治承5年(1181)閏2月4日、平清盛は「九条河原口盛国家」で病没したと記録されています。
伊豆に流した源頼朝が挙兵し、討伐のために派遣した孫の平維盛が富士川の戦いで大敗するなど不安が残るなかで病に苦しむことになった清盛。
治承5年2月27日に頭風を病むとの記録がありますが、3日後の閏2月1日(治承5年2月は小の月)には重体。
伝承では、高熱にうなされて水は喉を通らず、病室に入る者は熱さ(暑さ)に耐えられず、清盛は「熱い熱い」と唸るばかりであり七日間苦しんで没した。とされています。比叡山から冷水を運んで清盛の体にかけると一気に蒸発したという話もありますが、その状態で七日間も生きながらえられるとは思えませんので過大な脚色があるものの、高熱で苦しんだことは間違いないのかもしれません。
マラリア、肺炎、脳出血、髄膜炎などの説が上がっています。
『平家物語』によれば、清盛は「葬儀は不要、頼朝の首を墓前に供えろ」と遺言を残したとされています。
六波羅蜜寺の清盛の塚
ちなみに、清盛が亡くなった地と推定されている平盛国の屋敷は、清盛の義妹(妻の異母妹・建春門院平滋子)が後白河天皇との子である高倉天皇を産んだ屋敷ともされているため、平家の繁栄と没落のきっかけが同地で始まったとも考えられるのです。