日本の12人のパイロット列伝である。
最終章は、ライト兄弟以来百年間の航空機発達史を語る。
たとえば、冒頭の「ハイジャック余話」。1973年、日本航空ジャンボJA8109号機、アムステルダム発、東京行きがハイジャックされた。その副操縦士、高木修の怒りに燃える87時間を伝える。ちなみに、これまでに日本航空は10回、全日空は9回ハイジャックされているというから、意外と多い。
あるいは、飛行機を町づくりに役立てた坂口行治、米国はサンノゼで飛行学校を経営する脇田祐三など、大空と翼に魅せられた男たちの一途な思いと行動が描かれる。海難に際して深夜に出動する航空救難団の活躍もある。
ヒコーキ野郎ばかりではない。紅一点、堀越深雪も紹介される。サン=テグジュペリを愛する少女は、親の猛反対、厳しい訓練、女性パイロット敬遠の風潮をくぐり抜けて、母校の航空大学校の操縦教官となったのだ。
読んでさわやかな話ばかりである。初志貫徹する彼らの実行力は頼もしいかぎりだ。乗客の命をあずかる機長は、こうでなくてはならない。
ただ、少々気になるのは、十五年戦争に係る記述である。日本航空の元機長、三橋孝の小伝はその従軍時代にふれるが、「開戦当初の日本軍による破竹の勢いだった戦局は陰をひそめ」「日本不敗の神話が崩れ去った」といった調子で、戦中に流布した紋切り型の残響がある。併せて語られる敗兵の悲惨な体験から学んでいるならば、「日本軍による破竹の勢い」が侵攻先の住民にどのような結果を与えたか、あるいは「不敗の神話」なぞ彼我の戦力の差からして最初から幻想にすぎなかったことを身をもって知ったはずだ。承知のうえで、あえてステレオタイプを採用しているのは、軍人でも軍属でもなく嘱託だった、という立場からくるものか。あるいは、超然と虚空を行くパイロットの特性からくるものか。
□徳田忠成『機長席への招待状』(イカロス出版、2000)
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最終章は、ライト兄弟以来百年間の航空機発達史を語る。
たとえば、冒頭の「ハイジャック余話」。1973年、日本航空ジャンボJA8109号機、アムステルダム発、東京行きがハイジャックされた。その副操縦士、高木修の怒りに燃える87時間を伝える。ちなみに、これまでに日本航空は10回、全日空は9回ハイジャックされているというから、意外と多い。
あるいは、飛行機を町づくりに役立てた坂口行治、米国はサンノゼで飛行学校を経営する脇田祐三など、大空と翼に魅せられた男たちの一途な思いと行動が描かれる。海難に際して深夜に出動する航空救難団の活躍もある。
ヒコーキ野郎ばかりではない。紅一点、堀越深雪も紹介される。サン=テグジュペリを愛する少女は、親の猛反対、厳しい訓練、女性パイロット敬遠の風潮をくぐり抜けて、母校の航空大学校の操縦教官となったのだ。
読んでさわやかな話ばかりである。初志貫徹する彼らの実行力は頼もしいかぎりだ。乗客の命をあずかる機長は、こうでなくてはならない。
ただ、少々気になるのは、十五年戦争に係る記述である。日本航空の元機長、三橋孝の小伝はその従軍時代にふれるが、「開戦当初の日本軍による破竹の勢いだった戦局は陰をひそめ」「日本不敗の神話が崩れ去った」といった調子で、戦中に流布した紋切り型の残響がある。併せて語られる敗兵の悲惨な体験から学んでいるならば、「日本軍による破竹の勢い」が侵攻先の住民にどのような結果を与えたか、あるいは「不敗の神話」なぞ彼我の戦力の差からして最初から幻想にすぎなかったことを身をもって知ったはずだ。承知のうえで、あえてステレオタイプを採用しているのは、軍人でも軍属でもなく嘱託だった、という立場からくるものか。あるいは、超然と虚空を行くパイロットの特性からくるものか。
□徳田忠成『機長席への招待状』(イカロス出版、2000)
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免疫学者にして新作能作者の多田富雄と社会学者にして歌人の鶴見和子の往復書簡集である。期間は、2002年5月31日から2003年3月20日まで。それぞれ4信ずつ、計8信が交換された。
碩学によるやりとりはじつに刺激的で、巻をおくあたわず、といって過言でない。丸谷才一は、対話とは「共同作業による真実の探求みたいなものだ」といっている(丸谷才一・山崎正和『半日の客一夜の友』、文春文庫、1998)。本書にも「共同作業」が見てとれる。
たとえば、「自己」の概念。多田は細胞の階層を越える進化も「自己組織化」の原理で説明できるとし、鶴見は人間が階層を超えるためには「自己」という接点があるといい、認識が一致していることに多田は感嘆している。
ところで、専攻する学問は異なるが、二人には共通の要素がある。すなわち、重度の身体障害である。
往復書簡がはじまったころの二人は、つぎのような状況にあった。
多田は、2001年5月2日(67歳)、脳梗塞発病。即日金沢大学医学部付属病院入院。重度の右片麻痺、嚥下障害、構音障害。都立駒込病院、東京都リハビリテーション病院を転々とした。10か月後に退院。東京大学医学部付属病院に週2回通院し(歩行訓練等)、併せて都立大塚病院に週1回通院していた(構音の訓練)。
鶴見は、1995年12月24日(77歳)、脳出血発病。左片麻痺。1997年、会田記念病院(茨城県守谷町)で、「目的志向型のリハビリ」を開始。同年、補助具を装用して数十メートル歩行可能なまで回復。その後歩行距離は伸びた。しかし、2002年5月31日に、往復書簡の第一信をしたためたとき、その直前に転倒して大腿骨を骨折していた(のちに手術を受けたが、歩行困難となった)。
要するに、二人とも脳血管障害による半身不随で、リハビリテーション中だったのだ。両者とも知的能力は保持されたが、多田は左脳、鶴見は右脳を損傷したので、残存機能が異なる。多田は、重度の構音障害のため発語がなく、入院中に習いおぼえたワープロを自己表現の主な手段としていた。他方、鶴見は、言語能力は保持され、闘病中もおうせいに著作活動を展開していた。
まえがきに相当する冒頭の二人の文章のうち、鶴見の「回生」が興味深い。障害を逆手にとって、かねてから研究していた「内発的発展論」を深化させているのだ。
第一、闘病と伝統的短詩型文学との親和。
倒れてからいっときも意識をうしなうわず、その晩からことばが短歌のかたちで湧きだしてきた、という。その後の書簡によれば、短歌は発想の源泉となったらしい。
俳句、川柳、連句、短歌は、リハビリテーションと相性がよいらしい。全国各地の病院や老人保健施設などで実施されているし、脳梗塞で倒れた野坂昭如は、『ひとり連句春秋』(ランダムハウス講談社、2009)という本まで出している。鶴見は知ってか知らずか、芸術療法を自分で自分に対して施行したわけだ。
第二、障害と自然との親和。
鶴見は、ふたたび歩きはじめた1997年が「回生」元年だ、という。人類が直立して歩行した意義を再発見しているのだ。ふたたび歩きはじめてから、全身に酸素がゆきわたる感じで、頭がはっきりし、ひらめきがぽっぽこ出てくるようになったらしい。歩けない場合と歩く場合とでは文化がちがう、ものの見え方がちがう、とまでいう。
健康なときは、常に競争相手を意識して仕事をし、マックス・ウェーバーのいわゆる「金力・名声・権力」をめざす競争を多かれ少なかれやってきた。しかし、死者と生者が半々に自分のなかにある状況になって、自然の事物が鋭敏に感じ取られるようになったのだ。ここから共生の思想まで遠くない。
往復書簡から補足すると、日々の天候により足の痺れぐあい、痛みぐあいが時々刻々ちがうから、それだけ自分は自然に近くなった、という。「山川草木鳥獣虫魚のふるまいから自分が学ぶ」ことが初めてできるようになり、これが「新しい人生」を形づくったのだ。
第三、鶴見社会学の深化。
会田記念病院では患者の自己決定権にもとづくオーダーメイドの「積極的リハビリテーション・プログラム」(上田敏)に即して訓練を受けたのだが、倒れる前には理屈として考えていた「内発的発展論」が実感として体得できた、という。
社会の発展の理論は、「人間の発展の理論」でもある、と断じる。80歳を超えてなお「発展」を旗印としてかかげるのだ。後進への励ましでないはずはない。さらに、一番の弱者の立場から日本を開いていく「内発的発展論」というのがある、ともいう。ここで一番の原動力となるのがアニミズムだ、とも。ここにも共生への志向が見受けられる。
往復書簡から補足すると、鶴見は左片麻痺の回復はあり得ないと宣告され、新しい人生を切り拓くと覚悟を決めた。そして、アメリカ社会学からの借り物のことばを捨て、やまとことばで語るようになった。
第四、学問と道楽の親和。
歌、踊り、着物は鶴見の道楽だったが、「内発的発展論」はこれら三つの道楽によって育まれた感性の所産であった。道楽と学問とのつながりを覚ったのは死に至る病のおかげだった、という。ここでも障害を逆手にとって新たな発見をしている。
脳血管障害は加齢とともに発生率が高まる。事は脳血管障害にかぎらない。大岡昇平も晩年は心臓弁膜症に悩まされた。そして、誰しも齢をとるのだから、人はいつかは障害のある身となる可能性が高い。いや、疾患にかぎらず、年齢を問わず、過労、労働災害や交通事故で障害をもつにいたることもある。
したがって、問題は障害者にならないことではない。ひとたび体が不自由になったとき、どう対処するかである。
この往復書簡は、重度身体障害に陥った者の見事な対処をしめす。げにも「魂は物質に抵抗するものである」(アラン)。
□多田富雄/鶴見和子『邂逅』(藤原書店、2003)
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碩学によるやりとりはじつに刺激的で、巻をおくあたわず、といって過言でない。丸谷才一は、対話とは「共同作業による真実の探求みたいなものだ」といっている(丸谷才一・山崎正和『半日の客一夜の友』、文春文庫、1998)。本書にも「共同作業」が見てとれる。
たとえば、「自己」の概念。多田は細胞の階層を越える進化も「自己組織化」の原理で説明できるとし、鶴見は人間が階層を超えるためには「自己」という接点があるといい、認識が一致していることに多田は感嘆している。
ところで、専攻する学問は異なるが、二人には共通の要素がある。すなわち、重度の身体障害である。
往復書簡がはじまったころの二人は、つぎのような状況にあった。
多田は、2001年5月2日(67歳)、脳梗塞発病。即日金沢大学医学部付属病院入院。重度の右片麻痺、嚥下障害、構音障害。都立駒込病院、東京都リハビリテーション病院を転々とした。10か月後に退院。東京大学医学部付属病院に週2回通院し(歩行訓練等)、併せて都立大塚病院に週1回通院していた(構音の訓練)。
鶴見は、1995年12月24日(77歳)、脳出血発病。左片麻痺。1997年、会田記念病院(茨城県守谷町)で、「目的志向型のリハビリ」を開始。同年、補助具を装用して数十メートル歩行可能なまで回復。その後歩行距離は伸びた。しかし、2002年5月31日に、往復書簡の第一信をしたためたとき、その直前に転倒して大腿骨を骨折していた(のちに手術を受けたが、歩行困難となった)。
