彦根城には2つの三重櫓がありました。
一つは山崎曲輪にありましたが現存していません、そしてもう一つが今もその姿を観る事ができる西ノ丸の三重櫓です。
山崎曲輪が築城当時、筆頭家老・木俣守勝の屋敷があった所だと以前に書きましたが、この西ノ丸三重櫓は築城時は守勝に預けられていて、守勝は月20日くらいここで政務を行っていたそうです。
つまり、天守以外の三重の建物は木俣家の管轄下にあった事になります。
江戸時代初期に木俣家が彦根藩内でどれほどの力を持っていたのかを窺い知る事ができますね。
でも、今見ている西ノ丸三重櫓の姿は黒船来航の年の嘉永6(1853)年に土台から替える修理工事が行われたあとの姿なので、その前がどんな建物だったのかははっきりとは解っていないんですがね。
さてさて、彦根城には築城時に近江国内の城から移築してきた建物や資材が使われている話を何度も書いていますが、この西ノ丸三重櫓は浅井長政の小谷城から移築したものと伝えられていました。
しかし、長政の時代にはこのような多聞櫓を持つ形式の建物はなく(移築といっても資材を再活用するだけなので、元の形は関係ないのですが、全く違うのもおかしい)、小谷城落城から彦根城築城まで30年以上の差があることから、もし建物の資材が残っていたとしても使える状態ではないのではないかとも考えられていました。
昭和37年に解体修理による調査を行った結果、西ノ丸三重櫓には移築された痕跡がなく、ここで新築されたのではないか?と言う結果になったのです。
では、なぜ小谷城移築説があるのでしょうか?
実は、井伊家の記録の中に「瓦を小谷の土を使って焼いた」という記録があり、後世になってこれが小谷城移築という話になった可能性が高いと考えられているのです。
一つは山崎曲輪にありましたが現存していません、そしてもう一つが今もその姿を観る事ができる西ノ丸の三重櫓です。
山崎曲輪が築城当時、筆頭家老・木俣守勝の屋敷があった所だと以前に書きましたが、この西ノ丸三重櫓は築城時は守勝に預けられていて、守勝は月20日くらいここで政務を行っていたそうです。
つまり、天守以外の三重の建物は木俣家の管轄下にあった事になります。
江戸時代初期に木俣家が彦根藩内でどれほどの力を持っていたのかを窺い知る事ができますね。
でも、今見ている西ノ丸三重櫓の姿は黒船来航の年の嘉永6(1853)年に土台から替える修理工事が行われたあとの姿なので、その前がどんな建物だったのかははっきりとは解っていないんですがね。
さてさて、彦根城には築城時に近江国内の城から移築してきた建物や資材が使われている話を何度も書いていますが、この西ノ丸三重櫓は浅井長政の小谷城から移築したものと伝えられていました。
しかし、長政の時代にはこのような多聞櫓を持つ形式の建物はなく(移築といっても資材を再活用するだけなので、元の形は関係ないのですが、全く違うのもおかしい)、小谷城落城から彦根城築城まで30年以上の差があることから、もし建物の資材が残っていたとしても使える状態ではないのではないかとも考えられていました。
昭和37年に解体修理による調査を行った結果、西ノ丸三重櫓には移築された痕跡がなく、ここで新築されたのではないか?と言う結果になったのです。
では、なぜ小谷城移築説があるのでしょうか?
実は、井伊家の記録の中に「瓦を小谷の土を使って焼いた」という記録があり、後世になってこれが小谷城移築という話になった可能性が高いと考えられているのです。