2024年12月18日(水)
海浜幕張駅から北東に向かう広い歩道、頭上には冬の朝の冷涼な青空。今朝からのことを反芻しながらいつもの早足で歩いていると、いきなり帽子の上から頭をポンと叩かれた。
いたずら好きの同僚の、長身の姿を予想して振り返ると、黒い塊がふわりと身を翻し、宙を上って街路樹の高枝に止まった。
カラスに頭をハタかれた?!
後を歩く人々が、驚き顔で枝を見あげている。その一人に声をかけた。
「いま、カラスが私の頭を叩きました?」
「叩いてはいないと思うんですが、すごく近くを飛び去って…」
叩いてはいない…でも確かに感じたのだ、友達が冗談に、軽く平手でたたいたような接触の感覚を。
カラスは怖い。爪でむしられたら「ポン」ではすまない。嘴も鋭いこの鳥が、こんな軽い叩打をどうやって与えることができたのか。翼で?それとも風圧で?怖い怖い!
職場に向かって足を速めながら、あらためて今朝からのことを思い返した。短い時間に実際いくつもの発見があり、それらの間を頭の中で往来しながら歩いていたのである。
【その1】
~ 柄谷さんは、近代文学、つまり小説が決定的な意味を持つ時代は終わったと言います。文学が消滅するとか無意味だということではなく、世界の変化の中で(小説が)一定の役割を終えた、という議論です。
「J・L・ボルヘスは、60年代末に、小説が行き詰まっていると米国での講義で語っています。短編や物語は永遠のものだろう、とも言っていますが。2000年前後には、V・S・ナイポールも、小説は終わった、と主張した。皆同じようなことを感じているんだな、と思いましたね」
柄谷行人回想録 近代文学の終焉(下)12月18日朝刊
あ!
それでなのか、そうかもしれない。
小説が読めなくなっている / 物語的な小説しか読めなくなっている / 小説をあたかも物語のように読んでいる等々、『百年の孤独』は小説か物語か、『まっぷたつの子爵』や『不在の騎士』はどうか。
小説と物語の違いを説明せよと言われたら口ごもるが、今すぐ説明できなくともわかっている、知っていると主張する声が内にある。ボルヘスが「短編」を「小説」から分けたのは理屈ではない、フランス語で短編は conte、長編は roman、そもそも別の言葉であり別のジャンルである。スペイン語ではどうなのか。
かまわないよ、短編と物語が永遠のものであるならば。いつか自分でも書けたらと望み、思わず知らず手を出してもいたのは、小説ではなく短編であり物語だったのだ。
【その2】
「ひょっとしたら、麻衣子の内部にも、元来、柔和で鷹揚で包容力に富んだものがひそんでいて、それが、ヨネや、喜代の祖母との触れ合いによって顕在化したのかもしれなかった。
鷹揚、包容力、それは麻衣子の父・周栄文の特質でもあった。その特質は、熊吾が、中国人の友の何人かにも感じたものだったので、熊吾は、やはり麻衣子のなかに、中国という巨大な大地と歴史によってつちかわれた血が流れているのを感じた。
熊吾は、酔った頭で<風土と人間>という言葉を思った。
体格や体質、性格や性質だけでなく、物の考え方や処し方も、先祖からの血の中に連綿と刻み込まれて、親から子へ、子から孫へと受け継がれていくのに違いない。そうでなければ、国民性によって、思考方法や価値観が、これほどまでに異なるはずはない。
しかも、風土から得た経験や精神性が、ひとりの人間の根底に影響するとすれば、風はその人間ひとりにではなく、その子や孫たちの広大な心の部分に極めて重要な落款を捺し続けるということになるではないか……」
(『流転の海』第三部『血脈の火』P.322)
論旨には賛成し難いものがある。証明できない「国民性」といったものを想定し、そこから天下りに物事を説明しようとすることは、多くの大きな間違いを生むもとであり、恩師K先生がとりわけ強く警戒なさったことだった。それでもあながちに否定する気になれないのは、自分自身の思い出につながるところがあるからだ。
20代半ばでマレーシアを数週間旅行したとき、人口の三分の一が華僑とその子孫であり、一方では観光やビジネスで訪れる日本人が珍しくもない当時の状況下で、僕は行く先々で中国人と見なされた。そしてそのことが少しも不快ではなく、むしろ知り得ない自分のルーツについて、あるファンタジーをもつきっかけになった。
父方は15代にわたって松山郊外に住み続けてきたが、目の前の海は半島とも大陸とも一衣帯水、有史以前からおびただしい数の人びとが、繰り返し海を渡ってやってきたのだから。
【その3】
愚図のうえに優柔不断、ソバを頼むかウドンにするか、出発は来週か再来週か、決めず決められず面倒を増やしているくせに、人生の大きな分岐点であっさり決断し、人に驚かれることがある。今回もそのような次第で、自分としては迷いはないが、なぜ迷わないのか考えてみれば不思議である。
本当にこれで良いのだろうか、自分らしいとはいえ、いささか怪しげな…
そう思った刹那の「ポン!」
いいも悪いもないさ、やってみなよ、それしかないだろと、カラスが背中を押す代わりに、帽子の上から頭をなでていった、どうもそういうことらしい。
悪役扱いされることが多いこの鳥を、ときどき庇いだてするのを知っての挨拶か。
そういうことにしておこう。
Ω