要するに、二人とも脳血管障害による半身不随で、リハビリテーション中だったのだ。両者とも知的能力は保持されたが、多田は左脳、鶴見は右脳を損傷したので、残存機能が異なる。多田は、重度の構音障害のため発語がなく、入院中に習いおぼえたワープロを自己表現の主な手段としていた。他方、鶴見は、言語能力は保持され、闘病中もおうせいに著作活動を展開していた。
まえがきに相当する冒頭の二人の文章のうち、鶴見の「回生」が興味深い。障害を逆手にとって、かねてから研究していた「内発的発展論」を深化させているのだ。
第一、闘病と伝統的短詩型文学との親和。
倒れてからいっときも意識をうしなうわず、その晩からことばが短歌のかたちで湧きだしてきた、という。その後の書簡によれば、短歌は発想の源泉となったらしい。
俳句、川柳、連句、短歌は、リハビリテーションと相性がよいらしい。全国各地の病院や老人保健施設などで実施されているし、脳梗塞で倒れた野坂昭如は、『ひとり連句春秋』(ランダムハウス講談社、2009)という本まで出している。鶴見は知ってか知らずか、芸術療法を自分で自分に対して施行したわけだ。
第二、障害と自然との親和。
鶴見は、ふたたび歩きはじめた1997年が「回生」元年だ、という。人類が直立して歩行した意義を再発見しているのだ。ふたたび歩きはじめてから、全身に酸素がゆきわたる感じで、頭がはっきりし、ひらめきがぽっぽこ出てくるようになったらしい。歩けない場合と歩く場合とでは文化がちがう、ものの見え方がちがう、とまでいう。
健康なときは、常に競争相手を意識して仕事をし、マックス・ウェーバーのいわゆる「金力・名声・権力」をめざす競争を多かれ少なかれやってきた。しかし、死者と生者が半々に自分のなかにある状況になって、自然の事物が鋭敏に感じ取られるようになったのだ。ここから共生の思想まで遠くない。
往復書簡から補足すると、日々の天候により足の痺れぐあい、痛みぐあいが時々刻々ちがうから、それだけ自分は自然に近くなった、という。「山川草木鳥獣虫魚のふるまいから自分が学ぶ」ことが初めてできるようになり、これが「新しい人生」を形づくったのだ。
第三、鶴見社会学の深化。
会田記念病院では患者の自己決定権にもとづくオーダーメイドの「積極的リハビリテーション・プログラム」(上田敏)に即して訓練を受けたのだが、倒れる前には理屈として考えていた「内発的発展論」が実感として体得できた、という。
社会の発展の理論は、「人間の発展の理論」でもある、と断じる。80歳を超えてなお「発展」を旗印としてかかげるのだ。後進への励ましでないはずはない。さらに、一番の弱者の立場から日本を開いていく「内発的発展論」というのがある、ともいう。ここで一番の原動力となるのがアニミズムだ、とも。ここにも共生への志向が見受けられる。
往復書簡から補足すると、鶴見は左片麻痺の回復はあり得ないと宣告され、新しい人生を切り拓くと覚悟を決めた。そして、アメリカ社会学からの借り物のことばを捨て、やまとことばで語るようになった。
第四、学問と道楽の親和。
歌、踊り、着物は鶴見の道楽だったが、「内発的発展論」はこれら三つの道楽によって育まれた感性の所産であった。道楽と学問とのつながりを覚ったのは死に至る病のおかげだった、という。ここでも障害を逆手にとって新たな発見をしている。
脳血管障害は加齢とともに発生率が高まる。事は脳血管障害にかぎらない。大岡昇平も晩年は心臓弁膜症に悩まされた。そして、誰しも齢をとるのだから、人はいつかは障害のある身となる可能性が高い。いや、疾患にかぎらず、年齢を問わず、過労、労働災害や交通事故で障害をもつにいたることもある。
したがって、問題は障害者にならないことではない。ひとたび体が不自由になったとき、どう対処するかである。
この往復書簡は、重度身体障害に陥った者の見事な対処をしめす。げにも「魂は物質に抵抗するものである」(アラン)。
□多田富雄/鶴見和子『邂逅』(藤原書店、2003)
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73階建てウェスティン・スタンフォード・ホテルに投宿し、夕食後、ぶらぶらと市内を散策した。ホテルから目と鼻の先に、1942年の「シンガポール虐殺」記念碑(125m)が建っている。たたずむと、なんとなく居心地がわるい。
その日はちょうど中国系民族の祭り(旧正月)であった。ホテルの下のショッピング・センター、ラッフルズ・シティから南へ、つまり海へ向かって歩いていくと、露店の数が増えてきた。日本の縁日の雰囲気と似ているが、なんかちょっとちがう。ちがうのは熱気だ。この熱気は気候のせいか、群衆のせいか、定かではない。
ゲームが射倖心をそそる。
路傍に夜目にもあざやかなブーゲンビリアが咲き乱れる。
広場の仮設小屋ではワイヤン(中国オペラ)。群がる人々にまじって立ち見する。
岬に公園があり、高さ3mほどの白亜のマー・ライオンが二基たつ。一方はマリーナ湾に向かって対岸の灯に臨み、背中合わせの他方は足元の池に水を吐きだしている。この国の象徴、マー・ライオンは、頭が獅子で尾が魚の怪物である。一説によれば、シンガポールの名は、サンスクリット語のシンガ(sinfga、獅子)とプラ(pura、都市)に由来する。
踵をかえし、シンガポール川の岸辺をさまよった。野外の京劇に人々が群がる。川面には大きな屋台船が浮かび、まばゆいイリュミネーションの中から音楽が漂ってくる。
翌日、中国庭園にたち寄った。大尽の屋敷を一般に開放したものだ。上野動物園ほどありそうな広大な敷地である。蓮の花が咲く沼があり、花の下にはワニも棲む。龍をとりまく花壇があり、とにかくにぎやかだ。
六角六層の石塔、入雲塔の最上階では、数人の小学生が腰かけて何やらおしゃべりに熱中していた。中国系とみて、「ニイハオ」とあいさつする。彼女たち、キャキャと笑いさざめき、あいさつを返す。ものおじしない。華人は、この国で優位にたつ。子どもたちにも自信というか、生気というか、生きる喜びがみなぎっている。
この庭園で、「雨の木(レイン・ツリー)」に初めてお目にかかった。樹長10mを越える大樹のここかしこの枝から蔦が垂れ、あたかも雨滴がしたたるかのようだ。大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』なる小説がある。あまり読む気にならないタイトルで、じじつ一向に読んでないのだが、「雨の木」ということばに気を惹かれ、どんな木なのか、いろいろ想像していた。目前の詩的な樹相にはすっかり魅惑されてしまった。
言葉と感覚の幸福な出会いは、ジュロン・バード・パークでも経験した。この広大な庭園は世界最大の鳥園で、随所にさまざまな鳥がはなし飼いにされている。フラミンゴ、ダチョウ、極楽鳥、サンバード。公園の一角には、空に網をはって、共棲できる鳥を自由に飛翔させている。2ヘクタールもある鳥篭なのだ。中をくぐり抜けながら、ハチドリを探したが、近眼の目にはキャッチできなかった。
公園の出入口ちかくに菱形の建物があって、「暗闇の世界」と表示がたつ。夜行性の鳥だけがここに集められているのだ。ガラスでしきられている部屋のひとつに、フライイング・フォックスを見つけた。ミミズクの一種であった。R・S・スティーブンソン『南海千夜一夜』に「飛び狐」が出てくる。むかしむかし少年のころに読んだときには、羽根がはえている狐を想像したが、遠い異郷の地ではからずも積年の疑問が氷解した。
異郷の地、という思いを痛感したのは、日本人墓地をおとずれた時だ。ここには、ロシアからの帰途、インド洋で客死した二葉亭四迷が眠っている。墓守に許可を求めると、すぐさま軍人の墓碑に案内し、某中将の墓前でていねいに線香を差しだすのであった。やむをえず合掌し、「で、二葉亭四迷の墓は?」とたずねると、私たちを妙な目つきで見た。
ここには、バターン半島の戦没者が眠っている。
「これがからゆきさん」と墓守が指さす先に、ちいさく貧相な墓が群れていた。山崎朋子『サンダカン八番娼館』に登場するのはボルネオのからゆきさんだが、シンガポールのからゆきさんも同様の日々を送ったにちがいない。
シンガポールの歴史の一端にふれ、なぜか現代の住民たちの生活をのぞいてみたくなった。
コミュニティ・センターを2か所訪れた。インド人街のセンターは、ややみすぼらしく、漆黒の肌の老人が二人、所在なげに建物の壁にもたれて腰をおろしていた。チャイナ・タウンのセンターはもっと大きくて新しく、活気もあった。マーライオンのマークが入口に掲げられているから国営かもしれないが、地域の住民の資力を反映するらしい。
センターでは就学前児童のデイサービスや相談事業、ダンスなどの行事や各種講座の情報提供がおこなわれている。バスケットボールのコートが半分(センターラインまで)付属している。掲示板のポスターもチャイナ・タウンのセンターのほうが数が豊富で、メニューも多かった。
コミュニティ・センターと類似の施設は日本にもありそうだが、対応する施設をうまく例示できない。位置づけとしては公民館に近いように思われるが、日本の公民館は行政の出先機関にすぎない。ここではもっと住民の生活に直結しているように察せられる。
掲示板のポスターは、二つ以上の言語で併記されている。
シンガポールは、多民族国家で、中国系(華人)、マレー系、インド・パキスタン系の4つに大別される。それぞれの出身地によってさらに細かい集団に分かれる。宗教ももちろん雑多だ。政治的経済的に有力なのは、人口の8割を占める中国系(華人)だが、国の周囲をイスラム教国家が取り巻き、水や食料をマレーシアが提供していることもあって、マレー系の立場も弱いものではない。しかし、インド系は社会の底辺に位置している。バード・パークでも、清掃などの汚れ仕事はインド系とおぼしき人たちが受け持っていた。
風俗も多様だ。たとえば、シンガポールでは正月が4回もある。新正月(元旦、ただの休日)、中国正月(旧正月)、マレー正月(ハリ・ラヤ・プアサ)、ヒンドゥー正月(ディーパ・バリ)。最後のふたつは、他民族との対抗上、仮に正月と呼んでいるだけで、実際は宗教上の節目である。
複数の民族と言語、多様な宗教と風俗。こうした国家では言葉は道具以上のものとなる。
ものの本によれば、英語を第一言語とし、民族言語を第二言語として教育された者は、民族言語を第一言語とし、英語を第二言語として教育された者より活発で外向的、率直になるよし。反面、たとえば華語を第一言語として教育された者は、無愛想で控えめだが、誠実にことにあたる性向が見られるとか。どうやら、言語の背景にある民族文化も引き継ぐらしい。
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その日はちょうど中国系民族の祭り(旧正月)であった。ホテルの下のショッピング・センター、ラッフルズ・シティから南へ、つまり海へ向かって歩いていくと、露店の数が増えてきた。日本の縁日の雰囲気と似ているが、なんかちょっとちがう。ちがうのは熱気だ。この熱気は気候のせいか、群衆のせいか、定かではない。
