03/4/15海保 03/5/16日締切り
児童心理 2003年8月号
「やり抜く力が育つために」
できばえで評価する
---ワークリミットをいかに導入するか
かいほひろゆき
筑波大学教授 海保博之
「時間なんか気にすることはない。セルフペースで納得がいくまでやればよい。周囲にはちょっと迷惑をかけることになるが。」
●あってなきがごとしの締め切り
これまでに、13冊の本を編集してきた。そのたびごとに、執筆者にいかにして原稿提出の締切り(タイムリミット)を守ってもらうかに腐心させられてきた。「催促されてから(締切りを過ぎてから)書きはじめる」と豪語している人がごろごろいるからである。
締切りを守る守らないは、書いてもらう内容の良し悪し(できばえ)にはあまり関係ない。そこで、図に示すようなタイプ分けをひそかにして、それなりに秘術を尽くしての催促をしてきた。
*****pp1 別添
図1 ワークリミットとタイムリミットとを組合わせてみると
************
執筆者を選ぶときには、まずは、あるレベル以上のできばえのものを書いてくれる人をとなる。それは、過去に書いたものや研究歴をみればだいたい見当がつく。しかし、タイムリミット感覚のある人か否かは、あらかじめ知ることは無理である。(ある出版社にはブラックリストがあるとの話も聞く。)かくして、編集者泣かせの執筆者がどうしても紛れ込んでしまう。そして、本の完成は、最も遅い人次第となってしまう。
●タイムリミットとワークリミットのせめぎあい(注1)
子どもを育てる過程で、「急いで」「速く」「遅れるな」「時は金なり」などなど、タイムリミットを強調する叱責や督励の決まり文句を、保護者や教師は頻発する。一定時間内に何かをしなくてはいけないとの規範感覚(タイムリミット感覚)、さらに、一定時間内にできるだけたくさんのことをこなせる能力(タイムリミット能力)を育てることは、子どもを社会化していく基盤の一つであるし、さらに、集団として動く教育現場における統制をとるためにも、絶対に必要である。
しかし、人の心や行動は、物理的な(時計的な)時間だけではなく、それとは別のオーダーで流れている心理的な時間にも従っている。(注2)しかも、セルフペース、マイペースという言葉があるように、心理的時間のオーダーには個人差もある。子どもでは、この点の個人差は極めて大きい。
そこに、タイムリミット感覚・能力を育てる難しさがある。
この難しさに拍車をかけるのが、「できたけれども納得がいかない」「もっとやりたい」「もうちょっとでできるから待って」といった言説に反映されるような、ワークリミット感覚である。つまり、時計時間に縛られないで納得のいくまで何かをやり抜きたいとの思いである。
かくして、タイムリミットとワークリミットのせめぎあいが教育現場の随所で、しばしば発生することになる。
教育現場では、圧倒的にタイムリミットが支配することになる。これは、能力の高い子どもには、「時間があればもっと高いあところまで行けたのに」という不全感を、能力の低い子どもには「時間がないからできなかった」という逃げ場を提供することにもなりかねない。
******ppt
図2 別添
*******
●ワークリミット感覚を育てる
教育現場では、持てる能力一杯までがんばってやる、ワークリミットの導入には厳しい限界があるのは言うまでもない。
しかし、タイムリミット感覚・能力の育成が圧倒的に強くなってしまうと、勉強やスポーツへの動機づけ、さらには、それらの質の高度化ができなくなってしまう恐れがある。
限定的にでも、「やり抜く」あるいは「やり抜いた」というワークリミット感覚を与えられる場と機会を提供して、子どもに心の底から満足感、充実感を与え、さらには、やったことの質を一段上のレベルにまで高めることにつながるようにする配慮もあってもよい。
では、具体的にはどんな配慮をすべきであろうか。
一つには、できばえをどうするか。2つには、タイムリミットにとらわれなくてもよい状況をどのように教育現場に作り込むかがポイントになる。
●「できばえ」をめぐって
絶対評価(目標準拠評価)が小中学校にも導入されるようになった。そこでは、何が(評価の観点)どこまでできるようになったか(達成度)で子どもの学習活動が評価されるようになった。まさに、できばえ規準が導入されたのである。
このように、できばえ規準が外部(カリキュラム)から提供されるところでは、それをめざしてのきめ細かい教授学習活動が期待できる。
しかし、できばえ規準には、もう一つ、それぞれの子どもなりのもの、つまり、できばえについての個人内規準もある。
それは、ハイレベルになると、職人による仕事のできばえの自己評価にみられるように、強烈な納得感を伴った規準であるし、逆に、ローレベルだと、「こんな状況ではこの程度できればよい」との合理化された(言い訳じみた)自己満足感を伴った規準である。
