散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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内職のフランクル

2024-06-19 21:21:03 | 読書メモ
2024年6月19日(水)

 午後の会議中に:

 簡単な方法、トリックといってもいいような方法で、私たちはその瞬間瞬間にどれだけ大きな責任を負っているかをはっきりと自覚することができます。その責任に気づいた人は、ただ震えるしかありません。けれども、その人は結局なにかしら喜びをおぼえるのです。その方法というのは、一種の定言命法です。ですから、カントの有名な格率とおなじような形式で、「あたかも……のごとく行為せよ」という公式でもあります。それは、「あたかも、二度目の人生を送っていて、一度目は、ちょうどいま君がしようとしているようにすべて間違ったことをしたかのように、生きよ」といったところでしょう。
フランクル/山田邦男|松田美佳『それでも人生にイエスと言う』春秋社 P.51-2
(下線部、原著では傍点)

 「あたかも二度目の人生」は衝撃的である。
 一方で…

 ふつう精神病と呼ばれている病気の場合には、苦悩しないことが病気であるということは明らかです。ただし、精神病は、けっして精神の病気ではありません。つまり、精神が病気になることは絶対にありえないのです。精神的な側面は、いつでも、真や偽であり、有効や無効であるだけで、病気になることはけっしてありません。病気であったり病気になることがあるのは、心理的な側面だけです。そうした心理的な症例のうち、心理的な要因ではなく、身体的な要因に起因するものがあります。それが、いわゆる精神病です。精神病はまた、心理的な原因をもつノイローゼに対して精神異常と呼ばれます。こうした精神病の場合に、苦悩できないことがちょうど症状になることがあります。
上掲書 P.63-4

 これはこのままでは判じ物だ。概念定義の問題である。二人の訳者は精神医学とは畑違いのようだが、こうした部分は少し検討して注でも付けてもらわなければ、何のことだか分からない。
 おおかた "Die Geisteskrankheit ist nicht die Krankheit des Geistes." といった原文であろうか。その種の疾患を「精神病 Geisteskrankheit」と呼ぶことがドイツ語で(も)定着してしまっているが、厳密にいうならそれらは「精神 Geist」の「病 Krankheit」ではなくて、「心理的な側面 psychologische Seite」の異常に他ならない。そうした異常のうち(脳などの)身体的な要因に起因するもの(たとえば統合失調症や双極性障害)が「精神病 Geisteskrankheit」と呼ばれるのだというのであろう。
 しかし「苦悩しない/できない」とはどういうことか?

 ということでさっそく注文。


Ω



逃げの小五郎

2024-05-30 22:33:47 | 読書メモ
2024年5月30日(木)

 司馬遼太郎の短編集『幕末』を入手。目当ては先日知った『逃げの小五郎』、面白く一読。
 全体を集約する部分を書き抜いておく:

>  ところが、乱後、二日ほどして、長軍の戦利品のなかから、「桂小五郎」と墨で鉢に記名した兜が出てきたといううわさを、対馬藩士がききこんできた。落ちていたのは朔平門付近で、桑名藩兵がみつけた。
 「死んだのかもしれぬ」
 と大島友之助がいった。
 「たしかに、兜どすな」
 幾松は、考えた。じつをいうと桂の具足は大阪藩邸においてあり、京都では持っていなかったことを幾松は知っている。桂はおそらく死亡説を流布させるために、名を書きこんで道へわざと捨てころがしたのであろう。あの男の智恵なら、やりかねない。
(生きている)
 桂とはそういう男だ。「わしの剣は、士大夫の剣だ」と、かつてこの男は幾松にめずらしく自慢したことがある。
 「士大夫の剣とはどういうことどす?」
 「逃げることさ」
 桂が塾頭をつとめた斎藤弥九郎の道場には六ヵ条から成る有名な壁書があった。その中で「兵(武器)は凶器なれば」という項がある。
 ー  一生用ふることなきは大幸といふべし。
 出来れば逃げよ、というのが、殺人否定に徹底した斎藤弥九郎の教えであった。自然、斎藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを逃げることに集中した。これまでも、幕吏の白刃の林を曲芸師のようにすりぬけてきた。
(単行本P.193)

