ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2020-25 原 敬 業績の下で支えた思いとは

2020年02月02日 | 日記
先人記念館にて恒例の学習会
今回は原敬。今年の秋、100回忌という。
隣の原記念館員の方からの講演。

今回の話を聞いて
新渡戸稲造との接点を知った。
本県は偉人を大事にしている県である。
というのは立派な建造物の中で先人130人の業績をたたえ
また、原記念館、など独立した記念館も多数存在し大事に扱っているからである。
というのは
和歌山にねんりんピックで訪れた際に和歌山城の中の
小さなスペースに郷土の偉人ということで
紀の国の有吉佐和子や松下幸之助などの業績が紹介されていたからでもあった。
原、敬といえば
平民宰相、政党政治の始りなどに代表され紹介されているが
この根底にあるもの
戊辰戦争で敗れた家老の息子でもあった。12歳。
「白河以北一山100文」今で言うと(一千円程度)という蔑視を肝に銘じ
「一山」という判子を死ぬまで使用したことからもわかるというものだ。
薩長の偏った藩閥政治への改革。14年かけて薩長が支配していた郡制を廃止。
また、内閣も政党からの人事で藩閥を排除。65歳で暗殺されたがもし生きていたら
また歴史は変わったかもしれない。

新渡戸稲造は原より6歳年下。戊辰戦争時では6歳である。
国際連盟の事務総長としてあるいは太平洋の架け橋の立役者、教育者などと呼ばれているが
原敬との接点。1920年国際連盟ができて国連事務局次長として赴任した。
時の総理大臣でもあったのだ。原が任命したのだ。それから一年後、原は暗殺される。
新渡戸はその後7年間、国連で働き、退官。
その後、政治の変動の昭和の満州事変勃発と続く。
平和を願う新渡戸は失意の中カナダでなくなる。72歳。

人とのつながりで歴史を見ると実に面白いものだ。






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