2015年11月20日(金)
愛媛新聞で訃報に接してから2週間あまり、今朝の朝日に篠原一先生の追悼記事が出ている。
「市民参加、軽やかにリード」という標題が、ナルホドのような、どこか物足りないような。
あの朝、母が僕に記事を教えてくれたという場面が微妙にセンチメンタルであったりする。母は篠原先生とほとんど同年である。市井の一主婦でも、兄を戦争で失った銃後の体験から、自前で培った非戦・リベラルの直観といったものがある。彼女にとって、篠原先生は同世代の旗手のように思われたのではないかと思う。
先生の人となりを語るとき、ガン体験と丸山ワクチンは欠かせない逸話である。実は母も、ガンではないがきわめて深刻な病気から、きわどく生還した体験をもつ。そんなこともあわせ、駒場900番教室で背筋を伸ばして講義してくださった姿が思い出される。
あらためて、合掌
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『市民参加、軽やかにリード 篠原一さんを悼む』 東京大学名誉教授・馬場康雄
先月31日に世を去った篠原一(はじめ)氏について、報道は一様に「市民参加」の唱道者、理論家と紹介していた。1970年代前半、次々と誕生した革新自治体を舞台に「抵抗から参加へ」の旗印を掲げて論壇をリードし、市民運動の指導のために各地をとび回った。
門下生にとっては、何よりも政治学の一分野としての「政治史」の研究方法を確立し、ヨーロッパ政治史を学界の大きな流れに育て上げた人物である。デビュー作『ドイツ革命史序説』(56年刊)は、多数の一次資料と研究書を読み込んだ上で、構造、段階、力関係といった視角から激動する歴史状況に切り込んだ傑作だ。政治史研究は、現代政治の本質を歴史的パースペクティブ(視点)の中で捉えることを本旨とする。19世紀初めから20世紀中頃までを、各国の政治体制、政治変動、政治家を中心に論じた東大法学部での講義でも、デモクラシーの生成、危機(崩壊)、刷新の歴史という視点を強調した。参加型の民主主義は、標準的な民主主義体制が確立した後の段階、バージョンアップだと説明した。
退官した86年に刊行した『ヨーロッパの政治』には「社会科学的概念を駆使することによって、歴史を十倍面白くみる」とある。理論・学説を縦横無尽に参照しつつ、時折日本の現状をチクリと刺しながら語る姿は、今も脳裏に鮮やかだ。学界同輩らは「しのピンさん」と呼んだが、この呼び名は御当人が身にまとう軽やかさと通じていたのだろう。
70年代中頃、篠原氏を二重の転機が見舞う。石油危機後に日本の経済成長が減速し、財政削減と効率追求により革新自治体が減少、市民運動の活力も衰えた。自身もがんに侵される。死の淵(ふち)から生還した篠原氏は、より明るく、より行動的になった。闘病を続けながら丸山ワクチン認可のために奮闘し、各地のエコロジー運動を支援し、セミプロ活動家ではない「それなりの市民」(adequate citizen)を育てた。
同時に、複数の政党や団体・運動の提携によって新しい政権をつくる「連合政治」論をひっさげて現実政治にも影響を及ぼした。80歳を超えてから、「討議(熟議)デモクラシー」の理論と実践に情熱を傾けた。この活動力を支えたのは「生(生命、生活)」への意志だったろう。あるいは、昭和天皇死去の前、日本中が「空気を読んで」押し黙っているとき、天皇に施されているのと同じ水準の医療を市民にも提供せよと表明した、あの強靱(きょうじん)な精神力と言い換えてもよい。
多くの人が、篠原先生と話すと元気が出る、と言う。その独特の「間合い」を私が身近に経験したのは、世田谷市民大学、かわさき市民アカデミーといった市民教育事業を手伝った時である。受講生の目線で行われる解説は、実にわかりやすかった。普段は口にしない詩歌の趣味も開け広げにした。竹久夢二、金子みすゞなど、芯に抵抗の精神がピシッと通った抒情(じょじょう)家がお気に入りだった。あるとき、出席していた受講生の姿を最近見ない、どうしましょう、と私が訴えた。
先生は私の目の前に掌(てのひら)をさし出し、何かを優しく包み込むようにしながら、こう諭した。「君ねえ、叱咤(しった)したり、追いかけたりしたらダメなんだよ。ふわあっとつかまなきゃいけないよ」と。
(朝日朝刊、35面)