ゲームが射倖心をそそる。
路傍に夜目にもあざやかなブーゲンビリアが咲き乱れる。
広場の仮設小屋ではワイヤン(中国オペラ)。群がる人々にまじって立ち見する。
岬に公園があり、高さ3mほどの白亜のマー・ライオンが二基たつ。一方はマリーナ湾に向かって対岸の灯に臨み、背中合わせの他方は足元の池に水を吐きだしている。この国の象徴、マー・ライオンは、頭が獅子で尾が魚の怪物である。一説によれば、シンガポールの名は、サンスクリット語のシンガ(sinfga、獅子)とプラ(pura、都市)に由来する。
踵をかえし、シンガポール川の岸辺をさまよった。野外の京劇に人々が群がる。川面には大きな屋台船が浮かび、まばゆいイリュミネーションの中から音楽が漂ってくる。
翌日、中国庭園にたち寄った。大尽の屋敷を一般に開放したものだ。上野動物園ほどありそうな広大な敷地である。蓮の花が咲く沼があり、花の下にはワニも棲む。龍をとりまく花壇があり、とにかくにぎやかだ。
六角六層の石塔、入雲塔の最上階では、数人の小学生が腰かけて何やらおしゃべりに熱中していた。中国系とみて、「ニイハオ」とあいさつする。彼女たち、キャキャと笑いさざめき、あいさつを返す。ものおじしない。華人は、この国で優位にたつ。子どもたちにも自信というか、生気というか、生きる喜びがみなぎっている。
この庭園で、「雨の木(レイン・ツリー)」に初めてお目にかかった。樹長10mを越える大樹のここかしこの枝から蔦が垂れ、あたかも雨滴がしたたるかのようだ。大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』なる小説がある。あまり読む気にならないタイトルで、じじつ一向に読んでないのだが、「雨の木」ということばに気を惹かれ、どんな木なのか、いろいろ想像していた。目前の詩的な樹相にはすっかり魅惑されてしまった。
言葉と感覚の幸福な出会いは、ジュロン・バード・パークでも経験した。この広大な庭園は世界最大の鳥園で、随所にさまざまな鳥がはなし飼いにされている。フラミンゴ、ダチョウ、極楽鳥、サンバード。公園の一角には、空に網をはって、共棲できる鳥を自由に飛翔させている。2ヘクタールもある鳥篭なのだ。中をくぐり抜けながら、ハチドリを探したが、近眼の目にはキャッチできなかった。
公園の出入口ちかくに菱形の建物があって、「暗闇の世界」と表示がたつ。夜行性の鳥だけがここに集められているのだ。ガラスでしきられている部屋のひとつに、フライイング・フォックスを見つけた。ミミズクの一種であった。R・S・スティーブンソン『南海千夜一夜』に「飛び狐」が出てくる。むかしむかし少年のころに読んだときには、羽根がはえている狐を想像したが、遠い異郷の地ではからずも積年の疑問が氷解した。
異郷の地、という思いを痛感したのは、日本人墓地をおとずれた時だ。ここには、ロシアからの帰途、インド洋で客死した二葉亭四迷が眠っている。墓守に許可を求めると、すぐさま軍人の墓碑に案内し、某中将の墓前でていねいに線香を差しだすのであった。やむをえず合掌し、「で、二葉亭四迷の墓は?」とたずねると、私たちを妙な目つきで見た。
ここには、バターン半島の戦没者が眠っている。
「これがからゆきさん」と墓守が指さす先に、ちいさく貧相な墓が群れていた。山崎朋子『サンダカン八番娼館』に登場するのはボルネオのからゆきさんだが、シンガポールのからゆきさんも同様の日々を送ったにちがいない。
シンガポールの歴史の一端にふれ、なぜか現代の住民たちの生活をのぞいてみたくなった。
コミュニティ・センターを2か所訪れた。インド人街のセンターは、ややみすぼらしく、漆黒の肌の老人が二人、所在なげに建物の壁にもたれて腰をおろしていた。チャイナ・タウンのセンターはもっと大きくて新しく、活気もあった。マーライオンのマークが入口に掲げられているから国営かもしれないが、地域の住民の資力を反映するらしい。
センターでは就学前児童のデイサービスや相談事業、ダンスなどの行事や各種講座の情報提供がおこなわれている。バスケットボールのコートが半分(センターラインまで)付属している。掲示板のポスターもチャイナ・タウンのセンターのほうが数が豊富で、メニューも多かった。
コミュニティ・センターと類似の施設は日本にもありそうだが、対応する施設をうまく例示できない。位置づけとしては公民館に近いように思われるが、日本の公民館は行政の出先機関にすぎない。ここではもっと住民の生活に直結しているように察せられる。
掲示板のポスターは、二つ以上の言語で併記されている。
シンガポールは、多民族国家で、中国系(華人)、マレー系、インド・パキスタン系の4つに大別される。それぞれの出身地によってさらに細かい集団に分かれる。宗教ももちろん雑多だ。政治的経済的に有力なのは、人口の8割を占める中国系(華人)だが、国の周囲をイスラム教国家が取り巻き、水や食料をマレーシアが提供していることもあって、マレー系の立場も弱いものではない。しかし、インド系は社会の底辺に位置している。バード・パークでも、清掃などの汚れ仕事はインド系とおぼしき人たちが受け持っていた。
風俗も多様だ。たとえば、シンガポールでは正月が4回もある。新正月(元旦、ただの休日)、中国正月(旧正月)、マレー正月(ハリ・ラヤ・プアサ)、ヒンドゥー正月(ディーパ・バリ)。最後のふたつは、他民族との対抗上、仮に正月と呼んでいるだけで、実際は宗教上の節目である。
複数の民族と言語、多様な宗教と風俗。こうした国家では言葉は道具以上のものとなる。
ものの本によれば、英語を第一言語とし、民族言語を第二言語として教育された者は、民族言語を第一言語とし、英語を第二言語として教育された者より活発で外向的、率直になるよし。反面、たとえば華語を第一言語として教育された者は、無愛想で控えめだが、誠実にことにあたる性向が見られるとか。どうやら、言語の背景にある民族文化も引き継ぐらしい。
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1944年、太平洋で連合軍に圧迫され、じり貧の日本帝国軍は、乾坤一擲、インパールを攻撃した。
無謀な作戦であった。いや、作戦の名にすら価しなかった。航空機の支援はなく、快速進撃の旗印のもとに軽装備、砲は各連隊に三一式山砲5門程度にすぎなかった。糧秣は糒(ほしい)主体でしかもわずか2週間分、補給計画はまったくなくて敵の糧秣弾薬を奪ってしのげばよいとするお粗末さ。
加えて、敵情がまったく不明のままであった(要塞を戦車や航空機でかためて、しかも兵員が増強されつつあった)。
作戦に疑問を投げかける参謀長や師団長は次々に更迭された。更迭したのは第15軍軍の司令官は牟田口廉也中将。「わしには神様がついてる」
牟田口中将の神様によって、7万人の将兵が山野に屍をさらした。
撤退後、ラングーンのビルマ方面軍首脳部に対して、牟田口は昂然と胸をはって宣うた。「インパール作戦は失敗したと思っていない。インパールをやったからこそ、ビルマをとられずにすんでいる、云々」
一同気をのまれ、座はたちまち白けかえったという。
本書は、南方軍(威)ビルマ方面軍(森)第15軍(林)第33師団(弓)、ことに柳田元三師団長及びその幕僚、そして歩兵第214連隊(中突進隊)の作間連隊長及びその指揮下の将校に焦点をあて(兵士はあまり登場しない)、武人らしい剛毅さと、悲惨な状況においてこそあらわになる人情を記録にとどめる。
牟田口中将の大言壮語、唯々諾々の幕僚の無能がインパールの原野にもたらした7万体の白骨は、組織のトップしだいで隷下がどんなに苛酷な運命を強いられるかのよき象徴である。
□高木俊朗『インパール』(『世界ノンフィクション全集15』、筑摩書房、1968、所収)
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無謀な作戦であった。いや、作戦の名にすら価しなかった。航空機の支援はなく、快速進撃の旗印のもとに軽装備、砲は各連隊に三一式山砲5門程度にすぎなかった。糧秣は糒(ほしい)主体でしかもわずか2週間分、補給計画はまったくなくて敵の糧秣弾薬を奪ってしのげばよいとするお粗末さ。
加えて、敵情がまったく不明のままであった(要塞を戦車や航空機でかためて、しかも兵員が増強されつつあった)。
作戦に疑問を投げかける参謀長や師団長は次々に更迭された。更迭したのは第15軍軍の司令官は牟田口廉也中将。「わしには神様がついてる」
牟田口中将の神様によって、7万人の将兵が山野に屍をさらした。
撤退後、ラングーンのビルマ方面軍首脳部に対して、牟田口は昂然と胸をはって宣うた。「インパール作戦は失敗したと思っていない。インパールをやったからこそ、ビルマをとられずにすんでいる、云々」
一同気をのまれ、座はたちまち白けかえったという。
本書は、南方軍(威)ビルマ方面軍(森)第15軍(林)第33師団(弓)、ことに柳田元三師団長及びその幕僚、そして歩兵第214連隊(中突進隊)の作間連隊長及びその指揮下の将校に焦点をあて(兵士はあまり登場しない)、武人らしい剛毅さと、悲惨な状況においてこそあらわになる人情を記録にとどめる。
牟田口中将の大言壮語、唯々諾々の幕僚の無能がインパールの原野にもたらした7万体の白骨は、組織のトップしだいで隷下がどんなに苛酷な運命を強いられるかのよき象徴である。
□高木俊朗『インパール』(『世界ノンフィクション全集15』、筑摩書房、1968、所収)
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紀行文を読むのは楽しい。それが自分が行ったことのある土地の話であれば、記憶をよみがえらせ、再訪した心地になる。
それが自分が出かけたことのない土地であれば、かりそめの旅ができる。
本書が語るのは、ギリシア、東アフリカ、ドイツおよびベネルクス、シルクロードの4つのツアーだ。
たとえば、ギリシアでウゾーを水で割って飲むくだりに、地中海クルーズの記憶をよみがえらせる人もいるだろう。からりと晴れわたった青い空、紺碧の海。波をかきわけて進む白い船、そのデッキで喉をうるおすウゾー。だが、帰国してから飲んだウゾーには、あの美味は再現されなかった。松やにのまじるこの酒は、湿気のつよい国には合わない・・・・。
本書はしかし、ありきたりの紀行文とは異なる。著者の立場は添乗員だから、話題はもっぱらツアーに参加した観光客になるのだ。
長期にわたる海外ツアーの参加者は、時間とお金に余裕のある年配の方々がもっぱらだ。ということは、ひとクセもななクセもある人ばかりで、このあたりの個性発揮ぶりが本書の読ませどころになる。
そして、客がなにかのきっかけでポロッと口にする人生の一端がまた興味深い。
たとえば、ギリシア編の「米田耕蔵をはじめとする酔いどれ三人組」。セクハラ行為でスチュワーデスを泣かせるわ、著者も騒ぎのまきぞえをくって眼鏡を壊されるわ、ために夜もサングラスでとおす羽目におちいるわ。しかし、腹をわって話しあう機会があり、聞けばかくかくしかじか、読者も、なるほど・ザ・納得する背景があるのであった。
