彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

3月3日、桜田門外の変

2007年03月03日 | 何の日?
安政7(1860)年3月3日、新暦にすると3月24日。桃の節句の言葉の通り桃の匂いが香る春の日になる筈でしたが、この日の江戸は早朝から雪が舞う珍しい一日になったのです。

桃の節句は女性のお祭りでもあるので、祝辞を述べるために江戸在住の大名は登城するしきたりとなっていました。

大老・井伊直弼が総勢60余名の供回りを従えて、井伊家上屋敷から出たのは午前9時の事でした。春の湿った雪に覆い尽くされた道を江戸城桜田門に向かう約500メートルを直弼一行は駆け足で進みました。
これは、もし何か変事があった時に駆け足で登城すると周囲に変事を気付かれてしまうために幕府高官は日頃から駆け足登城が常識だったためでした。

しかし、直弼一行が江戸城に辿り着く事はありませんでした。
もう少しで桜田門に到着するという直前、直弼の行列の先頭に一人の男が太い声で「お願いの儀がございます!」と叫んで近づいてきたのです。
行列の先頭にいた日下部三左衛門と沢村軍六がこの男を静止しようと近寄った瞬間に男とその仲間によって斬り殺されたのでした(日下部は藩邸の運ばれた後に死亡)。

そして、一発の銃声が鳴り響いたのです。
この銃声を合図に17人の水戸浪士と1人の薩摩浪士が行列に襲い掛かりました。
応戦するべき彦根藩士は、雪の為に雨合羽を着用し、刀には柄袋を被せていた為にサッと刀を抜く事が出来ませんでした、その間に18人の浪人たちが彦根藩士を次々に斬って行ったのです。
浪士たちが直弼の乗る駕籠に近づく間、直弼は駕籠から出てきませんでした、最初の銃声の時に左腿を撃たれて下半身の機能を失って居たとも言われています。

やがて、駕籠の傍を守っていた河西忠左衛門が倒れると直弼周りに彦根藩士が居なくなったのです・・・
寒さと出血で意識が遠くなる直弼の横に刀が突き刺されますが、この一撃をかわしたのでした。
直弼は自ら流派を起こすほどの居合の名人だったため、無意識の意識の中で自らを守ったのかも知れません。

しかし、次に背中から突かれた一撃は、直弼の身体を貫き、その切っ先は胸の前に突き出たのです。
その後も何回も直弼は突き刺されたのでした。

ここで薩摩浪人・有村次左衛門が駕籠の引き戸を開けて直弼を乱暴に外に引っ張りだしました。
鉄砲傷と突き傷で動く力も無くなっていた直弼に対して、浪士たちがまた何度も斬り付けた後、次左衛門が直弼の首を斬り落としたのです。
銃声が聞こえてから直弼の首が切り落とされるまで当時の記録で「喫烟ニ服」。
今の時間に直すと3分とも10分とも言われています。

その頃、井伊家上屋敷に居た直弼の側役・宇津木六之丞に桜田門外での異変が伝えられました。
六之丞が急いで現場に駆けつけた時には既に直弼の首が持ち去られ、雪の中胴体が無残に転がっていたのでした。そしてその着物から
“さきがけし 猛き心の花ふさは 散りてぞ いとど香に 匂ひける”
という死を覚悟した辞世の句が出てきたのです。

直弼は、登城前に浪人たちの襲撃を知らせた匿名の文を受け取っていたと言われています。しかし、そうでありながらも幕府最高権力者として逃げる訳にはいかなかったのでした。

彦根藩邸にいた藩士たちは、現場に駆けつけた後、悲しむ気持ちを押し込めながらも現場の処理を行い、1時間後には後片付けが終わっていたそうですが、現場に散乱していたのは無残に斬られた指や鼻や耳だったそうです。
80名近い武士たちが狭い場所で闘っていた為に残った激闘の名残ともいえますね。


直弼暗殺は、今で言うなら内閣総理大臣よりも絶対的な権力をもった人物が大勢のニートに囲まれて袋叩きにあって殺されるような事件でした。
しかもその主張は、「お前の政治が悪いから俺らが働けないねん」くらい身勝手な主張と変わらなかったのです。

直弼の死はしばらく伏せられていて、病として幕府に届出があり、幕府から形ばかりの見舞いの使者も出たのです。
そして約2ヵ月後の閏3月晦日にやっと死が発表されたのでした。


結局この事件は幕府の権力が失墜した象徴となり、この後幕府は坂道を転がり落ちるように倒れていくのです。


ちなみに、彦根藩がこの後に白昼で藩主の首を取られた不名誉で10万石を減らされます。このため名誉回復の為に働き回った事は『雛と雛道具』の項でも少し触れましたが、桜田門外の変の2年後には彦根で政変が起こって、直弼の側近だった長野主膳や宇津木六之丞が斬首になります。
そして同じ年に桜田門外の変の時に無傷で藩邸の戻った数名の藩士が斬首になっているのです、藩は武士としての名誉をも必要としたのですね。
これらの努力が認められたのか、後に5万石が幕府から戻されたのです。

そして、彦根藩では上巳の節句を祝う事が無くなり、今でも彦根市内の一部の旧家ではその伝統が続いているそうです。
コメント
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