散日拾遺

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篠原一先生追悼記事

2015-11-20 07:54:08 | 日記

2015年11月20日(金)

 愛媛新聞で訃報に接してから2週間あまり、今朝の朝日に篠原一先生の追悼記事が出ている。

 「市民参加、軽やかにリード」という標題が、ナルホドのような、どこか物足りないような。

 あの朝、母が僕に記事を教えてくれたという場面が微妙にセンチメンタルであったりする。母は篠原先生とほとんど同年である。市井の一主婦でも、兄を戦争で失った銃後の体験から、自前で培った非戦・リベラルの直観といったものがある。彼女にとって、篠原先生は同世代の旗手のように思われたのではないかと思う。

 先生の人となりを語るとき、ガン体験と丸山ワクチンは欠かせない逸話である。実は母も、ガンではないがきわめて深刻な病気から、きわどく生還した体験をもつ。そんなこともあわせ、駒場900番教室で背筋を伸ばして講義してくださった姿が思い出される。

 あらためて、合掌

***

 『市民参加、軽やかにリード 篠原一さんを悼む』 東京大学名誉教授・馬場康雄

 先月31日に世を去った篠原一(はじめ)氏について、報道は一様に「市民参加」の唱道者、理論家と紹介していた。1970年代前半、次々と誕生した革新自治体を舞台に「抵抗から参加へ」の旗印を掲げて論壇をリードし、市民運動の指導のために各地をとび回った。

 門下生にとっては、何よりも政治学の一分野としての「政治史」の研究方法を確立し、ヨーロッパ政治史を学界の大きな流れに育て上げた人物である。デビュー作『ドイツ革命史序説』(56年刊)は、多数の一次資料と研究書を読み込んだ上で、構造、段階、力関係といった視角から激動する歴史状況に切り込んだ傑作だ。政治史研究は、現代政治の本質を歴史的パースペクティブ(視点)の中で捉えることを本旨とする。19世紀初めから20世紀中頃までを、各国の政治体制、政治変動、政治家を中心に論じた東大法学部での講義でも、デモクラシーの生成、危機(崩壊)、刷新の歴史という視点を強調した。参加型の民主主義は、標準的な民主主義体制が確立した後の段階、バージョンアップだと説明した。

 退官した86年に刊行した『ヨーロッパの政治』には「社会科学的概念を駆使することによって、歴史を十倍面白くみる」とある。理論・学説を縦横無尽に参照しつつ、時折日本の現状をチクリと刺しながら語る姿は、今も脳裏に鮮やかだ。学界同輩らは「しのピンさん」と呼んだが、この呼び名は御当人が身にまとう軽やかさと通じていたのだろう。

  70年代中頃、篠原氏を二重の転機が見舞う。石油危機後に日本の経済成長が減速し、財政削減と効率追求により革新自治体が減少、市民運動の活力も衰えた。自身もがんに侵される。死の淵(ふち)から生還した篠原氏は、より明るく、より行動的になった。闘病を続けながら丸山ワクチン認可のために奮闘し、各地のエコロジー運動を支援し、セミプロ活動家ではない「それなりの市民」(adequate citizen)を育てた。

  同時に、複数の政党や団体・運動の提携によって新しい政権をつくる「連合政治」論をひっさげて現実政治にも影響を及ぼした。80歳を超えてから、「討議(熟議)デモクラシー」の理論と実践に情熱を傾けた。この活動力を支えたのは「生(生命、生活)」への意志だったろう。あるいは、昭和天皇死去の前、日本中が「空気を読んで」押し黙っているとき、天皇に施されているのと同じ水準の医療を市民にも提供せよと表明した、あの強靱(きょうじん)な精神力と言い換えてもよい。

  多くの人が、篠原先生と話すと元気が出る、と言う。その独特の「間合い」を私が身近に経験したのは、世田谷市民大学、かわさき市民アカデミーといった市民教育事業を手伝った時である。受講生の目線で行われる解説は、実にわかりやすかった。普段は口にしない詩歌の趣味も開け広げにした。竹久夢二、金子みすゞなど、芯に抵抗の精神がピシッと通った抒情(じょじょう)家がお気に入りだった。あるとき、出席していた受講生の姿を最近見ない、どうしましょう、と私が訴えた。