ツアーは集団だから、リーダーシップ、集団凝集性といったグループダイナミックスが働いたりもする。添乗員は、この集団の構成員であるような、ないような微妙な立場だから、このヌエ的な視点からみたツアー集団の社会心理学的行動がおもしろい。読者は、翻って自分の属する小集団はいかに、とふりかえるキッカケになるだろう。
たとえば、ドイツ~ベネルクス編のツアー集団内ミニ集団の対立。ミニ集団のそれぞれリーダーがいて、すったもんだが起きる。しかし、じつのところリーダー(意識旺盛な人)の意識過剰のきらいがあって、ミニ集団のいずれにも属しない「美女と野獣」カップルの謎が解けることによって大団円・・・・までいかずとも小団円くらいの結末を迎える。
永年添乗員をつとめていれば、こういった話題に事欠かないだろう。
しかし、永年の経験を続々と公表した添乗員は、著者くらいだろう。著者が今までに刊行した24冊は、大部分は添乗員時代を回顧したものだ。しかも、文庫書き下ろし作品が多い。ノンフィクション界の佐伯泰英と呼ぶべきか。
克明なメモを残していたのかもしれない。しかし、かくも臨場感あふれる作品をものするほど鮮明な記憶が著者にのこったのは、惰性に流されることなく毎回新鮮な気持ちで仕事に取り組んだからではあるまいか。だとすると、このプロ精神、学ぶに足る。
また、語り口がいい。生きがよくて、たくまざるユーモアがにじみでている。経験を積んだ者の余裕からくるユーモアかもしれない。この人、おおまかなようでいて細心、なにかと難題をおしつけられながらも、これも添乗員の役目と心得て、厄介事をそつなく(結果オーライ的に)さばくのだ。本書の随所にみられる目くばり、気くばりは、小集団運営術というものだ。これまた大いに学ぶに足る。
□岡崎大五『添乗員撃沈記』(角川文庫、2004)
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それが自分が出かけたことのない土地であれば、かりそめの旅ができる。
本書が語るのは、ギリシア、東アフリカ、ドイツおよびベネルクス、シルクロードの4つのツアーだ。
たとえば、ギリシアでウゾーを水で割って飲むくだりに、地中海クルーズの記憶をよみがえらせる人もいるだろう。からりと晴れわたった青い空、紺碧の海。波をかきわけて進む白い船、そのデッキで喉をうるおすウゾー。だが、帰国してから飲んだウゾーには、あの美味は再現されなかった。松やにのまじるこの酒は、湿気のつよい国には合わない・・・・。
本書はしかし、ありきたりの紀行文とは異なる。著者の立場は添乗員だから、話題はもっぱらツアーに参加した観光客になるのだ。
長期にわたる海外ツアーの参加者は、時間とお金に余裕のある年配の方々がもっぱらだ。ということは、ひとクセもななクセもある人ばかりで、このあたりの個性発揮ぶりが本書の読ませどころになる。
そして、客がなにかのきっかけでポロッと口にする人生の一端がまた興味深い。
たとえば、ギリシア編の「米田耕蔵をはじめとする酔いどれ三人組」。セクハラ行為でスチュワーデスを泣かせるわ、著者も騒ぎのまきぞえをくって眼鏡を壊されるわ、ために夜もサングラスでとおす羽目におちいるわ。しかし、腹をわって話しあう機会があり、聞けばかくかくしかじか、読者も、なるほど・ザ・納得する背景があるのであった。
ツアーは集団だから、リーダーシップ、集団凝集性といったグループダイナミックスが働いたりもする。添乗員は、この集団の構成員であるような、ないような微妙な立場だから、このヌエ的な視点からみたツアー集団の社会心理学的行動がおもしろい。読者は、翻って自分の属する小集団はいかに、とふりかえるキッカケになるだろう。
たとえば、ドイツ~ベネルクス編のツアー集団内ミニ集団の対立。ミニ集団のそれぞれリーダーがいて、すったもんだが起きる。しかし、じつのところリーダー(意識旺盛な人)の意識過剰のきらいがあって、ミニ集団のいずれにも属しない「美女と野獣」カップルの謎が解けることによって大団円・・・・までいかずとも小団円くらいの結末を迎える。
永年添乗員をつとめていれば、こういった話題に事欠かないだろう。
しかし、永年の経験を続々と公表した添乗員は、著者くらいだろう。著者が今までに刊行した24冊は、大部分は添乗員時代を回顧したものだ。しかも、文庫書き下ろし作品が多い。ノンフィクション界の佐伯泰英と呼ぶべきか。
克明なメモを残していたのかもしれない。しかし、かくも臨場感あふれる作品をものするほど鮮明な記憶が著者にのこったのは、惰性に流されることなく毎回新鮮な気持ちで仕事に取り組んだからではあるまいか。だとすると、このプロ精神、学ぶに足る。
また、語り口がいい。生きがよくて、たくまざるユーモアがにじみでている。経験を積んだ者の余裕からくるユーモアかもしれない。この人、おおまかなようでいて細心、なにかと難題をおしつけられながらも、これも添乗員の役目と心得て、厄介事をそつなく(結果オーライ的に)さばくのだ。本書の随所にみられる目くばり、気くばりは、小集団運営術というものだ。これまた大いに学ぶに足る。
□岡崎大五『添乗員撃沈記』(角川文庫、2004)
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『現代俳句の論理』は、3章構成の俳論集で、第1章が「現代俳句の論理」、第2章が「現代俳句の展開」、第3章が現代俳句の主題」、末尾に「短さの恩寵」を付す。以下は、第1章の冒頭におかれている「定型について」のおおよそである。
山本健吉は和歌を論じて次のようにいう。「枕詞・歌枕・序詞・本歌・季語その他、虚辞をつらねて、一見無内容とも見える詞章の中に、器をうつろにすることによって湧き出てくる、実に新鮮な花の香りのようなものがある。それを日本の短詩型文学の『いのち』と言っても、思想と言ってもいい」
この議論を出発点に、平井照敏は、加藤楸邨、金子兜太、石原吉郎の定型論、土井光知、秋元不二男、別宮貞徳の音韻論を紹介しつつ、自分の定型論を組み立てていく。
整理すると、次のようになるだろう。
詩のことばは、語らぬ部分、沈黙の部分を地として成り立つ。
加藤楸邨は沈黙の表現のダイナミスムを解き明かすが、自己表現ととらえるのは狭い。すぐれた作品は作者の意図、意欲を超えて、予期せぬかたちでやってくるのだ。それが「花の香り」で、ひろがりやまぬ真実のゆたかさ、茫洋とした湧出感が啓示のごとく出現する。
ここに、俳句をつくるよろこびがある。
定型は安住するものではない。石原吉郎が説くように、これに抵抗し、脱出するべきものである。定型は不定型との不断の戦いのうちに生まれる。「混沌としてひろがるものが、あることばを核として、贅肉をこそぎおとし、単純化され、きっぱりと定型に結晶するとき、定型の恩寵は訪れるであろう」
「定型の抵抗を逆用して、感動を表現面の裏に沈め、詩形の底から返照してくる動きを生かす」のが俳句の方法である。
俳句の定型は、二種類しか分類できない。
二句一章または一句二章か、十七音を言い切る一句一章である。三句切れは統一感がなくなるので、古来嫌われている。
定型の音楽性は、等時拍の日本語では西洋の詩のもつメロディは期待できず、リズムが基本になる。
土井光知の音歩説は、「さいた」の三音を「さい・た」に細分し、二気力(2・1)が等時であることを検証した。
秋元不二男は音歩説を援用して「妻二タ夜あらず二タ夜の天の川」のリズムをうまく説明したが、なぜ俳句の定型が五音と七音の組み合わせになるかという見通しに欠ける。
この点、別宮貞徳の四拍子説は、俳句の内在律をよく説明する。
「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を」は「○○ヤクモ○タツ イヅモ○ヤヘガキ ○○ツマゴメニ○ ヤヘガキツクル○ ソノヤヘガキヲ○」のように四分の四拍子の一拍をつくる(別宮貞徳)。
この理論を俳句の五・七・五定型に適用すると、八・八・八の四分の三拍子となる。
俳句に字足らずが少ないのは拍数を減らし、四拍子を崩すからであり、反面、字余りも八音以内なら容易に四拍子になるため無理なく俳句として認められる(別宮貞徳)。
しかし、俳句の音楽性は、拍子に限られない。
ことばの基調音となる母音(「あ」は雄大、「え」は温雅、「い」は軽快・繊鋭、「お」は荘重、「う」は沈鬱)の音色や子音の特長的、個性的な音色が無限の変奏をもたらす。俳句は絵画性だけではない・・・・。
ちなみに、三好達治によれば、「五個の母音A、E、I、U、Oのうち、E、Iの二つは痩せた、寒冷な感じを伴う側のもので、他の三者にその点で対立している。後の母音のA、O、Uはいずれも豊かな、潤った、温感の伴って響く性質をもち、就中Aは華やかに明るくまた軽やかに大きく末広がりに響く傾向をもつ」うんぬん(「【読書余滴】ミラボー橋の下をセーヌが流れ ~母音~」)。
【参考】平井照敏『現代俳句の論理』(青土社、1981)
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山本健吉は和歌を論じて次のようにいう。「枕詞・歌枕・序詞・本歌・季語その他、虚辞をつらねて、一見無内容とも見える詞章の中に、器をうつろにすることによって湧き出てくる、実に新鮮な花の香りのようなものがある。それを日本の短詩型文学の『いのち』と言っても、思想と言ってもいい」
この議論を出発点に、平井照敏は、加藤楸邨、金子兜太、石原吉郎の定型論、土井光知、秋元不二男、別宮貞徳の音韻論を紹介しつつ、自分の定型論を組み立てていく。
整理すると、次のようになるだろう。
詩のことばは、語らぬ部分、沈黙の部分を地として成り立つ。
加藤楸邨は沈黙の表現のダイナミスムを解き明かすが、自己表現ととらえるのは狭い。すぐれた作品は作者の意図、意欲を超えて、予期せぬかたちでやってくるのだ。それが「花の香り」で、ひろがりやまぬ真実のゆたかさ、茫洋とした湧出感が啓示のごとく出現する。
ここに、俳句をつくるよろこびがある。
定型は安住するものではない。石原吉郎が説くように、これに抵抗し、脱出するべきものである。定型は不定型との不断の戦いのうちに生まれる。「混沌としてひろがるものが、あることばを核として、贅肉をこそぎおとし、単純化され、きっぱりと定型に結晶するとき、定型の恩寵は訪れるであろう」
「定型の抵抗を逆用して、感動を表現面の裏に沈め、詩形の底から返照してくる動きを生かす」のが俳句の方法である。
俳句の定型は、二種類しか分類できない。
二句一章または一句二章か、十七音を言い切る一句一章である。三句切れは統一感がなくなるので、古来嫌われている。
定型の音楽性は、等時拍の日本語では西洋の詩のもつメロディは期待できず、リズムが基本になる。
土井光知の音歩説は、「さいた」の三音を「さい・た」に細分し、二気力(2・1)が等時であることを検証した。
秋元不二男は音歩説を援用して「妻二タ夜あらず二タ夜の天の川」のリズムをうまく説明したが、なぜ俳句の定型が五音と七音の組み合わせになるかという見通しに欠ける。
この点、別宮貞徳の四拍子説は、俳句の内在律をよく説明する。