前者は、タイムリミット無視の学習活動になるし、後者は、タイムリミットが合理化の強力な理由になる。ちなみに、原稿の提出遅れの人々にも、この両者がいるので編集者泣かせとなる。
さて、できばえ評価をするときには、外部規準を過度に押しつけると、ハイレベルの(天才的な)個人内規準をもっている子どもにとっては、より発展的な学習活動への足かせになってしまうこともある。また、ローレベルの個人内規準をもっている子どもにとっては、やっても無駄という無力感の形成へとつながってしまう恐れがある。
こうした点を克服するためには、領域分けをして、それぞれで異なった評価システムを導入することであろう。 つまり、目標規準を外部に明確に定義できる教科では、目標準拠評価をする。しかし、総合的な学習や部活や技能芸術教科などでは、できばえについての個人内規準に従う評価を導入するのである。
これによって、その子どもなりのできばえ規準が形成できるようになり、その子どもなりのワークリミット感覚が養えることが期待できる。
これは、タイムリミットの支配する教育ではどうしても無視されてしまう、もう一つの教育目標と評価の領域を生みだことになる。そこでは、保護者や教師は、名伯楽としての技量が求められることになる。
余談になるが、多彩な学習活動を一括して同じ評価のまな板にのせてしまう日本の教育界の風潮に対して、こうした領域分けの発想は、もっとその場を得ても良いのではないかと常々思っている。「すべての教科で絶対評価」「すべてにおいて相対評価の追放」は行過ぎであるし、無理がある。
●タイムリミットの呪縛をどうする
言いえて妙だと思うが、「時間」割りという言葉に象徴されるように、教育現場はタイムリミットが、呪縛とさえ言ってもよいくらいに強く支配している。心理的時間とのギャップが大きい子どもは、学校不適応さえ起こしかねない。天才の伝記には、何かにこだわり続けてしまいタイムリミットを忘れて学校からつまはじきにされるエピソードがしばしば紹介されている。
ここでも、領域分け的な発想が有効と思われるが、それに加えて、次のようなかたちでのワークリミットの導入があってもよい。
一つは、タイムリミットの限界を大まかにすることである。
1週間、1か月単位での到達目標を示し、そこに到達するまでの過程は、それぞれの子どものセルフペースにまかせるのである。
時間を大まかにすることで、タイムよりもワークのほうをより意識させることができるし、セルフペースによる学習は、時間管理を自らがおこなう力をつけるのにも効果的である。「天才は100年単位で生きている」(1)はおおげさにしても、もう一つの時間があることをじっくりと体験させることもあってよい。
2つは、熱中体験、忘我体験を導入することである。
タイムリミットが支配する場では、こうした体験は、抑制されがちである。しかし、学習活動の質を高めるためには、我を忘れて熱中する体験も不可欠である。自然の中での体験学習や集団の中で学習で、そんな体験を作り込むのが王道であろうが、最近では、コンピュータの表示・応答技術を使った教材のほうが、現実的で効果的かもしれない。
●ワークリミット型の子どもとタイムリミット型の子ども
領域分けをして、ワークリミットとタイムリミットを使い分けることを提案したが、さらにもう一つ、この観点から子どもをタイプ分けしてみるのも、教育指導上、効果があるように思う。
ワークリミット型の子どもとは次のような行動特徴を示す子どもである。
・時間を守らない ・できばえにこだわりを持つ
・のろい ・マイペース
・しつこい自己主張 ・素直でない
・ルール軽視 ・自閉的
この反対の行動特徴を示すのがタイムリミット型の子どもである。
言うまでもなく、ワークリミット型の子どもは、学校では分が悪い。しかし、こうした子どもの中に潜在する、ワークの独創性の芽は、本人にとっても、またタイムリミットに縛られている周囲の子どもにとっても、貴重である。教室の雰囲気の硬直化を防ぐためにも活かせる。
******以下4行は、はみ出るときは、削除してよい****
最後に、斉藤の著作(1)からもう一つの名言を引用しておく。
「ピカソは、いかに始めるかについては知っているものの、どのように終わるかについては、まったく知らない。」
****
注1)知能検査や学力検査に、タイムリミット(時間制限)検査とワークリミット(作業制限)検査とがある。前者は、一定時間内に出来た個数を指標とする検査、後者は、どれくらい難しい問題まで解けたかを指標とするものである。本稿では、これを敷延して、子どものやり抜く力を育てるにはどうしたらよいかを考えてみる。
注2)物理的時間と心理的時間との間に、生理的時間がある。これについては、本稿では触れないが、無視はできない問題もある。
****
文献
(1)斎藤孝「天才の読み方」大和書房、2003
児童心理 2003年8月号
