ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2020-28 パラサイト 半地下の家族 

2020年02月12日 | 日記
アカデミー賞をとったという韓国映画を一週間前頃見ていた。
予想外の展開。そして貧困と2極分化の社会性もある。
実に見ていて面白かった。
ハリウッド映画は贅沢な資金でアクションや娯楽性が強くてやや遠ざかっていた。
その点アジア映画のほうが味わい深い映画が多いと感じていた。
韓国では北朝鮮の攻撃などから備えて半地下の住居も実際あるようだ。
今日の韓国の貧困にあえぐ人々の生活の断片と
そして反面裕福な家庭との対比がよく見えた。
何気ない会話から隣の北の風刺もあった。
しかし。ポン・ジュノ監督の視点の切り込み方はユニークだ。
日本で言うと社会風刺として万引き家族もあったが。
予想外の展開ではパラサイトの方がそれを上回っていた。

失業中のキム一家
裕福な家庭で高台に住むパク一家
家庭教師になった兄、そして妹、父、母と次々その家庭の使用人になっていく。
匂いまでは消せない。そして
ドタバタ的破滅へ。
アカデミー賞授与。
アメリカでもこの映画の価値が認められたことは画期的である。


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2020-27 七滝氷爆ツアー 県民の森にて

2020年02月09日 | 日記
9日、なんとマイナス12度以下。
9時発、県民の森の七滝をめざす。スノーシューをはいて 三,二キロ。
ガイドによれば
今年は落差30mの滝が凍り付いて氷爆となるが一部凍らず滝がながれているそうだ。

 県民の森は昭和49年の全国植樹祭を記念してできた森で当初は70haの広さだったようだ。
今は国有林の払い下げで360haの広さ、東京ドーム80個分の広さになったそうだ。
厳寒期の中、二時間かけて到着だ。
唐松林、ミズナラ林、黒いトドマツ林など登山道を歩く。
不思議と風がないせいか寒さを感じなかった。
ようやく着いて、更に冬ならではの滝壺まで降りていくことができた。

七滝とは諸説あるそうだが頂上からみて7つの滝があるという説と
7つの沢があると言う意味があるそうだ。

しかし、今年の七滝は今までになく一部、滝の水が落ちている珍しい光景なようだ。
下からのぞくと30mの上からそれぞれ氷の形がちがう、つららが光に反射して
実に見事であった。
帰り道、スノシューで新雪の中を歩くと、長靴なら雪にのめり込み歩けなくなるところを
ズボッと入るが途中で止まり威力を十分に発揮して歩むことができた。
お昼過ぎに到着。約三時間三〇分の道のりだった。
参加費は温泉風呂付きで二千円と格安。人気のある企画のようだ。
あるバスツアーではその数倍の値段である。
今回の参加者は40人、うちなつかしい知人が4人いた。
昨年はいっぱいで今回ようやく参加できたといった人もいた。

午後、ついでに近くのリゾートスキー場に立ち寄り数本初滑りを楽しんだ。
そしてマウンテンH温泉で疲れを癒やして帰宅した。



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2020-26 私たちが生まれた島 okinawa 

2020年02月08日 | 日記
2018年、の沖縄の1年間の動きをまとめた映画会があった。
なんと監督は37歳の都鳥伸也氏・拓也氏の双子の監督だったのだ。
10年前に「命の作法 沢内、生命行政を継ぐ者たち」で
デビューした北上出身の若き監督である。

1年前の2019年2月の沖縄の県民投票で
72パーセントの人が辺野古基地建設に反対を投じたのは記憶に新しい。

この結果だけは新聞で報道され知っていたが
沖縄だからという特別な目で見ていたようにも思ったものだった。

しかし、このドキュメント映画を見て人々の、若者たちを中心とした
純粋なふるさとを想う活動のたまものであったことを感じた。
あらすじは
2018年一人の学生、沖縄出身の元山さんの呼びかけから始まる。
基地問題について考え、辺野古基地問題の賛否を問う活動が幅広く支援され
広がっていく様子が分かる。
またかつて激戦地となり住民の半数が犠牲になった
伊江島で育った高校生が沖縄の過去と向き合いこれからの沖縄について考え
行動する姿も紹介されていた。
実は20年前にその伊江島に行っていた。映画で紹介されていた反戦資料館で
会った謝花さんが当時のまま健在で力強く語っていた姿をみて懐かしく感じたものだった。

翁長知事が亡くなって数日後に県民投票を請願の10万筆を集め副知事に手渡すシーン。
県議会で承認されるが相変わらず国との対立。県民投票参加を5市の自治体が承認されない。
1月、ハンガーストライキ行動を4日間とる。ついに1月末に5市も認め、全県で県民投票へ。
全国のマスコミでは紹介されなかった沖縄での内実をはじめて知ることも多々あった。

都鳥伸也監督は改めていい映画を作ると感じた。
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2020-25 原 敬 業績の下で支えた思いとは

2020年02月02日 | 日記
先人記念館にて恒例の学習会
今回は原敬。今年の秋、100回忌という。
隣の原記念館員の方からの講演。

今回の話を聞いて
新渡戸稲造との接点を知った。
本県は偉人を大事にしている県である。
というのは立派な建造物の中で先人130人の業績をたたえ
また、原記念館、など独立した記念館も多数存在し大事に扱っているからである。
というのは
和歌山にねんりんピックで訪れた際に和歌山城の中の
小さなスペースに郷土の偉人ということで
紀の国の有吉佐和子や松下幸之助などの業績が紹介されていたからでもあった。
原、敬といえば
平民宰相、政党政治の始りなどに代表され紹介されているが
この根底にあるもの
戊辰戦争で敗れた家老の息子でもあった。12歳。
「白河以北一山100文」今で言うと(一千円程度)という蔑視を肝に銘じ
「一山」という判子を死ぬまで使用したことからもわかるというものだ。
薩長の偏った藩閥政治への改革。14年かけて薩長が支配していた郡制を廃止。
また、内閣も政党からの人事で藩閥を排除。65歳で暗殺されたがもし生きていたら
また歴史は変わったかもしれない。

新渡戸稲造は原より6歳年下。戊辰戦争時では6歳である。
国際連盟の事務総長としてあるいは太平洋の架け橋の立役者、教育者などと呼ばれているが
原敬との接点。1920年国際連盟ができて国連事務局次長として赴任した。
時の総理大臣でもあったのだ。原が任命したのだ。それから一年後、原は暗殺される。
新渡戸はその後7年間、国連で働き、退官。
その後、政治の変動の昭和の満州事変勃発と続く。
平和を願う新渡戸は失意の中カナダでなくなる。72歳。

人とのつながりで歴史を見ると実に面白いものだ。






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