「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を」は「○○ヤクモ○タツ イヅモ○ヤヘガキ ○○ツマゴメニ○ ヤヘガキツクル○ ソノヤヘガキヲ○」のように四分の四拍子の一拍をつくる(別宮貞徳)。
この理論を俳句の五・七・五定型に適用すると、八・八・八の四分の三拍子となる。
俳句に字足らずが少ないのは拍数を減らし、四拍子を崩すからであり、反面、字余りも八音以内なら容易に四拍子になるため無理なく俳句として認められる(別宮貞徳)。
しかし、俳句の音楽性は、拍子に限られない。
ことばの基調音となる母音(「あ」は雄大、「え」は温雅、「い」は軽快・繊鋭、「お」は荘重、「う」は沈鬱)の音色や子音の特長的、個性的な音色が無限の変奏をもたらす。俳句は絵画性だけではない・・・・。
ちなみに、三好達治によれば、「五個の母音A、E、I、U、Oのうち、E、Iの二つは痩せた、寒冷な感じを伴う側のもので、他の三者にその点で対立している。後の母音のA、O、Uはいずれも豊かな、潤った、温感の伴って響く性質をもち、就中Aは華やかに明るくまた軽やかに大きく末広がりに響く傾向をもつ」うんぬん(「【読書余滴】ミラボー橋の下をセーヌが流れ ~母音~」)。
【参考】平井照敏『現代俳句の論理』(青土社、1981)
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『深夜特急』と本書とを区別するものは、前者は「ある時期の『私』を描こうとしたもので、『旅』そのものを描こうとしたものではない」(本書「あとがき」)のに対し、本書は紀行文、つまり「旅」について書いている点だ。
この違いは大きい。『深夜特急』の主役は、マカオにいようとインドにいようと、あくまで「私」つまり沢木耕太郎である。他方、本書の場合、主役は旅先の土地なのだ。
この点は、本書のさいごに置かれた『記憶の樽』を読めば明らかだ。「私」は、スペインのマラガを訪れ、二十年前に立ち寄った酒場をさがす。フラッシュバックのようによみがえる記憶を懐かしむ一方、失われた記憶のほうが多大である悲哀をあじわう。・・・・この紀行文の主役をなすのは土地である。『深夜特急』の旅の二十年後の今、マラガにおいて目にするもの、味わうもの、そして風物に触発されて湧きおこるさまざまな思い、つまり旅情である。
とはいえ、どこを訪れても沢木耕太郎は沢木耕太郎だ、と思う。本書の舞台はヴェトナム、パリ、ポルトガル、スペイン、米国、オーストリア・・・・とさまざまだが、どの紀行文も文章は軽快で、抵抗なく入っていくことができる。そのくせ、読み捨てるには惜しい質実さがあって、噛みつづけても味が薄れないチューインガムのような感じなのだ。
これは、細部の事実からなにかを発見する眼がたしかであり、記述が堅実だからだ。
たとえば、紀行文として本書の冒頭におかれた『メコンの光』は、「バスの乗り方がわかり、食事の値段がわかり、ヴェトナムの言葉でありがとうのひとことが自然に出てくるようになって、私はホーチミンで少しずつ自由になっていた・・・・」といった調子で、じつに軽やかに現地に適応している。そして、適応ぶりを報告する文章も軽やかなのだ。
また、おなじ『メコンの光』から引くと、「ハッとさせられたのは、英文のパンフレットに記されていたひとつの単語を眼にしたときだった。その中に『ヴェトナム戦争中』とあるはずのところに『アメリカ戦争中』とあったのだ」という発見があり、「よく考えてみれば、ヴェトナムの人々にとってあの戦争は『ヴェトナム戦争』などではなかった。少なくとも北ヴェトナムとヴェトナム解放戦線にとっては、アメリカとの戦争、つまり『アメリカ戦争』だったのだ」という省察がある。この発見は、著者のみならず日本人全体の・・・・おそらくは「アメリカ」及びその盟邦の人々の固定観念をひっくり返す発見でもある。
文章の軽快、しなやかな思考、発見とそのもとになる細部の事実は、本書のいたるところに見いだすことができる。
評者にとって、集中もっとも楽しめたのは、さきに挙げた『メコンの光』、そして『ヴェトナム縦断』だ。つまりアジアの旅である。自分の旅をふりかえってみても、「石の文化」の西欧を旅するより「木の文化」のアジアを旅するほうが気楽だったような気がする。
『ヴェトナム縦断』は、ホーチミンからハノイまで、国道一号線を北上する旅を記す。妙味を逐一あげて、これから読者となるかもしれない方々の興を削いでもつまらない。本書でいう「一号線」には二重の意味がある、とだけ付記しておこう。第一は具体的な、ヴェトナムの国道一号線である。第二は象徴的な、沢木耕太郎が「夢見た旅」である。
「もしかしたら、誰にも『北上』したいと思う『一号線』はあるのかもしれない。もちろん、それが『三号線』でも『』66号線』でもいいし、『南下』や『東上』であってもかまわない。/たぶん、『北上』すべき『一号線』はどこにもある。ここにもあるし、あそこにもある。この国にもあれば、あそこの国にもある。私にもあれば、そう、あなたにもある」(本書『一号線はどこにある?』)。
□沢木耕太郎『一号線を北上せよ』(講談社、2003)
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この違いは大きい。『深夜特急』の主役は、マカオにいようとインドにいようと、あくまで「私」つまり沢木耕太郎である。他方、本書の場合、主役は旅先の土地なのだ。
この点は、本書のさいごに置かれた『記憶の樽』を読めば明らかだ。「私」は、スペインのマラガを訪れ、二十年前に立ち寄った酒場をさがす。フラッシュバックのようによみがえる記憶を懐かしむ一方、失われた記憶のほうが多大である悲哀をあじわう。・・・・この紀行文の主役をなすのは土地である。『深夜特急』の旅の二十年後の今、マラガにおいて目にするもの、味わうもの、そして風物に触発されて湧きおこるさまざまな思い、つまり旅情である。
とはいえ、どこを訪れても沢木耕太郎は沢木耕太郎だ、と思う。本書の舞台はヴェトナム、パリ、ポルトガル、スペイン、米国、オーストリア・・・・とさまざまだが、どの紀行文も文章は軽快で、抵抗なく入っていくことができる。そのくせ、読み捨てるには惜しい質実さがあって、噛みつづけても味が薄れないチューインガムのような感じなのだ。
これは、細部の事実からなにかを発見する眼がたしかであり、記述が堅実だからだ。
たとえば、紀行文として本書の冒頭におかれた『メコンの光』は、「バスの乗り方がわかり、食事の値段がわかり、ヴェトナムの言葉でありがとうのひとことが自然に出てくるようになって、私はホーチミンで少しずつ自由になっていた・・・・」といった調子で、じつに軽やかに現地に適応している。そして、適応ぶりを報告する文章も軽やかなのだ。
また、おなじ『メコンの光』から引くと、「ハッとさせられたのは、英文のパンフレットに記されていたひとつの単語を眼にしたときだった。その中に『ヴェトナム戦争中』とあるはずのところに『アメリカ戦争中』とあったのだ」という発見があり、「よく考えてみれば、ヴェトナムの人々にとってあの戦争は『ヴェトナム戦争』などではなかった。少なくとも北ヴェトナムとヴェトナム解放戦線にとっては、アメリカとの戦争、つまり『アメリカ戦争』だったのだ」という省察がある。この発見は、著者のみならず日本人全体の・・・・おそらくは「アメリカ」及びその盟邦の人々の固定観念をひっくり返す発見でもある。
文章の軽快、しなやかな思考、発見とそのもとになる細部の事実は、本書のいたるところに見いだすことができる。
評者にとって、集中もっとも楽しめたのは、さきに挙げた『メコンの光』、そして『ヴェトナム縦断』だ。つまりアジアの旅である。自分の旅をふりかえってみても、「石の文化」の西欧を旅するより「木の文化」のアジアを旅するほうが気楽だったような気がする。
『ヴェトナム縦断』は、ホーチミンからハノイまで、国道一号線を北上する旅を記す。妙味を逐一あげて、これから読者となるかもしれない方々の興を削いでもつまらない。本書でいう「一号線」には二重の意味がある、とだけ付記しておこう。第一は具体的な、ヴェトナムの国道一号線である。第二は象徴的な、沢木耕太郎が「夢見た旅」である。
「もしかしたら、誰にも『北上』したいと思う『一号線』はあるのかもしれない。もちろん、それが『三号線』でも『』66号線』でもいいし、『南下』や『東上』であってもかまわない。/たぶん、『北上』すべき『一号線』はどこにもある。ここにもあるし、あそこにもある。この国にもあれば、あそこの国にもある。私にもあれば、そう、あなたにもある」(本書『一号線はどこにある?』)。
□沢木耕太郎『一号線を北上せよ』(講談社、2003)
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語れ いま何処(いづこ) いかなる国に在りや、
羅馬の遊女 美しきフロラ、
アルキピアダ、また タイス、
同じ血の通ひたるその従姉妹(うから)、
河の面(おも) 池の返(ほとり)に
呼ばへば応ふる 木魂エコオ、
その美(は)しさ 人の世の常にはあらず。
さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いま何処。
フランスの詩歌の中でもっとも美しい一編、と訳者が注する「バラッド」の、最初の一節である。
フランソワ・ヴィヨンは、1431年、パリまたはその近郊に生まれた。
パリ大学で文学修士号を得たが、学生時代から放埒のかぎりをつくし、殺人、窃盗を犯してパリを逃げ出してフランス中を放浪した。1461年、投獄されたが、恩赦により出獄。翌年、パリに舞い戻ったが、たちまち傷害事件に巻き込まれて逮捕された。前科を加重されて死刑を宣告された。控訴して死をまぬがれたものの、パリを追放された。
1463年1月以降の足取りは杳として知れない。追放後、さほど間をおかずに死去したものと推定されている。
ヴィヨンはじつに率直だ。自分に対しても、他人に対しても。
この率直さは、死刑を宣告されて後に歌った「四行詩」に端的にうかがうことができる。「われはフランソワ、残念也、無念也、/ポントワーズの返(ほとり)なる 巴里の生れ/六尺五寸の荒縄に 吊りさげられて/わが頸(くび)は 臀(いさらい)の 重みを 知らむ」
アウトローらしく、肝がすわっていたのである。
【参考】フランソワ・ヴィヨン(鈴木信太郎訳)『ヴィヨン詩集』(岩波文庫、1965)
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羅馬の遊女 美しきフロラ、
アルキピアダ、また タイス、
同じ血の通ひたるその従姉妹(うから)、
河の面(おも) 池の返(ほとり)に
呼ばへば応ふる 木魂エコオ、
その美(は)しさ 人の世の常にはあらず。
さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いま何処。
フランスの詩歌の中でもっとも美しい一編、と訳者が注する「バラッド」の、最初の一節である。
フランソワ・ヴィヨンは、1431年、パリまたはその近郊に生まれた。