「やり抜く力が育つために」
できばえで評価する
---ワークリミットをいかに導入するか
かいほひろゆき
筑波大学教授 海保博之
「時間なんか気にすることはない。セルフペースで納得がいくまでやればよい。周囲にはちょっと迷惑をかけることになるが。」
●あってなきがごとしの締め切り
これまでに、13冊の本を編集してきた。そのたびごとに、執筆者にいかにして原稿提出の締切り(タイムリミット)を守ってもらうかに腐心させられてきた。「催促されてから(締切りを過ぎてから)書きはじめる」と豪語している人がごろごろいるからである。
締切りを守る守らないは、書いてもらう内容の良し悪し(できばえ)にはあまり関係ない。そこで、図に示すようなタイプ分けをひそかにして、それなりに秘術を尽くしての催促をしてきた。
*****pp1 別添
図1 ワークリミットとタイムリミットとを組合わせてみると
************
執筆者を選ぶときには、まずは、あるレベル以上のできばえのものを書いてくれる人をとなる。それは、過去に書いたものや研究歴をみればだいたい見当がつく。しかし、タイムリミット感覚のある人か否かは、あらかじめ知ることは無理である。(ある出版社にはブラックリストがあるとの話も聞く。)かくして、編集者泣かせの執筆者がどうしても紛れ込んでしまう。そして、本の完成は、最も遅い人次第となってしまう。
●タイムリミットとワークリミットのせめぎあい(注1)
子どもを育てる過程で、「急いで」「速く」「遅れるな」「時は金なり」などなど、タイムリミットを強調する叱責や督励の決まり文句を、保護者や教師は頻発する。一定時間内に何かをしなくてはいけないとの規範感覚(タイムリミット感覚)、さらに、一定時間内にできるだけたくさんのことをこなせる能力(タイムリミット能力)を育てることは、子どもを社会化していく基盤の一つであるし、さらに、集団として動く教育現場における統制をとるためにも、絶対に必要である。
しかし、人の心や行動は、物理的な(時計的な)時間だけではなく、それとは別のオーダーで流れている心理的な時間にも従っている。(注2)しかも、セルフペース、マイペースという言葉があるように、心理的時間のオーダーには個人差もある。子どもでは、この点の個人差は極めて大きい。
そこに、タイムリミット感覚・能力を育てる難しさがある。
この難しさに拍車をかけるのが、「できたけれども納得がいかない」「もっとやりたい」「もうちょっとでできるから待って」といった言説に反映されるような、ワークリミット感覚である。つまり、時計時間に縛られないで納得のいくまで何かをやり抜きたいとの思いである。
かくして、タイムリミットとワークリミットのせめぎあいが教育現場の随所で、しばしば発生することになる。
教育現場では、圧倒的にタイムリミットが支配することになる。これは、能力の高い子どもには、「時間があればもっと高いあところまで行けたのに」という不全感を、能力の低い子どもには「時間がないからできなかった」という逃げ場を提供することにもなりかねない。
******ppt
図2 別添
*******
●ワークリミット感覚を育てる
教育現場では、持てる能力一杯までがんばってやる、ワークリミットの導入には厳しい限界があるのは言うまでもない。
しかし、タイムリミット感覚・能力の育成が圧倒的に強くなってしまうと、勉強やスポーツへの動機づけ、さらには、それらの質の高度化ができなくなってしまう恐れがある。
限定的にでも、「やり抜く」あるいは「やり抜いた」というワークリミット感覚を与えられる場と機会を提供して、子どもに心の底から満足感、充実感を与え、さらには、やったことの質を一段上のレベルにまで高めることにつながるようにする配慮もあってもよい。
では、具体的にはどんな配慮をすべきであろうか。
一つには、できばえをどうするか。2つには、タイムリミットにとらわれなくてもよい状況をどのように教育現場に作り込むかがポイントになる。
●「できばえ」をめぐって
絶対評価(目標準拠評価)が小中学校にも導入されるようになった。そこでは、何が(評価の観点)どこまでできるようになったか(達成度)で子どもの学習活動が評価されるようになった。まさに、できばえ規準が導入されたのである。
このように、できばえ規準が外部(カリキュラム)から提供されるところでは、それをめざしてのきめ細かい教授学習活動が期待できる。
しかし、できばえ規準には、もう一つ、それぞれの子どもなりのもの、つまり、できばえについての個人内規準もある。
それは、ハイレベルになると、職人による仕事のできばえの自己評価にみられるように、強烈な納得感を伴った規準であるし、逆に、ローレベルだと、「こんな状況ではこの程度できればよい」との合理化された(言い訳じみた)自己満足感を伴った規準である。