  先生は私の目の前に掌(てのひら)をさし出し、何かを優しく包み込むようにしながら、こう諭した。「君ねえ、叱咤(しった)したり、追いかけたりしたらダメなんだよ。ふわあっとつかまなきゃいけないよ」と。

 (朝日朝刊、35面)

 


帰松補遺: サンザシ/いいえの

2015-11-19 11:11:34 | 日記

2015年11月19日(木)

 今回帰省の少し前、ふと田舎の庭にサンザシを植えてみたいと思った。

 サンザシ(山査子) ・・・ Wiki コピペ

 サンザシ(山査子、学名: Crataegus cuneata)は、バラ科サンザシ属の落葉低木。中国産で、日本にも古くに持ち込まれた。熟すると赤くなる果実は生薬、果実酒、ドライフルーツなどの用途があり、盆栽の素材としても好まれる。

 サンザシや近縁のオオミサンザシ(C. pinnatifida)の干した果実は、生薬名で山査子(さんざし)といい、消化吸収を助ける作用がある。加味平胃散(かみへいいさん)、啓脾湯(けいひとう)などの漢方方剤に使われる。

 近縁種のセイヨウサンザシ(C. oxyacantha)の果実や葉は、ヨーロッパではハーブとして心悸亢進、心筋衰弱などの心臓病に使われる。

 サンザシ酒は甘酸っぱく、一部の中華料理店などでは、中国酒として供されている。ドライフルーツとしては、果実を潰して砂糖や寒天などと混ぜ、棒状に成形して乾燥させたものが多い。中国では「山査子餅」(シャンジャーズビン)として円柱状に成形した後、薄くスライスして10円玉のような形状にしたものが多く、酢豚などの料理に入れたりする。

 果実をそのまま種子抜きして乾燥させ麦芽糖などでコーティングしたものもあり、この場合は含有成分から厚生省認可基準「ビタミンC含有栄養機能食品」の表記ができる。

  

 

 いかし、何でこのタイミングで思いついたんだろう?ひとつは単純なことで、たぶん10月16日の金曜日あたりだったと思うが、診療の帰りに無性に腹が空き、荻窪駅の売店でソイジョイを買って食べた。それにサンザシのドライフルーツが入ってたのである。(ビタC含有?)

 

 

 でもそれだけではない、ふうんこれがサンザシの味かと思った時、サンザシという響きの野趣というか風雅というか、野を渡る風のような、木々のざわめきのような、それだけじゃないな、う~ん…

 わかった!書いていて思いだした!!

 

Hagen:

Rüstig gezecht, bis der Rausch euch zähmt!

Alles den Göttern zu Ehren,

daß gute Ehe sie geben!

ハーゲン:

すっかり酔いの回るまで、飲めや歌えの宴を張れ!

良縁を得るように、神々を言祝ぐ時なのだ

 

Mannen:

Groß Glück und  Heil lacht nun dem Rhein,

da Hagen, der Grimme, so lustig mag sein!

Der Hagedorn stickt nun nicht mehr;

zum Hochzeitrufer ward er bestellt,

家臣たち:

大いなる幸と喜びが、今しもラインに笑いかける

気むずかし屋のハーゲンが、かくも楽しく弾けようとは!

ハーゲドルン(さんざし)も、もう刺しはしまい

めでたい婚礼の仕切り役を、ハーゲン自ら買って出た

 

 ワーグナーの『指環』四部作を締めくくる『神々の黄昏』、大団円間近い2幕3場、グンターの花嫁となるブリュンヒルデを連れてジークフリートが今しもラインに帰還する。それを迎えるハーゲンと家臣たちである。気むずかしい陰謀家のハーゲンの、打って変わった哄笑には訳がある。父アルベリッヒの代からもちこした神々への遺恨を晴らし、指環を取り戻す待ちに待ったこの機会、ハーゲンは婚宴の場でジークフリートを謀殺する企てを胸に秘め、その喜びを抑えかねているのである。