パリ大学で文学修士号を得たが、学生時代から放埒のかぎりをつくし、殺人、窃盗を犯してパリを逃げ出してフランス中を放浪した。1461年、投獄されたが、恩赦により出獄。翌年、パリに舞い戻ったが、たちまち傷害事件に巻き込まれて逮捕された。前科を加重されて死刑を宣告された。控訴して死をまぬがれたものの、パリを追放された。
1463年1月以降の足取りは杳として知れない。追放後、さほど間をおかずに死去したものと推定されている。
ヴィヨンはじつに率直だ。自分に対しても、他人に対しても。
この率直さは、死刑を宣告されて後に歌った「四行詩」に端的にうかがうことができる。「われはフランソワ、残念也、無念也、/ポントワーズの返(ほとり)なる 巴里の生れ/六尺五寸の荒縄に 吊りさげられて/わが頸(くび)は 臀(いさらい)の 重みを 知らむ」
アウトローらしく、肝がすわっていたのである。
【参考】フランソワ・ヴィヨン(鈴木信太郎訳)『ヴィヨン詩集』(岩波文庫、1965)
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ジュネーブにはこんな立て札が立っているそうだ。
「ゴミを路上に捨てたくなったら、1キロ先へ出かけてください。そこはフランス領です」
ことほど左様にスイス人は清潔好きである。
街の掃除も大がかりで、まず小型清掃車が道路のすみずみまでゴミをはじき出し、次いで大型清掃車がゴミを吸い取り、最後に散水車が仕上げする。こうした作業が週に3回おこなわれている。
美観を保つために、花壇はもとよりアパートのベランダにも花を飾ることが義務づけられているらしい。地方によっては花の種類や色も統一されているそうだ。かかる努力を払って、絵葉書のように美しいスイスの街が仕立てあげられるのだ。
しかし、花々の上に針金をはって、それに沿って電気カッターを走らせて高さをそろえる、というのはやりすぎではあるまいか。
スイス人には、独特の割りきった思考があるらしい。
その機能主義、その合理主義は、WHOやILOなど重要な国際機関が地元にありながら、中立維持のため、自衛のみの軍事行動をうたう憲法を守るために国連への加盟をながらく拒み続けてきた点にもみられる。
カントをして散策の時間を忘れさせた教育論『エミール』の著者は、5人の私生児を聖ヴァンサン・ド・ポールの乳児養育院に送りこみ、父子は生涯再会することはなかった。「ジュネーブの人」と自称するにふさわしい割りきり方である。
二度目にジュネーブを旅した夜、しばし涼をもとめてカフェの前の舗道にならべてあるテーブルについた。
ワインよりはビール・・・・そのとき、ポン、ポンと大きな音が響いてきた。
ん? 銃声?
あたりを見わたすと、隣のテーブルの若者が、私の背後の空を指さした。花火であった。
花火など珍しくもない、とスイス的に割りきって、私たちは会話をつづけた。
しかし、あとで聞くと、レマン湖上の花火は壮観だったらしい。惜しいことをした。
私の後悔と同程度でよいから、ジャン・ジャックは子どもたちに対する措置を後悔することがあったのだろうか。それならばすこしは許せる。
カルヴァニスムは、スイス人の生活を律し、商工業の担い手を理念的に支えた。
旧市街のはずれ、バスチョン公園の一角に宗教改革記念碑がたつ。巨大な4体の像は、改革に奔走したファレル、カルヴァン、ベーズ、ノックスの聖人たちである。当時の市民にとって、もしかすると今も、これら聖人たちは、高さ5メートルにふさわしい大きさをもっていた。
ジュネーブの旧市街には、古い街なみが保存されている。デコボコの石畳の街路、17世紀の建築様式の家居、サン・ピエール教会の鋭塔。高級住宅街の壁の随所に石碑がはめこんである。
グラン通り40番地の石碑には、横顔のレリーフ入りで、J・J・ルソーが「1712年6月28日この家で生まれた」と刻まれている。
通りは狭く、ガス燈らしきがところどころに。時計師の息子ジャン・ジャックが目にしたと同じ光景を3世紀後の私たちも見ることができるわけだ。
ルソーは過ぎ去ったが、私は生きている。私も、いずれ確実に過ぎ去る。
歴史的記念物の前に立つと、生の一回性を痛いほど感じる。石の文化の住民は、こうした緊張感を常に感じているにちがいない。
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「ゴミを路上に捨てたくなったら、1キロ先へ出かけてください。そこはフランス領です」
ことほど左様にスイス人は清潔好きである。
街の掃除も大がかりで、まず小型清掃車が道路のすみずみまでゴミをはじき出し、次いで大型清掃車がゴミを吸い取り、最後に散水車が仕上げする。こうした作業が週に3回おこなわれている。
美観を保つために、花壇はもとよりアパートのベランダにも花を飾ることが義務づけられているらしい。地方によっては花の種類や色も統一されているそうだ。かかる努力を払って、絵葉書のように美しいスイスの街が仕立てあげられるのだ。
しかし、花々の上に針金をはって、それに沿って電気カッターを走らせて高さをそろえる、というのはやりすぎではあるまいか。
スイス人には、独特の割りきった思考があるらしい。
その機能主義、その合理主義は、WHOやILOなど重要な国際機関が地元にありながら、中立維持のため、自衛のみの軍事行動をうたう憲法を守るために国連への加盟をながらく拒み続けてきた点にもみられる。
カントをして散策の時間を忘れさせた教育論『エミール』の著者は、5人の私生児を聖ヴァンサン・ド・ポールの乳児養育院に送りこみ、父子は生涯再会することはなかった。「ジュネーブの人」と自称するにふさわしい割りきり方である。
二度目にジュネーブを旅した夜、しばし涼をもとめてカフェの前の舗道にならべてあるテーブルについた。
ワインよりはビール・・・・そのとき、ポン、ポンと大きな音が響いてきた。
ん? 銃声?
あたりを見わたすと、隣のテーブルの若者が、私の背後の空を指さした。花火であった。
花火など珍しくもない、とスイス的に割りきって、私たちは会話をつづけた。
しかし、あとで聞くと、レマン湖上の花火は壮観だったらしい。惜しいことをした。
私の後悔と同程度でよいから、ジャン・ジャックは子どもたちに対する措置を後悔することがあったのだろうか。それならばすこしは許せる。
カルヴァニスムは、スイス人の生活を律し、商工業の担い手を理念的に支えた。
旧市街のはずれ、バスチョン公園の一角に宗教改革記念碑がたつ。巨大な4体の像は、改革に奔走したファレル、カルヴァン、ベーズ、ノックスの聖人たちである。当時の市民にとって、もしかすると今も、これら聖人たちは、高さ5メートルにふさわしい大きさをもっていた。
ジュネーブの旧市街には、古い街なみが保存されている。デコボコの石畳の街路、17世紀の建築様式の家居、サン・ピエール教会の鋭塔。高級住宅街の壁の随所に石碑がはめこんである。
グラン通り40番地の石碑には、横顔のレリーフ入りで、J・J・ルソーが「1712年6月28日この家で生まれた」と刻まれている。
通りは狭く、ガス燈らしきがところどころに。時計師の息子ジャン・ジャックが目にしたと同じ光景を3世紀後の私たちも見ることができるわけだ。
ルソーは過ぎ去ったが、私は生きている。私も、いずれ確実に過ぎ去る。
歴史的記念物の前に立つと、生の一回性を痛いほど感じる。石の文化の住民は、こうした緊張感を常に感じているにちがいない。
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タイトルから容易に察せられるように、ミステリーである。
ヘイリー唯一のミステリーだ、と念を押そう。
よって、アーサー・ヘイリーのファンもミステリー・ファンも見のがせない。
ヘイリーはたっしゃなストーリー・テラーである。本書も山あり谷ありで、起伏に富む。
ヘイリー作品の登場人物のおおくは、ことに主人公は組織の善良な一員であり、誠実に行動する。対立する者がいるけれど、立場の相違から意見をたがえるか、相手に思慮が足りない結果対立するにすぎない。組織全体としては、事はうまく運ぶ。つまるところヘイリー作品は、予定調和説の産物なのだ。
本書には真の悪党が登場する。ヘイリーのこれまでの作品系列からはみだすが、ミステリーも予定調和説に立つのだ。たいがいのミステリーでは、最後には悪は滅び、善は栄えるのだから。よって、ヘイリーがミステリーをものしたのは、ちっとも不思議ではない。
ミステリーである以上、本書には犯罪者が登場する。猟奇的な、残虐きわまる連続殺人を犯す。その犯人を主人公マルコム・エインズリー部長刑事が理解する。元カソリック神父という特異な経歴ゆえに、犯人が残した黙示録にちなむメッセージを正確に読み解くのだ。
カソリック神父は、悪にも理解が深い。
「あるものは同じものによって知られる」というアリストテレスの哲学が正しいとすれば、エインズリーも犯罪者の素質をそなえているのか。
そうかもしれない、と思う。暴力団を取り締まる警官は、暴力団めいた行動をとるが、エインズリーも悪党的に考えることができるのだろう。
ただ、暴力団めいた行動をとっても、警官は暴力団とは一線を画する。
エインズリーも、犯罪には走らない。あくまで愛妻家であり、家庭を守るよき市民である。自分の中に悪の要素があるから犯罪者を理解するが、理解にとどまり、共感はしない。きわどい一歩のちがいかもしれないが、この一歩は大きい。
エインズリーふうの理解は、彼が勤務するマイアミ警察殺人課の掲示板に張りだされた「エインズリー語録」に明らかだ。一例を引こう。
もっとも巧みに嘘をつく者はときにしゃべりすぎることがある。
□アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『殺人課刑事』(新潮社、1998、後に新潮文庫、2001)
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ヘイリー唯一のミステリーだ、と念を押そう。
よって、アーサー・ヘイリーのファンもミステリー・ファンも見のがせない。
ヘイリーはたっしゃなストーリー・テラーである。本書も山あり谷ありで、起伏に富む。
ヘイリー作品の登場人物のおおくは、ことに主人公は組織の善良な一員であり、誠実に行動する。対立する者がいるけれど、立場の相違から意見をたがえるか、相手に思慮が足りない結果対立するにすぎない。組織全体としては、事はうまく運ぶ。つまるところヘイリー作品は、予定調和説の産物なのだ。
本書には真の悪党が登場する。ヘイリーのこれまでの作品系列からはみだすが、ミステリーも予定調和説に立つのだ。たいがいのミステリーでは、最後には悪は滅び、善は栄えるのだから。よって、ヘイリーがミステリーをものしたのは、ちっとも不思議ではない。
ミステリーである以上、本書には犯罪者が登場する。猟奇的な、残虐きわまる連続殺人を犯す。その犯人を主人公マルコム・エインズリー部長刑事が理解する。元カソリック神父という特異な経歴ゆえに、犯人が残した黙示録にちなむメッセージを正確に読み解くのだ。
カソリック神父は、悪にも理解が深い。