前者は、タイムリミット無視の学習活動になるし、後者は、タイムリミットが合理化の強力な理由になる。ちなみに、原稿の提出遅れの人々にも、この両者がいるので編集者泣かせとなる。
さて、できばえ評価をするときには、外部規準を過度に押しつけると、ハイレベルの(天才的な)個人内規準をもっている子どもにとっては、より発展的な学習活動への足かせになってしまうこともある。また、ローレベルの個人内規準をもっている子どもにとっては、やっても無駄という無力感の形成へとつながってしまう恐れがある。
こうした点を克服するためには、領域分けをして、それぞれで異なった評価システムを導入することであろう。 つまり、目標規準を外部に明確に定義できる教科では、目標準拠評価をする。しかし、総合的な学習や部活や技能芸術教科などでは、できばえについての個人内規準に従う評価を導入するのである。
これによって、その子どもなりのできばえ規準が形成できるようになり、その子どもなりのワークリミット感覚が養えることが期待できる。
これは、タイムリミットの支配する教育ではどうしても無視されてしまう、もう一つの教育目標と評価の領域を生みだことになる。そこでは、保護者や教師は、名伯楽としての技量が求められることになる。
余談になるが、多彩な学習活動を一括して同じ評価のまな板にのせてしまう日本の教育界の風潮に対して、こうした領域分けの発想は、もっとその場を得ても良いのではないかと常々思っている。「すべての教科で絶対評価」「すべてにおいて相対評価の追放」は行過ぎであるし、無理がある。
●タイムリミットの呪縛をどうする
言いえて妙だと思うが、「時間」割りという言葉に象徴されるように、教育現場はタイムリミットが、呪縛とさえ言ってもよいくらいに強く支配している。心理的時間とのギャップが大きい子どもは、学校不適応さえ起こしかねない。天才の伝記には、何かにこだわり続けてしまいタイムリミットを忘れて学校からつまはじきにされるエピソードがしばしば紹介されている。
ここでも、領域分け的な発想が有効と思われるが、それに加えて、次のようなかたちでのワークリミットの導入があってもよい。
一つは、タイムリミットの限界を大まかにすることである。
1週間、1か月単位での到達目標を示し、そこに到達するまでの過程は、それぞれの子どものセルフペースにまかせるのである。
時間を大まかにすることで、タイムよりもワークのほうをより意識させることができるし、セルフペースによる学習は、時間管理を自らがおこなう力をつけるのにも効果的である。「天才は100年単位で生きている」(1)はおおげさにしても、もう一つの時間があることをじっくりと体験させることもあってよい。
2つは、熱中体験、忘我体験を導入することである。
タイムリミットが支配する場では、こうした体験は、抑制されがちである。しかし、学習活動の質を高めるためには、我を忘れて熱中する体験も不可欠である。自然の中での体験学習や集団の中で学習で、そんな体験を作り込むのが王道であろうが、最近では、コンピュータの表示・応答技術を使った教材のほうが、現実的で効果的かもしれない。
●ワークリミット型の子どもとタイムリミット型の子ども
領域分けをして、ワークリミットとタイムリミットを使い分けることを提案したが、さらにもう一つ、この観点から子どもをタイプ分けしてみるのも、教育指導上、効果があるように思う。
ワークリミット型の子どもとは次のような行動特徴を示す子どもである。
・時間を守らない ・できばえにこだわりを持つ
・のろい ・マイペース
・しつこい自己主張 ・素直でない
・ルール軽視 ・自閉的
この反対の行動特徴を示すのがタイムリミット型の子どもである。
言うまでもなく、ワークリミット型の子どもは、学校では分が悪い。しかし、こうした子どもの中に潜在する、ワークの独創性の芽は、本人にとっても、またタイムリミットに縛られている周囲の子どもにとっても、貴重である。教室の雰囲気の硬直化を防ぐためにも活かせる。
******以下4行は、はみ出るときは、削除してよい****
最後に、斉藤の著作(1)からもう一つの名言を引用しておく。
「ピカソは、いかに始めるかについては知っているものの、どのように終わるかについては、まったく知らない。」
****
注1)知能検査や学力検査に、タイムリミット(時間制限)検査とワークリミット(作業制限)検査とがある。前者は、一定時間内に出来た個数を指標とする検査、後者は、どれくらい難しい問題まで解けたかを指標とするものである。本稿では、これを敷延して、子どものやり抜く力を育てるにはどうしたらよいかを考えてみる。
注2)物理的時間と心理的時間との間に、生理的時間がある。これについては、本稿では触れないが、無視はできない問題もある。
****
文献
(1)斎藤孝「天才の読み方」大和書房、2003
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます