ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.1.16 第九合唱練習スタート

2010-01-16 22:51:46 | 合唱
 昨年10月の卒業25周年ホームカミングデーでOB合唱に参加できたことに気を良くして、今度は5月に東京文化会館で行われる大学交響楽団OB有志によるオーケストラのベートーヴェン第九演奏会に参加するお話がきたのに飛びついた。
 練習は今日から本番まで7回だけ。月1回の合唱練習と3月、4月にはオケとの合同練習がプラスされ、前日のゲネプロ(舞台上での通し稽古)の後、本番を迎えるスケジュールだ。練習期間が限られているので、「第九を歌った」経験があること、本番では暗譜で歌えること、7回の練習中4回以上出席できること、という3つの条件がついている。
 このくらいの条件なら体調と相談しながら参加できるかもしれない、と前回の心地よさに味を占めてずうずうしくも思い切って参加を申し込んでしまった。

 特に同期の誰かを誘って、というわけではなかったけれど(このへんが私のずうずうしいところだ。)、大学関係者だけでなく広く応援者も募ったそうで、合唱で240名の参加希望者がいたとのこと。初日である今日の練習でもホールの椅子が足りなくなるほど。今日の参加者は各パート50人ほどの大所帯だった。合唱指導者はグリークラブのOB、指揮者も交響楽団のOBだ。前回の幹事さんである先輩方ともお会いすることが出来た。私より16期上の大先輩もいらして(お孫さんがいらっしゃるとのこと)、それでもとても若々しく、あと16年私もあんなふうに年を重ねていけたらいいのに、と思わざるを得ない。

 初めて「第九」を歌ったのは今を遡ること30年(!!)近く前、大学1年生の時だ。当時所属していた合唱団に対して、別の大学のオーケストラから「演奏旅行をするのだが、合唱団員が足りない」と募集があった。行き先は何とモーツァルトの生誕地オーストリアのザルツブルク祝祭大劇場等。今、冷静に考えれば、よくまあずうずうしくそんな聖地で、学生オーケストラと俄か仕立ての合唱団が演奏させてもらえたものだ。若いって実にすごい。(としか言いようがない。)

 初めての海外旅行が演奏旅行。有楽町まで出かけて初めてパスポートをとり、リムジンバスで初めて成田空港へ行き、直行便は出ていなかったので南回り(だったと思う。)で初の欧州へ飛んだ。1年生だったし、先輩たちからは『今年の1年生はずいぶんと元気がよいこと・・・』とのコメントがあったこともご愛嬌だ。ホテルの乾燥しきった部屋でのどを痛めないかとはらはらし、濡れタオルを部屋に干しつつ、とにかく何とか無事に歌って無事に帰国した。本場でオペラ鑑賞もし、宮殿等の観光も含まれ民族衣装をお土産に買ってきた夢のような10日間であった。

 そんなことを思い出しながら久しぶりに新しく買った楽譜を開き、出ない声を絞り出して歌ってきた。体操から始めて発声練習して、とにかく今日は最後まで一通り歌うことが目標だったが、2時間半はあっという間だった。次回の練習は2月の半ば。検査の結果、練習に参加できなくなるようなことがないことを祈って。

 夜には家族で「かいじゅうたちのいるところ」の映画も観て来た。ご存知モーリス・センダックの絵本の映画化。息子が保育園で先生に何度も読んでもらった思い出のお話。アニメではなくCGでもない実写版の怪獣たちのなんとも豊かでチャーミングな表情に、じんわりと心が温まり、保育園時代三角おにぎりのような後姿で絵本を読んでいた息子を思い出した。
 今日も幸せな一日に感謝、感謝だった。