「あるものは同じものによって知られる」というアリストテレスの哲学が正しいとすれば、エインズリーも犯罪者の素質をそなえているのか。
そうかもしれない、と思う。暴力団を取り締まる警官は、暴力団めいた行動をとるが、エインズリーも悪党的に考えることができるのだろう。
ただ、暴力団めいた行動をとっても、警官は暴力団とは一線を画する。
エインズリーも、犯罪には走らない。あくまで愛妻家であり、家庭を守るよき市民である。自分の中に悪の要素があるから犯罪者を理解するが、理解にとどまり、共感はしない。きわどい一歩のちがいかもしれないが、この一歩は大きい。
エインズリーふうの理解は、彼が勤務するマイアミ警察殺人課の掲示板に張りだされた「エインズリー語録」に明らかだ。一例を引こう。
もっとも巧みに嘘をつく者はときにしゃべりすぎることがある。
□アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『殺人課刑事』(新潮社、1998、後に新潮文庫、2001)
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スターリンは、晩年、ユダヤ人を弾圧した。1959年の反ファシズム作家委員会役員の逮捕に始まり、1953年の医師団事件に至る。そのADA医、暗殺があり拷問があり、1953年3月5日まで、つまりスターリンの死まで粛正が続いた。
ノンフィクションをよくし、史実をたくみに取り入れた国際謀略小説に定評があるバー=ゾウハーは、如上の史実を背景にドラマを組み立てた。すなわち本書、詩人トーニャの二人の息子の数奇な運命である。
KGBのボリス・モロゾフ大佐は、ユダヤ系の詩人トーニャを愛し、策謀をめぐらせてその夫ヴィクトルと離婚させた。夫のヴィクトルの助命と引き替えにKGB高官モロゾフの妻となったトーニャは、二子ジミトリを産む。しかし、スターリンのユダヤ人迫害の余波を受けてトーニャは処刑され、その1年後にボリス自身も銃殺された。ボリスは失脚の直前に、トーニャと先夫の間に生まれたアレクサンドルを米国在住のニーナ、すなわちトーニャの姉のもとへ送りとどけ、実子ジミトリーをモスクワの孤児院へ避難させた。
アレクサンドルは長じてソ連通の学者となり、ジミトリーはKGBの有能な暗殺要員として順調に出世した。
アレクサンドルは長らく弟の所在を求めていたが、フランスへ留学中に再会をはたした。兄弟が接触するなかだちになったのは、ロマノフ王家の血筋をひくタチアナだった。実はタチアナはジミトリーの手先であると同時に彼の愛人でもあり、兄弟再会は孤独なジミトリーが手配してアレクサンドルをパリに招いたからであった。肉親だけがもたらすやすらぎ。
ところが、何ということか、事情を知らぬアレクサンドルはタチアナを愛してしまったのだ。
タチアナも表裏のないアレクサンドルに惹きつけられる。
だが、二人の関係はたちまちジミトリーの探知するところとなった。瞋恚の炎をもやすジミトリー。
CIA工作員フランコ・グリマルディは、かつて自分が管理するスパイを抹殺したジミトリーを深く恨み、打倒の機会をねらっていた。好機到来とばかり、身を隠したタチアナの所在をジミトリーに密告した。
タチアナは惨殺された。
復讐心に燃えたアレクサンドルは、フランコのもくろみどおり復讐を誓ってCIAの局員となった。かくて、骨肉あい食む熾烈な闘いがはじまった。
本書を流れる時間は1953年、スターリンが鬼籍に入る約2か月前から現代(原著は1993年刊)までの半世紀にわたり、舞台はソ仏米の3か国にまたがる。
本書は単なるスパイの暗闘ではなくて、二人の成長史でもあり、兄弟とその両親の視点からする現代史の一側面でもある。
兄弟が憎悪をぶつけあう後半がやや図式的だが、結末のどんでん返し、明らかにされる衝撃的な事実は、アイデンティティとは何か、民族とは何かという哲学的考察を誘い、奥ゆきの深いエンターテインメントとなっている。
原題はそっけなく、ただの『兄弟』。訳題は裏社会の住民、スパイを暗示して、本書の内容をより正確に反映している、と思う。
□マイケル・バー=ゾウハー(広瀬順弘訳)『影の兄弟(上下)』(ハヤカワ文庫、1998)
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ノンフィクションをよくし、史実をたくみに取り入れた国際謀略小説に定評があるバー=ゾウハーは、如上の史実を背景にドラマを組み立てた。すなわち本書、詩人トーニャの二人の息子の数奇な運命である。
KGBのボリス・モロゾフ大佐は、ユダヤ系の詩人トーニャを愛し、策謀をめぐらせてその夫ヴィクトルと離婚させた。夫のヴィクトルの助命と引き替えにKGB高官モロゾフの妻となったトーニャは、二子ジミトリを産む。しかし、スターリンのユダヤ人迫害の余波を受けてトーニャは処刑され、その1年後にボリス自身も銃殺された。ボリスは失脚の直前に、トーニャと先夫の間に生まれたアレクサンドルを米国在住のニーナ、すなわちトーニャの姉のもとへ送りとどけ、実子ジミトリーをモスクワの孤児院へ避難させた。
アレクサンドルは長じてソ連通の学者となり、ジミトリーはKGBの有能な暗殺要員として順調に出世した。
アレクサンドルは長らく弟の所在を求めていたが、フランスへ留学中に再会をはたした。兄弟が接触するなかだちになったのは、ロマノフ王家の血筋をひくタチアナだった。実はタチアナはジミトリーの手先であると同時に彼の愛人でもあり、兄弟再会は孤独なジミトリーが手配してアレクサンドルをパリに招いたからであった。肉親だけがもたらすやすらぎ。
ところが、何ということか、事情を知らぬアレクサンドルはタチアナを愛してしまったのだ。
タチアナも表裏のないアレクサンドルに惹きつけられる。
だが、二人の関係はたちまちジミトリーの探知するところとなった。瞋恚の炎をもやすジミトリー。
CIA工作員フランコ・グリマルディは、かつて自分が管理するスパイを抹殺したジミトリーを深く恨み、打倒の機会をねらっていた。好機到来とばかり、身を隠したタチアナの所在をジミトリーに密告した。
タチアナは惨殺された。
復讐心に燃えたアレクサンドルは、フランコのもくろみどおり復讐を誓ってCIAの局員となった。かくて、骨肉あい食む熾烈な闘いがはじまった。
本書を流れる時間は1953年、スターリンが鬼籍に入る約2か月前から現代(原著は1993年刊)までの半世紀にわたり、舞台はソ仏米の3か国にまたがる。
本書は単なるスパイの暗闘ではなくて、二人の成長史でもあり、兄弟とその両親の視点からする現代史の一側面でもある。
兄弟が憎悪をぶつけあう後半がやや図式的だが、結末のどんでん返し、明らかにされる衝撃的な事実は、アイデンティティとは何か、民族とは何かという哲学的考察を誘い、奥ゆきの深いエンターテインメントとなっている。
原題はそっけなく、ただの『兄弟』。訳題は裏社会の住民、スパイを暗示して、本書の内容をより正確に反映している、と思う。
□マイケル・バー=ゾウハー(広瀬順弘訳)『影の兄弟(上下)』(ハヤカワ文庫、1998)
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表紙絵は、ポール・デルボーである。静寂がおおう超現実的な背景。紺青の空と海、空と海をわかつ一条の水平線。遠くの海岸の砂浜が手前の石膏色の廊下と分かちがたく繋がっている。向かって左手には扉が開け放たれ、部屋の中には樹が生えている。右手にも密集した樹々。中央やや右よりの正面に素裸の女が浅く腰掛け、両足をそろえ、両手をついて、少し伏し目がちにこちらを見ている。肉感的だが、血の気がなく、印象はほとんど人形に近い。
本書は、題名から容易に察せられるとおり、エロチシズムを主題とする短編小説集である。
女体の十の部位、すなわち乳房、背中、髪、脣、瞳、茂み、臍、掌、腰、顔を各編のタイトルとする。
作品によっては、ほとんどポルノである。
しかし、書かれている内容はポルノ的なのに、読後感は妙に禁欲的な印象を残すのはなぜだろうか。
医師が人体にメスをふるうとき、人間を見るのではなく、単なるモノを見ているのではないか。
本書には、メスをふるう医師のような目が終始つきまとっている。
人間は全体として人間なのであって、部分に分解すると、命の欠けたモノと化してしまう。
部分に分解された女体がもたらすものは、単なるモノか、せいぜい幻想にすぎない。
【参考】中村真一郎『女体幻想』(新潮文庫、1995。単行本は新潮社、1992)
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この論文が発表されたのは、1996年である。当時盛んだったパソコン通信は、NIFTY SERVEにせよ、PC-VANにせよ、この10年間余のうちに消滅した。 しかし、会費をとらないパソコン通信とでもいうべきソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が普及しつつある今日、この論文を再読してみるのは無駄ではあるまい。ただし、ここでとりあげられたモデルにもっともあてはまるのは、都会の孤独な人間ではないかと思われる。
森岡正博は、ほぼ以下のように説く。ここでパソコン通信はSNSと置き換えて読んでも、大差はないと思う。
パソコン通信/インターネット(や電話という制限メディア)のコミュニケーション類型は二つある。(1) 情報通信と(2) 意識通信である。
(1) 情報通信は、情報のキャッチボールである。メディアを道具として使うもので、データ/用件/知識などの情報をAからBに、またはその逆に一方向/双方向に受けわたすことを目的とするメディアの使い方だ。
(2) 意識通信は、意識交流と心の変容である。それ自体の楽しみのために、たとえばメディアの中で誰かと会話すること自体を目的とするようなメディアの使い方だ。
現実には、この二つの側面は混じりあっているのだが、パソコン通信/インターネット(や電話という制限メディア)の場合、意識通信の側面がきわだっている。
深夜、チャットをするのは、用件の伝達というよりは、自分の寂しさをまぎらわし、不安をとり除き、ほんの少しのやすらぎや癒しを得る(自分の心の状態や形を変容させる)というのが大きな動機である。
意識通信のモデルには、7つの要素がある。すなわち、「意識交流場」「交流人格」「触手」「人格の形態」「自己表現」「意識」「構造」である。
人と人とが出会うときに意識交流場が設定され、そこでお互いが触手を触れあわせ、その触手を伝わってお互いの意識が流出する。流出した意識は意識交流場で交わりあい、相手の人格の内部へはいって、その底にある心の構造を変容させる。
チャットを例にとると、電話回線をつうじてチャット・ルームで出会い、Aからメッセージが流出し、Bからメッセージが返され、メッセージが交錯していき、それぞれの心の構造を変容させる。
意識通信のモデルの核心は、「触手」の触れあいと流出した意識の「意識交流」にある。「断片的人格」(匿名の相手が送りだす人格の断片にもとづいて受け手の想像力のなかで組みあげられたもの)の一部がアメーバのように長く伸び、会話する相手から伸びてきた触手とからまりあい、押したり引いたりする。