 なお、桂の死因について作品はこう記している。

これほど軽捷無類の男も、すでに出石時代からそのきざしのあった結核からはついに逃げきることがなかった。
(同P.204)

 他でも「結核」と聞いた覚えがある。一方、Wikipedia が「大腸癌の肝転移」と記すのは下記に依ったものらしい。信憑性がありそうである。


Ω

文学への信頼

2023-12-13 07:30:09 | 読書メモ
12月13日(水)

 「いよいよ眼前を横切る時、茅乃が腰から離した片手を遠慮がちに振った。すると新平太はぱあと、陽だまりを閉じ込めたような笑みを浮かべる。」
今村翔吾『人よ、花よ』470

 「あの頃、文学というのは、永遠だとおもっていた。作家も批評家もそうだったと思う。一千年先を考えた上で、いま何を書くかということを考えていたんですね。」
柄谷行人回想録『私の謎』世代こえた交流(上)

 二つとも今日の朝日新聞朝刊から。
 夕方になって読みかけにしていた『タルチュフ』(モリエール/鈴木力衛、岩波文庫)を読み終えたところ、その解説に以下のようにある。

 「フランスの古典作家の理想は、特定の個人を描くこと(で)はなく、時代を超え、国境を越えた人間の型を描く点にあった。」(P.115)
 鉛筆で傍線が付してあるから、文庫本を買い込んだ2005年当時に既に一度、読んで感心したはずであるが、記憶には全くない。
 今日という日は、このこと ~ 一千年の相貌の中で書き考えることを、繰り返し教えられる日であるらしい。

 ところで、「モリエールはこの『タルチュフ』において、『ドン・ジュアン』や『守銭奴』の場合とおなじく、そのような普遍的な人間像を描くのにみごとに成功したと言えよう」とあることについては、異論というのではないが一理屈こねてみたい気がする。
 普遍的な人間像として描かれていると解説が主張するのは、表題の示すタルチュフというペテン師のことだろうと思われるが、この御仁は根っから嘘つきの呆れ果てた偽信心家で、いつの時代にもこういう悪党が必ずいるということ以上にとるものがあまりない。
 それより面白いのは脇役の方である。たとえばタルチュフのペテンにまんまとだまくらかされて相手に心酔するオルゴンというお人好し、こちらは周りがどう諫めても耳を貸さず、あやうく息子を勘当し娘と全財産を進呈する寸前まで至ったのに、妻の機知でタルチュフの化けの皮が剝がされるや、一転極端な激しさで相手を呪い世界を呪い始める。以下はオルゴンと、それを諫める年下の義兄のやりとりである。

 オルゴン「くそ、聖人君子なんて、もうまっぴらだ。これからはそんなやつらの名前を聞いただけで、背筋が寒くなるわ。こちらも悪魔より悪い人間になって、恩返ししてやるんだ。」
 クレアント「いけませんよ、お義兄さん、そんなに逆上なすっては!何事につけ、あなたはおだやかにやれないんですね。いつだって極端から極端に走るんです。お義兄さんは自分の間違いを悟り、偽の信仰に騙されていたことに気がつかれた。だからといって、それを改めるために、さらに大きな過ちを犯すことはないじゃありませんか。たったひとりのろくでなしの裏切者と、すべての聖人君子をごっちゃにすることはないじゃありませんか。(中略)中庸の道をえらばなければなりません。インチキな宗教に引っかからないよう、できるものなら用心してください。しかし、正しい信仰を罵倒してはいけません。どちらかの極端に走らざるをえないのなら、偽信心に引っかかった方がまだしも罪が軽いっていうもんです。」
上掲書 P. 88-89