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2010.1.14 婦人科検診結果到着

2010-01-14 20:59:28 | 日記
 帰宅すると、先月の婦人科検診の結果の封書がポストに入っていた。
 婦人科は総合判定が異常所見なし。検査項目と検査所見では診察所見・コルポスコープ診・超音波断層撮影すべて異常所見なし、細胞診 頸部は 陰性(Class Ⅰ)だった。
 一方、乳腺科の方は、総合判定で(左)術後所見:他医経過観察・治療中、(両側)乳腺腫瘤(疑):他医経過観察・治療中。診察所見は(右)異常所見なし(左)術後所見 超音波断層撮影では(両側)乳腺腫瘤(疑)(左)術後所見 とあった。
 その場で聞いていたので特に驚かなかったし、直ぐに年内にかかりつけ医で乳腺エコーもできており、年明けに特別の所見なし、と聞いていたので良かった。ただ、婦人科については昨年6月の検査以降また何かあったら、という一抹の不安があったので、ほっとした。

 先日、インタビューが掲載された月刊誌を両親と義母に送った。今までの治療の状況をきちんと話してこなかった、という負い目と、それでも私が拙い言葉で専門用語を交えてぐちゃぐちゃいろいろ説明するよりも、ああした形で完成した文章を読んでもらう方が、冷静に客観的にわかってもらいやすいのではないか、と考えたからである。

 両者ともに余計な心配をかけたくなかったので、私が昨年半年間休職していたことを伝えていなかった。「大丈夫、大丈夫、何とか仕事もしているし、治療も続けているし、今すぐどうこういうことはないから・・・。」とやり過ごしてきたので。それでも「泊まりにいきたいんだけど・・・・。」等のリクエストについては何となくのらりくらりとかわしつつ、息子と夫を遊びに行かせたり、ご機嫌伺いに送り込んだりして2年近くを過ごしてきた。

 両親(特に母)にさめざめと泣かれるのも辛かったし、義母から「困ったら、泊り込みでお手伝いに行ってあげる。」と言われるのも、あの酷い副作用をかかえた精神的・身体的状況では、どちらも正直、重たかった。

 それにしてもなぜうまく伝わらないのだろう。
肉親だから冷静になれない、ということもあるのだろうが・・・。義母は初発の手術から今年の2月で5年経つので(いわゆるがん5年卒業説ではないが、こと乳がんは10年である。)、なぜか「もう治った」と、私がすっかり克服した、とこれまで思っていたようだ。電話がかかってきて話をしているうちに、これまで「?」だった義母のいろいろの発言がつながった。「そうだったんだ・・・。」とひざを打った。「もう元気そうだし、大丈夫なんでしょう?」と聞かれて、「いいえ。私は再発・転移したので、残念ながらもう完治しないし、手術も出来ないのです。今やっている治療は延命治療なので、いつまで効いているかだって実際のところ先生にもわからないのです。せめて何とか順序だけは守ってから逝きたいと思います。」と言ってしまっては身も蓋もないし、自分自身あまりに落ち込むので、へらへらしていたのがいけなかったらしい。
 それでも夫から再発・転移の件はきちんと伝えていたはずなのに・・・。

 健康で年を重ねると、「病気」というものに対してあまり深刻に考えなくなるのだろうか。「病気になる」ということを想像できなくなるのか。それともあまり楽しくない話題は無意識に明るい話題に変えて自分に取り込むからこそ長生きできるのか、残念ながらまだ彼女たちと同じ年まで生きてきていない病気持ちの私にはよくわからない。病院通いが常になっている父でさえ、実に自分に都合よく物事を取捨選択して理解するので、「?」のことがたくさんある。

 「健康で長寿」ということは何より素晴らしい。今や自分が果たせなくなっている、ということを思うと、私にとってはまさしく「ないものねだり」である。ただ一方で、「年を重ねる」ということは、哀しいかな、実は上に書いたことのようなものなのかもしれない、と思ってしまった。

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2010.1.12 ハーセプチン76回目、ゾメタ30回目 

2010-01-13 20:35:12 | 治療日記
 内科受付後10分ほどで「中待合へ。」の掲示が出、その後5分ほどで診察室に呼ばれた。先週は1度頭痛のため痛み止めを飲んだこと、(いよいよ老眼の始まりなのか)右眼がチカチカして見えづらいことがあったことをご報告。今は特に何ともないのだが、頭痛だの視力だのが異常というと、すぐに脳転移かとオタオタしてしまうところがちょっぴり哀しい。

