったり、雨が少し降ると洪水になったりする嘘つきのように油断できない川だからとも言われています。
どちらにしても、嘘つきなんですね。
さて、宇曽川は、荒神山の北側に位置する事から、荒神山に築城された荒神山城・日夏城・山崎山城などの天然の堀として使われていたと考えられます。
以前に書きました肥田城の水攻めの時にも、宇曽川の水を堰き止めたと言いましたが、この時は大雨で堤防が決壊したのですから、やっぱり油断ならない川だったんでしょうね。
また、江戸時代には彦根藩の年貢米を運ぶ運河の一つとして使われていたんですよ。
宇曽川は、荒神山の影響で河口に近付くほど川幅が狭く蛇行するので雨が降ると大きな被害をもたらしていたようです。昭和58年の豪雨を契機に翌年から5年間にわたる大規模な改川工事が行われて、今は恵み豊かで穏やかな流れを私たちに提供してくれています。
市内では中南部に位置して、荒神山の麓をのんびりと流れていますが、この名前を聴いた皆さんはこんな事を疑問に思った事はありませんか?
「宇曽川って、何でそんな名前なん? 『うそ』って、まるで嘘つきみたいやん…」
実はそうなんです。
戦国時代、織田信長が小谷城の浅井長政と戦っていた頃、浅井・朝倉の兵を匿っていたという事で比叡山延暦寺を焼き討ちにしましたが、同じ頃、信長に反発する近江国内の寺社勢力も次々と焼き討ちにされたのです。
彦根の近くにある湖東三山もその対象となっていました、信長は湖東三山に近い川付近に陣を張って、山を囲んでいたのです。
寺の危機に接した金剛輪寺の住職は、本堂近くの高台で火を燃やさせました。この様子を見た信長は、寺が燃えていると勘違いして兵を引き上げさせたのでした。
この時、信長が陣を張っていた場所を、『嘘つきの川』として“宇曽川”と命名されたのです。
また、別の説もあって、急に干上がったり、雨が少し降ると洪水になったりする嘘つきのように油断できない川だからとも言われています。
どちらにしても、嘘つきなんですね。
さて、宇曽川は、荒神山の北側に位置する事から、荒神山に築城された荒神山城・日夏城・山崎山城などの天然の堀として使われていたと考えられます。
以前に書きました肥田城の水攻めの時にも、宇曽川の水を堰き止めたと言いましたが、この時は大雨で堤防が決壊したのですから、やっぱり油断ならない川だったんでしょうね。
また、江戸時代には彦根藩の年貢米を運ぶ運河の一つとして使われていたんですよ。
宇曽川は、荒神山の影響で河口に近付くほど川幅が狭く蛇行するので雨が降ると大きな被害をもたらしていたようです。昭和58年の豪雨を契機に翌年から5年間にわたる大規模な改川工事が行われて、今は恵み豊かで穏やかな流れを私たちに提供してくれています。