鎌倉幕府二代将軍源頼家は、若くして父頼朝を亡くし将軍に就任しました。
このことに不安を感じた幕府内で有力者十二人による合議制が始まったとされています(異説あり)。
そんな頼家は、後年のイメージでは暴君や暗君に思われがちですが詳しく調べると合理的な政治を目指した将軍だったともされています。
しかし、将軍在任中に大病を患い、快癒見込がないと判断されたために闘病中に後ろ盾であった比企能員ら比企一族と息子一幡が北条時政に殺害され、弟千幡(実朝)の将軍就任が決まっていました。
このため、病が回復したのちに将軍職(鎌倉殿)を追われて修善寺に幽閉されたのです。建仁3年(1203)9月7日のことでした。
翌年7月18日、入浴中に北条時政が放った刺客に襲われて殺害されたのです。
頼家が暗殺されあ修善寺温泉には7か所の外湯があったとされていますが、平成に入った頃に残っていたのは独鈷の湯と呼ばれる修善寺温泉始まりの湯のみでした。
平成12年(2000)に、外湯のひとつとして復活したのが筥湯で、発掘調査では古い温泉場の跡も見つかったことから、ここで頼家が暗殺されたと考えられています。
のちに母・北条政子が修善寺温泉に頼家の菩提を弔らう指月殿を建立。
頼家の墓は境内にあります。
墓の正面は元禄16年(1703)に作られた供養塔で、本来の墓石は供養塔後ろの2基の五輪塔(どっち?それとも2基とも?)と言われています。
そして指月殿が建つ高台には、源頼家だけではなく13基の墓が並びます。
これは、頼家暗殺の6日後(7月24日)報復を計画していたことを理由に金窪行親(後に侍所所司)に討たれた頼家家臣13人の墓です。
本来は200mほど東に建立されていたものが、台風被害によって平成17年7月17日に指月殿境内で頼家の墓近くに移されました。
修善寺温泉では、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に絡んだデジタルスタンプラリーを行っていて(2022年3月時点)、一定数のスタンプを集めると頼家に関連した伝承である神鹿にちなんだ鹿の角の御守が貰えます。