 腫瘍マーカーはまた上がっていた。正常範囲内の上限に達している。昨年9月以来5ヶ月連続の上昇である。先月値と比べると3割増といったところだ。先生がおっしゃるには、「どこかで(がん細胞が)増えてはいるが、それが問題になるか否かは、画像上または症状として現れるか否かが重要である。数字が上がっているのは気にはなるが、あがり方はそれほど急でない。だから即、治療、というわけではない。来月云々ではなく、数ヶ月ごとの検査ということで(前回は10月だったので)2月か3月にCTで調べましょうか」という程度のことのようだ。「腫瘍マーカーは数字なので手っ取り早いので良いが、こうしたこと(画像上、症状上特に変化がないのに数字が上昇するということ)が時折あり、どうしたものか、という悩みどころがある。」ということだった。いずれにせよ「治療継続して、フォローする」という大きな方針には変わりはない。

 処置室に移動、最後の1つの点滴椅子を確保し、検温、血圧の測定の後刺針。小一時間して点滴開始となった。今日はゾメタも含め4本のフルコース。看護師さんとも頭痛の話から「つい良くないことを考えてしまって・・・(だめですね)。」と話す。いわく「自分たちも(普通なら知らないことを)なまじ知っているから(健康なのに、つい)いろいろ考えてしまう。みんな同じですよ」とのこと。確かにこの年になっても病気に限らず知らないことは本当に多い。知らないで済めばよかったこと、知らぬが仏、のことも病気になってから結構知ってしまったのも事実だ。

 今日もたっぷり時間があったので2冊の本が読めた。
 1冊目はE.キューブラー・ロス著・鈴木晶さん訳「死ぬ瞬間 -死とその過程についてー」(中公文庫)。言うまでもなく1969年の出版以来現在に至るまで全世界で広く読み継がれており、ターミナルケアに関心を持つ人々にとっての「聖書」とすら呼ばれているもの。がん関連の本を読むと、必ずこの死の五段階節が引用されている。今までなんとなく目をつぶり読むのを避けてきたが、今回思い切って読んでみた。結果、素直に「読んで良かった。」と思った。ああ、言いたかったのはこういうことなんだ、と改めて文章にしてもらった気がした。
 2冊目は外山滋比古さんの「思考の整理学」(ちくま文庫)。100万部突破!の帯ではないが、1986年に文庫化されて23年。全く古さを感じさせず、何で当時読んでおかなかったのか、と悔やまれた。それでもこうしてブログを書くことが少しでも日々「考える」ことの足しになればいい、と思う。

 1月14日で結婚20周年を迎える。
 息子が学校のスキースクールで不在だったので、私の早朝会議の前泊にあわせて、少しばかり早いけれど2人で祝った。ちょっと毛色を変えてチュニジア料理のお店で。昔、研修でパリにいた時に現地事務所の女性に連れて行って頂いたのが、アフリカ料理との出会いだった。スパイスは効いているのに野菜がたっぷり。体に沁み込むようなとても優しい味だったのをよく覚えている。クスクス等懐かしく堪能した。結婚記念日ということで予約していたので、お祝い用のお料理が用意してもらえて幸せだったが、腫瘍マーカーの件もあり、夫はなんとなく浮かない顔で元気がなかった。本当はベリーダンスのショーが見られる予定だったが、連休明けということもあり、運悪くお客が私たち2人だけの貸しきり状態。結局「今日は残念ですがショーはありません。」ということになった。がっかりしていると、お店の方が特別にと、チュニジアの民芸品だという素焼き風の小物入れとチュニジアの写真集をお土産にくださった。

 結婚記念日は、15周年までは1年目の紙婚式から始まって毎年あるのだけれど、その後は5年おきだ。5年前の15年婚は水晶婚式だった。その時は特に何もせずに(というかそれまで別に何もしてこなかったし、ちょうど当時は初発の手術前で、仕事でもどたばたしていて、それどころではなかった。)過ぎてしまったが、今は金婚式をクリアし、今年の10月でエメラルド婚式(55年)を迎える父母が、40年近く前に水晶の結婚式ということで、(お店の人に乗せられて)記念に指輪を作り合っていた。こども心に「へー、そうなんだ」と思ったことをよく覚えている。

