ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.10.7 不都合な真実に触れずに済めば・・・

2016-10-07 23:23:40 | 日記
 朝日新聞のネットニュースを見ていて、なるほどなと思った記事があった。社会学者・上野千鶴子さんのものだ。以下、転載させて頂く。

※    ※    ※(転載開始)

(北陸六味)上野千鶴子さん 新聞バナレの行く末は(2016年10月7日11時32分)

 就活中の学生が新聞社から内定をゲットしてくると、必ずこう言うことにしている。
 「よかったね。でも、その会社、あなたの定年まであるかしら」
 そもそも就活生自体が新聞を読んでいない。実家を離れたら購読料の負担は重いし、読まなくても痛痒(つうよう)を感じない。情報源はほとんどネットニュース。それで用が足りる。自分が読んでいないのに、新聞社に内定を決めてくる学生もいる。こんな若者が近い将来、新聞の担い手になるのか……とぞっとする。
 同じようなエピソードを、ある中学教師から聞いた。大学に進学した卒業生たちと話す機会があって、「そう言えば中学生のときに、新聞の読みくらべをさせられたよね」という話題から、いまは、と聞くとばつが悪そうに「就活生だから新聞読まなきゃいけないんだけど」「忙しくて読むヒマがなくて」という返事がきた。就活だから新聞を読む学生は、就活が終わると、再び読まなくなるだろう。
 「人前で新聞を読むのが恥ずかしい」という答えもあって、ショックを受けた。そもそも新聞を読むのは身体化された生活習慣の一種。それが身についている世代は団塊世代止まりだろう。下の世代は、プリントメディアよりもTV映像よりも、ネットの端末を見ている時間がずっと長い。
 あのやたらと大きいサイズの紙をがさがさ言わせながら新聞を拡(ひろ)げるのはいかにもダサいし、幕の内弁当なみのてんこ盛りにも違和感がある。プロスポーツに何の興味もないわたしには、スポーツ欄の数頁(ページ)はまったくムダ。それなら自分が知りたい情報を、際限なく検索できるネットの方がはるかに役に立つ。
 メディアリテラシー教育というのがある。かんたんにいうと新聞の読みくらべのことだ。新聞そのものを読まなくなれば、読みくらべも意味がない。もしかしたら新聞の読みくらべは、もはや学校でしかやらない特殊な経験になるかもしれない。いまの子どもたちは、新聞やTVより、ずっとネット慣れしている。
 速報性のお株をとっくにTVやラジオに奪われた新聞には、調査報道という重要な役割が残っている。その昔、新聞記事のクリッピングを特定のテーマについて1年間続ければ、その方面のいっぱしの通になれる、と言われたものだ。深みと裏付けのある信頼できる報道の必要性はなくなっていないのに、新聞に代わる報道ジャーナリズムは成熟していないし、一方、新聞バナレはどんどん進んでいる。
 ネット界の情報探索の困った点は、じぶんにつごうのいい情報しか入ってこないことだ。新聞の紙面ならいやでも目に入ってくる「ふつごうな真実」に触れなくてすむ。その弊害はとっくに指摘されているし、アメリカではそうした傾向が先行している。トランプ批判がいっこうに耳に入らないトランプ支持者のような現象が日本でも起きるのだろうか? いや、とっくに起きているような気がする。(社会学者)

(転載終了)※   ※   ※

 そうか、もはや新聞を読むということはダサイのか。と、ちょっと落胆する。
 確かに混んだ電車の中で大きな紙をガサガサするのはあまりスマートではないことかもしれないけれど、かつては皆、ある程度上手に折り畳んで人の迷惑にならないように読む術を持っていたなと思う。
 けれど、だからこそ“紙”の新聞なのだと思う。開いて全体を見渡す、という作業こそが、紙の新聞を読む醍醐味だと。

 もちろん、今ではネット記事に日々お世話になっている私だ。自宅では一紙しか取っていないけれど、ひとたびパソコンを開けば、興味のない記事はすっ飛ばして興味のある記事だけいくらでも読み進めることができる。そう、それがそもそも問題なのだろうな、とも思う。
 自分にとって都合のよい真実だけ掘り下げて、自分の興味の網の目から外れるものについては、全てスルー出来る。一方、紙の大きな紙面だと、否応なしに見出しくらいは目に入ってくる。読み進めるかどうかは別として、全く見なかったことにするということはないような気がする。

 そんなわけで、我が家は相変わらず新聞を朝刊夕刊セットで取り続けているし、おそらく今後も購読を止めることはないのだと思う。
 片や、下宿している息子は、我が家にいる時から毎朝毎夕新聞を読んでいるわけではなかったし、目を通すのはスポーツ欄だけだった。ただでさえお小遣いが足りないとキューキュー連絡してくるくらいだから、新聞なんぞ取っているわけはない。

 就職活動を始めるにあたって新聞を取りたいのだけれど、という話もおそらくないのではないかと思っている。それにしても新聞社に勤めようとしている学生が、新聞を読まないということは物凄い皮肉ではないか。文章は読まないと書けないのでは・・・と思うのだけれど。新聞記者の知人が就職試験の論文なり作文なりを読み、本当にこれで記者になるのか、と思うようなものが沢山ある、と嘆いていたことを思い出した。

 今は昔、私が経験した就活では、“新聞を読む”という行為は社会人になるための前提というか、暗黙の了解だと思っていた。複数の社説を読み比べたりした。けれど、今のようなネット記事を掘り下げる読み方では、はたしてどうなのか、と思ってしまう。

 まあ、無料でネット記事のアウトラインだけ読めればそれで充分、あとはいくらでもスマホでゲームやら何やら時間潰しは出来ますから、ということであれば、わざわざ月に4,000円超のお金を払い続けるのもどうか、と思う世帯があっても不思議ではない。

 と同時に、最近の新聞取次店のサービスの良いことに驚く。更新ごとにあれやこれやと生活用品等の粗品が置かれていく。これだけの契約期間でこんなに頂いていいのでしょうか、というくらいのボリュームだ。それでも契約を続けてもらった方がよいのか。今や新規開拓などありえないから継続の読者を大切にしてくれているのかどうか。

 上野さんが案じておられるように、息子世代が定年になる前に新聞社が軒並み方針変更して紙の新聞を出すところがなくなってしまったら・・・、そう思うとアナログな活字中毒の私としてはとても哀しいのだけれど、果たしてどうなのだろう。
 まあ、そんなことより、まだ息子世代が就職もしていないうちから、定年になる前に、などということを案じるより、そんなに長く生きていられるかどうかの方を心配したら?、ということこそ、そもそも私が不都合な真実に触れていないということかもしれない。
コメント
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