彦根城博物館で3月21日~4月20日まで行われている展示が『最強の軍団~井伊の赤備え~』です。
写真はそこで売られていたクリアファイル。
井伊家といえば赤備えと言う風に思いつく方もたくさん居られる事だと思いますが、一概に赤備えと言っても同じ彦根藩主の中でも色々違います。
そんな違いは勿論の事、世子のまま藩主になる事が無かった井伊直滋・直清・直元の甲冑も見る事ができ、且つ有力な家臣の甲冑も目にする事ができるんですよ。
さて、赤備えの話
最初に赤備えを使ったのが甲斐(山梨県)の武田信玄の家臣・飯富虎昌(通称:飯富兵部)で、虎昌の死後に弟の山県昌景に受け継がれたのです。
1582年、武田家が織田信長によって滅ぼされ、その前に長篠の戦いで戦死していた昌景の赤備え軍団も解散を余儀なくされます。しかし、同じ年に起った本能寺の変で信長が亡くなり、甲斐は徳川家康の支配下となりました。
ここで武田軍が再雇用され、家康の直臣・木俣守勝を総大将として井伊直政に預けられたのでした。
この時点では『井伊軍の木俣の赤備え』だったのです。しかし、やがて井伊軍全てが赤で統一されるようになりました。
この事に敬意を表して、井伊直政は“兵部少輔”を私称しています。
赤備えは戦場で目立つ為に、卑怯な行為ができず勇気を試され、大将が戦場で傷を負っても血が目立たないので部下の士気を下げないと言う利点があったのです。
1600年、関ヶ原の戦いでは少数の兵で敵に攻め込んで戦いの口火を切った井伊軍は赤備えに恥じない働きをし、直政自身も命に関わる鉄砲傷を負ってまで戦ったのです。
1614~1615年の2回の大坂の陣では直政の息子・直孝が活躍し“夜叉掃部”という異名まで付けられ、以降、井伊家は『赤鬼』と呼ばれるようになったのです。
ちなみに、戦国時代にはもう1つ有名な赤備えがあります。
直孝が活躍した大坂の陣で敵方として戦った真田幸村の赤備えです。幸村はこの戦いで2度も徳川家康を追い詰めて、『真田は日本一の兵(つわもの) 古よりの物語にもこれなき由』と賞賛されたほどでした。
赤備えは本当にそれに相応しい軍しか使えないモノだったんですよ。
写真はそこで売られていたクリアファイル。
井伊家といえば赤備えと言う風に思いつく方もたくさん居られる事だと思いますが、一概に赤備えと言っても同じ彦根藩主の中でも色々違います。
そんな違いは勿論の事、世子のまま藩主になる事が無かった井伊直滋・直清・直元の甲冑も見る事ができ、且つ有力な家臣の甲冑も目にする事ができるんですよ。
さて、赤備えの話
最初に赤備えを使ったのが甲斐(山梨県)の武田信玄の家臣・飯富虎昌(通称:飯富兵部)で、虎昌の死後に弟の山県昌景に受け継がれたのです。
1582年、武田家が織田信長によって滅ぼされ、その前に長篠の戦いで戦死していた昌景の赤備え軍団も解散を余儀なくされます。しかし、同じ年に起った本能寺の変で信長が亡くなり、甲斐は徳川家康の支配下となりました。
ここで武田軍が再雇用され、家康の直臣・木俣守勝を総大将として井伊直政に預けられたのでした。
この時点では『井伊軍の木俣の赤備え』だったのです。しかし、やがて井伊軍全てが赤で統一されるようになりました。
この事に敬意を表して、井伊直政は“兵部少輔”を私称しています。
赤備えは戦場で目立つ為に、卑怯な行為ができず勇気を試され、大将が戦場で傷を負っても血が目立たないので部下の士気を下げないと言う利点があったのです。
1600年、関ヶ原の戦いでは少数の兵で敵に攻め込んで戦いの口火を切った井伊軍は赤備えに恥じない働きをし、直政自身も命に関わる鉄砲傷を負ってまで戦ったのです。
1614~1615年の2回の大坂の陣では直政の息子・直孝が活躍し“夜叉掃部”という異名まで付けられ、以降、井伊家は『赤鬼』と呼ばれるようになったのです。
ちなみに、戦国時代にはもう1つ有名な赤備えがあります。
直孝が活躍した大坂の陣で敵方として戦った真田幸村の赤備えです。幸村はこの戦いで2度も徳川家康を追い詰めて、『真田は日本一の兵(つわもの) 古よりの物語にもこれなき由』と賞賛されたほどでした。
赤備えは本当にそれに相応しい軍しか使えないモノだったんですよ。