 結婚20年は磁器婚式・陶器婚式というのだそうだ。「年代と共に値打ちが増す磁器のような夫婦」という意味らしい。そんな味が出ているかどうかは別として、次の銀婚式「結婚生活の一区切り、いぶし銀の美しさ」まであと5年。そのときを迎えられれば息子はまもなく19歳になる。大学生になっているのか何をしているのかわからないけれど、なんとか迎えられたらいいね、と夫と言い合った。

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2010.1.9 前向き思考

2010-01-09 09:28:34 | 日記
 「前向きなところが大好き。」
今年の年賀状で、息子が小学校1年生のときの担任の先生から頂いた言葉である。確かに小学校時代は何にでも興味を示し、(時にはいろいろなことにダンボすぎるくらいダンボで・・・)なんでもかんでもやりたがって手を上げ、人間の目はこんなにきらきら輝くのだ、と息子の顔を見ながら驚かされた記憶もあるほどだ。

 最近、思春期に入ったところのようで、ご多聞にもれず目つきがどんよりとして、何かといえば「めんどっちい」。昔のような目の輝きは失われているような気がしてならない。それでもとにかく前向きであることには違いがない。なんといっても立ち直りが早い。怒られたりしくじったりすると、すぐに涙ぐみ、大いに憤慨するけれど、あれ、っというほどあっさりと立ち直って、何事もなかったようにまたすりすりとなついてくる。試験の結果もなんのその、である。「英語のテスト、びりから3番目だね。」というと「(びりから)4番目だ!」と堂々と言い返された。

 先日、立ち直りが早いことを指摘すると「すんだことをいつまでもくよくよしていたって仕方ないんだから、ボクはずっと前向きにやっていくんだ。」とのこと。(確かに痛い思いを糧にして前向きになってくれれば何よりなのだが、残念ながらただ忘れているだけ・・・のようだ。)これを聞いてしみじみ「ああ、この子は、私が死んだ後も結構けろりとして前向きに生きていってくれるんだろうな・・・。」と、ほっとするようなちょっぴり寂しいような複雑な気持ちになった。

 生後59日から保育園育ち。親の後追いもしなかった。「お仕事」と一言いえば、ちょっと涙ぐんではみても決して泣かずに「じゃあね」とくるりときびすを返して保育園のお友達や先生の方向に向かっていった。もちろん保育園に通っている当時は、お友達がお母さんと離れがたくて毎朝涙、涙の別れのシーンを繰り広げていたことを日々見ていたので、ちょっと拍子抜け・・・みたいなところもあったけれど、思えば本当にありがたかった。

 そう、それを証明するようなやりとりがあった。「ママ、この本棚の本、ママがいなくなったらどうするの。」「それはあなたにあげるから、あなたが自由に読んでください。」「げっ、そりゃ無理だ。」
 あ、そうですか。といった感じである。いつも私が「ママが死んだら・・・。」といいすぎているのか。そんなにさっぱり「いなくなったら・・・。」なんて言わないでほしい・・・というのは甘えだろうか。

 だから今や心配なのは息子より夫だ。前向きな息子には今から自分のことは自分で出来るように少しでもたくさんのことをいろいろ仕込んでおかなければ。そして本当は息子よりずっと泣き虫な夫のために少しでも長生きしよう、と思う。