この触手の運動をつうじて、個人の意識がコミュニケーションの場(意識交流場)へ流れだす。お互いの触手から流れだした意識が混ざりあい、混ざり合った双方の意識は相手の意識の痕跡を自分の内に刻印し、ふたたび触手を逆につたわって自分の人格のなかへ逆流する。逆流した意識は、変容を受けており、さらに自分の心に影響を与えて、自分の心の底にある独自の傾向性にも影響を与えることがある。
「触手」「流動体としての意識」は、多方向コミュニケーションに関する新たなパラダイム創出のための装置だ。この装置を採用することで、たとえばチャットで時折訪れる異様な臨場感、画面から溢れでてくるようなコトバの肉感的なインパクトを説明できる、と思う。
【参考】森岡正博「意識通信の社会学」(井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉編『岩波講座・現代社会学第22巻 メディアと情報化の社会学』、岩波書店、1996、所収)
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森岡正博は、ほぼ以下のように説く。ここでパソコン通信はSNSと置き換えて読んでも、大差はないと思う。
パソコン通信/インターネット(や電話という制限メディア)のコミュニケーション類型は二つある。(1) 情報通信と(2) 意識通信である。
(1) 情報通信は、情報のキャッチボールである。メディアを道具として使うもので、データ/用件/知識などの情報をAからBに、またはその逆に一方向/双方向に受けわたすことを目的とするメディアの使い方だ。
(2) 意識通信は、意識交流と心の変容である。それ自体の楽しみのために、たとえばメディアの中で誰かと会話すること自体を目的とするようなメディアの使い方だ。
現実には、この二つの側面は混じりあっているのだが、パソコン通信/インターネット(や電話という制限メディア)の場合、意識通信の側面がきわだっている。
深夜、チャットをするのは、用件の伝達というよりは、自分の寂しさをまぎらわし、不安をとり除き、ほんの少しのやすらぎや癒しを得る(自分の心の状態や形を変容させる)というのが大きな動機である。
意識通信のモデルには、7つの要素がある。すなわち、「意識交流場」「交流人格」「触手」「人格の形態」「自己表現」「意識」「構造」である。
人と人とが出会うときに意識交流場が設定され、そこでお互いが触手を触れあわせ、その触手を伝わってお互いの意識が流出する。流出した意識は意識交流場で交わりあい、相手の人格の内部へはいって、その底にある心の構造を変容させる。
チャットを例にとると、電話回線をつうじてチャット・ルームで出会い、Aからメッセージが流出し、Bからメッセージが返され、メッセージが交錯していき、それぞれの心の構造を変容させる。
意識通信のモデルの核心は、「触手」の触れあいと流出した意識の「意識交流」にある。「断片的人格」(匿名の相手が送りだす人格の断片にもとづいて受け手の想像力のなかで組みあげられたもの)の一部がアメーバのように長く伸び、会話する相手から伸びてきた触手とからまりあい、押したり引いたりする。
この触手の運動をつうじて、個人の意識がコミュニケーションの場(意識交流場)へ流れだす。お互いの触手から流れだした意識が混ざりあい、混ざり合った双方の意識は相手の意識の痕跡を自分の内に刻印し、ふたたび触手を逆につたわって自分の人格のなかへ逆流する。逆流した意識は、変容を受けており、さらに自分の心に影響を与えて、自分の心の底にある独自の傾向性にも影響を与えることがある。
「触手」「流動体としての意識」は、多方向コミュニケーションに関する新たなパラダイム創出のための装置だ。この装置を採用することで、たとえばチャットで時折訪れる異様な臨場感、画面から溢れでてくるようなコトバの肉感的なインパクトを説明できる、と思う。
【参考】森岡正博「意識通信の社会学」(井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉編『岩波講座・現代社会学第22巻 メディアと情報化の社会学』、岩波書店、1996、所収)
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卓抜な歴史小説『大列車強盗』を書いた鬼才、マイクル・クライトンの一風かわった歴史小説である。
クライトンは、一作ごとに新しい題材に挑戦した。本書で挑戦したのは、時間旅行である。
いや、時間旅行ではない。作中の一登場人物はほぼ次のようにいう。「そもそも、時間旅行という概念自体、ナンセンスだ。時間は流れているわけじゃない。時間そのものは不変なのだよ。過去は現在から隔たっているわけじゃないから、そこへ移動することはできない」
にもかかわらず、主人公たちは現代の合衆国から中世のフランスへ旅立つ。
これがどうして可能なのか。解は「量子テクノロジー」と「多宇宙」の二語にある・・・・。
マイクル・クライトンには科学啓蒙家としての稟質があるらしく、時間旅行学について前書きでも小説の中でも噛んで含めるがごとく解説しているのだが、申し訳ないことに、このあたりは駆け足で通りすぎてしまった。ゆえに、論理的帰結として、時間旅行の理屈は評者には依然としてナゾである。
冒険小説の読者としては、現代人が中世を旅するという根拠がどこかで説明してあれば、それで十分なのだ。むろん、SFの読者は別の読み方をするにちがいない。
冒険譚はイェール大学歴史学科教授の失踪に始まる。
この報を受けた主人公、同学のアンドレ・マルク助教授ほか3名の大学院生は、ニューメキシコ州のITC社へ飛ぶ。ここで驚くべき企業秘密を明かされる。並行宇宙への一種の空間移動を実現する転送装置である。教授は1357年へ転送されたまま、帰還しなかった。そこで、この時代に詳しいマルクたちに救出の白羽が立ったのだ。
一行は、ドルドーニュ川沿いのカステルガールに到着した。当時、残虐で知られるサー・オリバー・ド・ヴァンヌが支配していた地域である。対抗勢力アルノー・ド・セルヴォルの軍勢との間に、まさに戦端が開かれようとしていた。
一行は両者の争いに巻き込まれ、息をつがせぬ展開となる。
一方、ITC社でも問題が生じていた。装置に大幅な修理が必要になり、一定の時間は帰還できない状態になったのである。しかも、システム上、37時間を過ぎると現代に戻れなくなる。
章ごとに残り時間が表示され、緊迫感を増す。
時間切れ寸前に、マルクは誰も思いもよらぬ決断をする・・・・。
クライトンは、娯楽小説のツボを心得た作家である。医学部出身で、人気TVドラマ「ER」の原案者であり、『大列車強盗』ほかの映画監督もつとめた。ゲームの会社も興している。こうした多芸多才ぶりが本書にも反映している。すなわち、映像になりやすい情景描写、波瀾万丈のストーリー、盛り沢山のアクション場面、である。
脇役にもそれぞれ活躍の場が与えられ、これら小さな挿話が全体の厚みを増している。
ところで、本書には歴史的なナゾが少なくともひとつある。中世の騎士が概して膂力にすぐれる、とされている点だ。スポーツマンで中世の武器の練習をおさおさ怠らなかったアンドレ・マルクさえ圧倒されるほどの怪力の持ち主が、わんさといたのだ。このアイデア、マイクル・クライトンはどこから得たのだろうか。マルクが意外に感じたところからして、中世史の常識ではないらしい。恐山の巫女の力をかりて泉下のクライトンを呼び出し、尋ねてみたい気がする。
□マイケル・クライトン(酒井昭伸訳)『タイムライン』(早川書房、2000)
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クライトンは、一作ごとに新しい題材に挑戦した。本書で挑戦したのは、時間旅行である。
いや、時間旅行ではない。作中の一登場人物はほぼ次のようにいう。「そもそも、時間旅行という概念自体、ナンセンスだ。時間は流れているわけじゃない。時間そのものは不変なのだよ。過去は現在から隔たっているわけじゃないから、そこへ移動することはできない」
にもかかわらず、主人公たちは現代の合衆国から中世のフランスへ旅立つ。
これがどうして可能なのか。解は「量子テクノロジー」と「多宇宙」の二語にある・・・・。
マイクル・クライトンには科学啓蒙家としての稟質があるらしく、時間旅行学について前書きでも小説の中でも噛んで含めるがごとく解説しているのだが、申し訳ないことに、このあたりは駆け足で通りすぎてしまった。ゆえに、論理的帰結として、時間旅行の理屈は評者には依然としてナゾである。
冒険小説の読者としては、現代人が中世を旅するという根拠がどこかで説明してあれば、それで十分なのだ。むろん、SFの読者は別の読み方をするにちがいない。
冒険譚はイェール大学歴史学科教授の失踪に始まる。
この報を受けた主人公、同学のアンドレ・マルク助教授ほか3名の大学院生は、ニューメキシコ州のITC社へ飛ぶ。ここで驚くべき企業秘密を明かされる。並行宇宙への一種の空間移動を実現する転送装置である。教授は1357年へ転送されたまま、帰還しなかった。そこで、この時代に詳しいマルクたちに救出の白羽が立ったのだ。
一行は、ドルドーニュ川沿いのカステルガールに到着した。当時、残虐で知られるサー・オリバー・ド・ヴァンヌが支配していた地域である。対抗勢力アルノー・ド・セルヴォルの軍勢との間に、まさに戦端が開かれようとしていた。
一行は両者の争いに巻き込まれ、息をつがせぬ展開となる。
一方、ITC社でも問題が生じていた。装置に大幅な修理が必要になり、一定の時間は帰還できない状態になったのである。しかも、システム上、37時間を過ぎると現代に戻れなくなる。
章ごとに残り時間が表示され、緊迫感を増す。
時間切れ寸前に、マルクは誰も思いもよらぬ決断をする・・・・。
クライトンは、娯楽小説のツボを心得た作家である。医学部出身で、人気TVドラマ「ER」の原案者であり、『大列車強盗』ほかの映画監督もつとめた。ゲームの会社も興している。こうした多芸多才ぶりが本書にも反映している。すなわち、映像になりやすい情景描写、波瀾万丈のストーリー、盛り沢山のアクション場面、である。
脇役にもそれぞれ活躍の場が与えられ、これら小さな挿話が全体の厚みを増している。
ところで、本書には歴史的なナゾが少なくともひとつある。中世の騎士が概して膂力にすぐれる、とされている点だ。スポーツマンで中世の武器の練習をおさおさ怠らなかったアンドレ・マルクさえ圧倒されるほどの怪力の持ち主が、わんさといたのだ。このアイデア、マイクル・クライトンはどこから得たのだろうか。マルクが意外に感じたところからして、中世史の常識ではないらしい。恐山の巫女の力をかりて泉下のクライトンを呼び出し、尋ねてみたい気がする。
□マイケル・クライトン(酒井昭伸訳)『タイムライン』(早川書房、2000)
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