 サンザシはドイツ語で Hagedorn、Hag- には野生の意味があり、Dorn は英語の thorn つまりトゲである。バラの近縁でもあるサンザシ類は、なるほど鋭いトゲを持つ。西洋サンザシは東洋種よりさらにトゲトゲしいかどうか、そこはわからないがヨーロッパ各国語でトゲの別名のように使われているようだ。それを踏まえ、「気むずかし屋のハーゲン Hagen も、もうそのトゲ Hagedorn で刺すことはすまい」というのが歌詞の意味で、この部分は Hagen の野太いバスと、笑いさざめく家臣団のテノールの合唱がものの見事に掛け合って、婚礼への期待をいやがうえにも盛り上げる。

 その実 Hagen は、禍々しい背後からの一突きを周到に準備していた。

 

「暇潰し日記」さんより拝借 (http://iso65000.seesaa.net/article/225168370.html)

 

 『指環』に夢中になった20代から気になっていたのだ。植えてみようかな、サンザシ。

***

 松山空港で592便に乗り込んだ。荷物を頭上のキャビネットに収める間、身をよけてくれた男性に「申し訳ありません」と声をかけると、「いいえの」と滑らかな答えが返ってきた。

 「いいえの」、懐かしい語尾が松山弁である。伊予弁とは言うまい、豫州は長い広がりをもち、言葉も相当にばらつきがある。少なくとも松山周辺では、この語尾を聞くことができる。

 「いいんだよ、気にしないで」、そういう響きを耳が聞き取っている。


銀杏有情

2015-11-16 07:50:42 | 日記

2015年11月19日(木)

 このまま更新せず、ずっと見とれていたいけれど、そうもいかない事情がある。天使も日々成長して、やがてはただの人になる。天使らの母はいま現実の困難の中にあって、頭と体を総動員することを求められている。再び天へ帰る日まで、僕らは足を頼りに地上を歩く。

 途中になっていた前回帰省の記録。え~っと、そうか、日曜日に松山に着いて、稲刈りを見学し草刈りをした。その晩案外冷え込んだせいか、翌朝起きると喉に違和感がある。僕の場合、これは無視してはいけない徴候だが、短い帰省日程を無駄にしたくもない。うららかな日差しの中で、庭の枝おろしなどをした。それで夕方にはホンモノの風邪になり、火曜は昼食もとらずに20時間ほど昏々と眠った。田舎は不思議なぐらいよく眠れる。

 門前に3本イチョウの木があって、結婚祝いに両親が植えてくれたものだが、これがちょっとした自慢である。木肌が白く葉が柔らかい緑で、白樺を思わせるような涼しさがある。実際、わが家の門前は墓地への上り道でもあるので、暑い日の墓参の人々に一瞬の涼を提供したりする。東京の街路樹のようにひたすら天へ伸びるのではなく、斜めに枝を出しながらほどほどの高さに止まっているから、枝おろしの足がかりも多い。そしてギンナンである。

 イチョウも木に依るのだと思うが、わが家のイチョウは見事なギンナンを(当たり年には)たわわに実らせる。自然離れした滅び行く都会人には「臭い」と文句を言われる例のもので、確かに踏んづけると愉快なものではないから、できれば落果を待たずに摘んでしまいたい。問題はその後で、水につけて果肉をふやかし(この果肉の活用法を発見できたらスゴいだろうな)、ゴム手袋を装用して種を洗い出すのが手間なので、田舎でも面倒がって敬遠されることが多い。

 そこへ今年、父がうまいことを考えた。イチョウの足下を小川が流れている。写真で見ると道路の側溝のように見えるが、雑木林からわき出した清水が昼夜分かたず豊かに流れ、河野川から5km下って瀬戸内海に注いでいく立派な川である。ふやかしたギンナンをミカン用のプラスチックのかごに入れ、この小川に沈めておくと果肉落としの手間が大いに省けるというわけだ。

 そうして洗い出されたギンナンの種を、11月の日差しのもとで乾かす。一粒一粒が太陽の種である。

    

 