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2010.1.5 ハーセプチン75回目

2010-01-05 20:12:27 | 治療日記
 昨日が仕事始め、今日は通院始めだ。
覚悟はしていたけれど、お正月休み明けで病院は大混雑。採血は60人待ちで1時間以上かかり、その結果が出て内科の中待合に入るまでにさらに1時間かかった。先生に年始のご挨拶をし、無事年末年始を過ごすことができたことをご報告した。気になっていた年末の乳腺エコーの結果は、「特別な所見なし。右胸は何もなし、更に左胸にもtumor(腫瘍)は認められず。」パソコン上の(-)(マイナス)の読影結果を拝見できた。充分ベテランの読影の方だから、信頼できる結果でしょうとのこと。また、採血結果は白血球が3,300と相変わらず低めだが好中球は(前回は達しなかった)1,000あるとのこと。あまり気にしないことだ。先生からは「この結果が僕からのお年玉ですね。」ということで幸先の良い嬉しい年始になった。
 その後、処置室も満席で、廊下で待つこと小一時間。結局点滴椅子が空いて点滴が始まったのは病院に入ってから4時間近く経過していた。ハーセプチンを終え、針を抜いてもらった頃にはもう日差しも傾いていた。

 そんなわけで時間がたっぷりあり、今日も車内を含め3冊本が読めた。
 1冊目は藤原正彦先生の『日本人の矜持 九人との対話』(新潮文庫)。齋藤孝さん、曽野綾子さん、阿川弘之さんら9人の方たちとの縦横無尽の語り合いはテンポ良く実に楽しめた。特に「読書せぬものは人にあらず、ケダモノなり。」の一文には今年もちゃんと本を読もう、と思わされた。起訴休職外務事務官・作家として登場した佐藤優さんとの対話もとても興味深かった。それにしてもやはり身につけるべきは国語力。理系のどんな学問も結局のところ美的感受性、ということに納得させられた。
 2冊目は岡田利規さんの『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮文庫)。大江健三郎賞受賞作ということで大江さんご本人が選評を書いておられる。真に新しい初めての小説、ということだったが、確かに劇団を率いる筆者の作はあたかも演劇を観ているかのようだった。
 3冊目は安達千夏さんの『モルヒネ』(祥伝社文庫)。タイトルから末期がん患者の話、という感じだが、主人公は過去の不幸な家庭環境から心に深い傷を持つ在宅医療の医師。元恋人は余命三ヶ月の脳腫瘍で右手に麻痺が出ているピアニストという設定だった。
 先日読んだ小川洋子さんの『博士の本棚』の中に、「本を読むときは言葉の海に身をゆだねるだけ。読書暦を語ることは、私の人生を語ることです。」とあったが、本当にそうだ。私は全くの濫読で、今や何の脈絡もなく、手当たり次第、といったところだが、何を読んでいるか、ということを晒す事は自分の頭の中を晒すようで実に恥ずかしいことでもある。

 さて、職場では今年の勧奨退職の希望調査がきた。
 年度末で勤続25年以上かつ年齢が50歳以上ということなので、勤続年数はなんとかクリアするが(病気休職で除算があるが)、まだ年齢要件が満たない。何とかあと2年無事に勤められれば対象に加えてもらえる、ということだ。もちろん病気になるまでは定年まで働くつもりでいたから、「勧奨退職」という選択肢は考えもしていなかった。ただ、退職した途端に亡くなってしまうハードワーカーを目の当たりにしたり、退職後、地域とのつながりもなく、仕事以外に何も残らないのではあまりに淋しいかもしれない、とも感じる年頃になるにつれ、さらには生涯病気とつきあうことになり、いよいよ、自分に余力があるうちに第二の人生を送ってもいいか、と思うようになってきた。我が家は夫と年齢が離れているので、夫が仕事から離れたら「私も一緒に辞めるから、また2人で遊ぼうね」と言っていた時期もあったけれど、今はこの予定どおりにいきそうにない可能性が高いので、(元気なうちに辞めるのは手かも・・・)という気持ちと、(どうしても治療にお金がかかるし、自分の保険証は持っていたいから、たとえ職場にはお荷物であろうともぎりぎりまで現職でいたい・・・)という気持ちの間で揺れ動いている。
 ただ、実際、ぎりぎりまでというと、病気休職のまま職場復帰することなくフェイドアウト・・・ということになるだろう。それではあまりに立つ鳥跡を濁す、かな、とも思ったりする。まあこんなことを考えていても実際にはそうそう迷うことなく選択肢は限られてくるのだろうけれど。

 お読みくださっている方々、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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