 極端から極端に振れる熱情家と、中庸をもって徳とする常識人とのやりとりは、今日いたるところで聞かれる会話と少しも変わりがない。クレアントは作中一貫して健全な常識とまっとうな信仰の代表者として描かれており、だからこそタルチュフの偽信心に対して、常に安定した抵抗力を発揮する。

 クレアント「あなたの言い訳はこじつけばかりですよ。なにも神の思し召しを引き合いに出すことはないでしょう?罪人を罰するのに、神がわれわれの力を借りなければならない、というんですか?天罰を下すのは神の御心にまかせ、侮辱を赦せという神のお指図だけを考えればいいはずです。至上の命令に服するとき、人間の判断などを考慮に入れる必要はありません。つねに神の命ずるところを行い、ほかのことに心を乱さないようにしようじゃありませんか。」
同 P.69
 稀代のペテン師であるタルチュフよりも、これに振り回される平凡なオルゴンとクレアントにこそ、「普遍的な人間の型」が感じられて面白い。
 もう一つ例をあげるなら、オルゴンの娘マリアーヌと恋人ヴァレール、彼らの仲を取り持とうとする小間使いドリーヌの会話である。マリアーヌは父オルゴンの命でタルチュフに嫁がされようとしており、そんなことになったら自ら命を絶つとまで思い詰めているのに、父親に面と向かって「イヤ」ということができないのである。時は16世紀で親の権威がきわめて強かったのは間違いないが、娘の側に意思表示が認められなかった訳でもないらしいのは、
 「父親って、子どもの目から見ると、それはそれはこわいものよ」
というマリアーヌの言葉が逆に裏書きする。反論する権利がないのではなく、心理的に怖いというのが彼女の主張である。そのマリアーヌの代わりに、たびたび殴られそうになりながら抗弁を繰り返すのが気丈なドリーヌで、小間使いの忠誠を見ていながら苦労知らずのお嬢さんは、
 「お父さまからあたしをもらい受けるのは、あのかた(ヴァレール)の役目じゃないの?」
 とどこまでも受け身の座から動かない。
同 P.35
 当然ながら、恋人たちの間には互いに相手の本気を疑ってみせる駆け引きが始まり、売り言葉を買ってはまた売る泥沼のやりとりで収拾がつかなくなるのも、今しもあらゆる国と地域で繰り返される「普遍的な」図式ではないか。古めかしさというものがモリエールの行間には驚くほど少ない。

 五百年や千年で人の心の変わりはしないことは、モリエールに依らずとも本朝文学の中にふんだんに例がある。珍しくもあり羨ましくもあるのは、そうした心の機微をはっきり言葉に表し、言葉をぶつけあって人生の筋立てを展開していく伝統と文化のことだ。
 「本当に大事なものは目に見えない」とフランスのキツネが王子様に言う。
 「本当に大事なことは言葉では言えない」と日本のキツネが横を向いて呟く。
 この違いは小さいとは言えない。

Ω

 

出典さまざま、初出いろいろ

2023-09-27 07:59:50 | 読書メモ
2023年9月27日(水)

 「事実は小説より(も)奇なり」 Truth is stranger than fiction. 
 出典がバイロンとは知らなかった。『ドン・ジュアン』だそうだが、書名で検索するとモリエールの同名の作品が先に出てきて、バイロンは古書ばかりである。大部の作品らしく、いずれも絶版。商売にならないのであろう。
 「事実は…」の言葉にマーク・トウェインのつけた注釈を、半年前の毎日新聞『余録』が紹介している。その文脈が面白い。記者も勉強するものだ。

 英詩人バイロンの詩が出典とされる「事実は小説より奇なり」のことわざに、米作家マーク・トウェインが皮肉屋らしい言葉を付け足している。「小説は実現可能性にこだわらざるをえないが、事実はそうでないからだ」
 時に「まるでマンガ」のドラマが見られるのがスポーツの世界である。米フロリダで行われたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝ラウンドでは小説なら都合が良すぎると言われかねない展開が続いた……

***

 「けれども、証拠が存在しないことは、存在しないことの証拠ではない。」
カール・セーガン『エデンの恐竜』P.7
 これは英語に戻した方がわかりやすい。

  Absence of proof is not proof of absence.