 夕方、おろした枝の片付けなどしていると、にわかに西の空が鮮やかな橙色に焼けた。わが家では、陽は山から昇って海に沈む。ふと思い立ち、熊手を投げ出して前の道へ駆けた。電車は次を待てばいいが、太陽は30秒後には姿を変えてしまう。河野川にかかった橋のたもとで、ああ追いついた。

 人の眼はよくできている。写真ではギンナンの一粒ほどに引っ込んでしまう夕陽が、肉眼では視野の大半を覆う巨大な光の塊になる。みるみる沈んでいく陽を見送って黄昏の庭に戻ると、たき火の番をしていた父が「夕陽がきれいじゃろうが」と呼びかけた。ずっと背中を向けてたようだったのに。

 魚の焼ける香ばしい気配が、庭までこぼれてきた。

 

 

 

 東京へ戻る水曜日の朝、愛媛新聞を読んでいた母が、篠原一先生の訃報が載っていると教えてくれた。「ヨーロッパ政治外交史」一科目を教わっただけだが、それに止まらぬ薫陶を頂いたと信ずる方である。アルメニア駐在中のT君は篠原ゼミだったはずだが、さすがに彼の地までニュースは行かないかもしれない。メールを送ったら、返信があった。

 「本郷時代の忘れられない先生です。ゼミで怒られたこともありました。僕にとっては東大リベラルの見本のような方でした。ご冥福を祈ります。教えてくれてどうもありがとう。」

 T君、何を怒られたんだろう。「東大リベラル」がキーワードかな、T君はそれを畏敬もし、批判もしていたはずである。本郷キャンパスといえば、校章にもなっている通りのイチョウ並木だ。そしてT君は、僕と誕生日が同じだったっけ。

 叱られてギンナン踏むや君二十歳

 昌蛙(しょうあ)

 


たかが仕事/希望は夜明けと共に

2015-11-08 07:27:46 | 日記

2015年11月8日(日)

1.金曜日の診察室で

 「回りに期待され、御自身でもやる気満々、抜擢に応えるはずだったんですね。ところが新しい部署はわからないことだらけで、皆それぞれ重要な役割を負って忙しくしているから、訊こうにも訊けない。はかどらないから時間がかかり、毎晩遅くまで頑張って疲れをため、睡眠不足でかえってパフォーマンスが落ちるという悪循環、気がつけば今の状態でとうとう出社できなくなった。」

 「・・・だいたい、その通りです・・・」

 「だいぶ御自分を責めているんじゃないですか?」

 「上司にも同じことを言われました。」

 「上司の方に?」

 重い瞼の下で、目が少し赤らんだ。

 「そう自分を責めるな、たかが仕事だ、と」

 「たかが仕事」

 「はい」

 「素晴らしいですね」

 「そうですか」

 「そう思います」

 身の丈185cm、野球で鍛えた堂々たる体躯が、ストレス食いと数ヶ月の過労で傷ましくむくんでいる。ただしばらくの辛抱だ。健康は君の中、すぐそこにある。

 

2.土曜日の教室で

 「そやき、僕が思うには、パンドラの箱っちゅうことです。箱は開けすぎてはいかん、開けたい箱の中に、実はありとあらゆる災いが入っとる、小出しにせんといかん。」

 「でも」と異議が出た。

 「パンドラの箱には、最後に希望というものが隠れてるんです。全部開けないと、希望も出てこられませんよ。」

 「そう、そうですね。しかし、歌劇『トゥーランドット』の中の『誰も眠ってはならない』に歌われるとおり、」

 演者が負けずに胸を張る。歌われるとおり・・・?

 「希望は夜明けと共に消え去る、そういうことです。」

 へえ、そう来ましたか。なかなか見事な応酬だけど、それだと君の研究はどうなっちゃうの?

 

 忙しかった先週を終えて、心に残った二つの言葉である。いつになく言葉のやりとりの豊かな一週間だった。寝て起きて、働いて、食べて寝る、それが日常の全てだけれど、それでも人が言葉で生かされているという確かな実感は、どこから来るのだろう。

 今日はこれからまず教会学校、午後からは久々の桜美林大学で、言葉を中心に一日を過ごす。楽しいことだ。