 かな。
 誰かの引用かと検索してみたら、他ならぬカール・セーガンの言葉として紹介するサイトがあった。

  Absence of Evidence is not Evidence of Absence.

 しかしこれはセーガンが最初ではなく、明らかに伝統的な格言と思われる。「消極的事実の証明」というウィキペディアの項目が、少々逸れるが教育的である。
 こういう言い回しは英語に限るという気がするが、なぜだろうか?これに配するに、日本語なら「好きな人に好きな人がいたんです」という表現を挙げてみたい。冗談ではなく、それぞれの特徴と特長をよく表している。何を省略できるかというシステムの違いである。

 最初と言えば、「エジプトはナイルの賜物」という有名な言葉はヘロドトスが初出ではないらしい。
 「今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。」
ヘロドトス『歴史』巻2-5
 「この句は古来有名であるが、これはヘロドトスの先輩であるヘカタイオスがすでにそのエジプト史に使用した句であるという。」
 松平千秋氏による岩波文庫の解説

 誰が最初かは本質的な問題ではない。「愛の反対は憎しみではなく無関心」の初出はマザーテレサではなく、アウシュヴィッツのサバイバーであるエリ・ヴィーゼルだという。双方を記憶しておきたいのである。

 ナイル川などに関するヘロドトスの記述が非常に面白いが、今はここまで。これから出かけて京都へ日帰り、ちょうど4年ぶりの京都府庁舎である。

Ω

 

 

 

ピンとキリではどちらが偉い?

2023-06-01 19:06:55 | 読書メモ
2023年6月1日(木)

 A子さん、先日は「文藝春秋」三月特別号を御恵贈くださり、ありがとうございました。第168回芥川賞を受賞した二作品について、A子さん御自身の評価は完全に別れたとのこと、一方はそれなりに面白く読み入ったのに対して、他方はちっとも良さが分からなかったのでしたね。
 私も読んでみました。
 松江出張の間は仕事と現地を楽しむことに余念なく、帰京後に少し落ち着いてから分厚い雑誌のその部分だけ切り抜き、電車移動の間に読んだのです。その結果は愉快なことにA子さんとまったく同感、一方は文章に粗さが垣間見えるものの、触発の火花を随所に感じつつ読み進め読み終えたのに対して、他方は楽しいとも面白いとも少しも思えず、10ページもいかないうちにいっそ投げ出したくなったほどでした!
 錚々たる選考委員諸氏が一致して高い評価を与えていることを思えば、A子さんも私もきっと文学を解さぬ凡愚の輩なんでしょうね。それで結構、たくさんです。偉い人々が何とおっしゃろうと、つまらないものをつまらないと言い放つ至高の権利を私たちはもっているのですから。
 ただ、A子さんは二作のどちらが面白く、どちらがつまらないかをおっしゃいませんでしたね。だから、ひょっとすると私は貴女と同じ感想を抱いたのではなく、それどころか正反対だったのかもしれません。だとしたら、これまた愉快なことでしょう。
 照合するのはお目にかかってのお楽しみとして、一つ付言を。一方の作品は南東北を舞台にしており、それを忠実に反映する福島あたりの方言の会話が私にはことのほか懐かしいのでした。主人公の離婚した相手が「星」という姓になっていましたが、この洒落た姓の人々は福島に断然多いのです。そのあたりも作品の写実性を裏書きするものと感じられました。
 とはいえ、そのことと作品全体の面白さとは別の問題、さてどちらがどちらだったのか、せーので明かしてみるとしましょう!

Ω