散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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焼かねばならぬ

2020-12-23 11:05:23 | 日記
2020年12月20日(日)
 ピカソと並べて壁に貼ってある絵はがきの人物は、画家セザンヌである。1980年代に東京で開かれたセザンヌ展を見て、その色の美しさに驚いた。絵はからきしダメで言うことも見当が外れているのだろうが、同じ絵の具を使いながらなぜこの画家の絵はこんなにきれいなのかと、そういう次元の話である。離人症に苦しむ者が現実感を取りもどすとき、古ぼけた金属製のくず入れを美しいと思う瞬間が訪れる。そのものが確かにそこに存在し、それ以外のものではないことを実感しての美しさである。セザンヌの美しさはその延長上にあるもののように後日感じた。
 絵はがきはそれよりずっと後年の発行日付だが、どんな経緯でどこで手に入れたか記憶にない。あの絵を描く人物がこんな目をしているのかと、空恐ろしい感じがいつもする。書き添えられた言葉がそれに輪をかけて恐ろしいことには、迂闊にも気づかなかった。brûler という言葉を取り違えていたからで、なぜか「揺るがす、震撼させる」という意味に思い込んでいたのである。そういう意味をもつ紛らわしい単語があるわけではなく、思い込みの理由はわからないが、こういうことは自分の脳にはちょいちょい起きるのでさほど驚きはしない。


 「そういえば、あれ、凄いよね」
 と言ったのは次男である。金閣焼亡を扱った内海健氏の論考が大佛次郎賞をもらったことを話題にした流れで、「そういえば」とはそういう意味である。
 「ルーブルを焼く?」
 「うん、焼く」
 そこで初めて辞書にあたり、まじまじと絵はがきを見直した。

" Il faut brûler le Louvre ! ルーブルを焼かねばならぬ。"

 炯々たるこの眼光でこんなことを言えば、放火未遂で逮捕されても文句は言えまい。ついでに聖書の用例をあたってみる。

「肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。」(出エジプト記 12章9節)
「それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。」(同10節)

 手許の仏語訳、9節の「火で焼かねばならない」は il sera rôti au feu、10節の「焼却する」が vous brûlerez au feu である。食用に供するため、ほどほどこんがりローストするのが rôtir、食べ残った残骸を始末するために徹底焼却するのが brûler、セザンヌはルーブルに後者を宣告しているのだから凄まじい。
 ついでに「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9:54)についても brûler ではあるまいかとあたってみたが、ここは consumer が当てられていた。これはこれでまた凄い言葉である。

金閣を/ルーブルを、焼き尽くさねばならぬ

Ω

ケセラセラ刊行

2020-12-13 07:22:44 | 日記
2020年12月12日(土)
 郵便受けに大ぶりな紙包みが届いた。中から出てきたのは「日刊スポーツ」12月11日号、それも同じものが二部。芸能人カップルの電撃婚を伝える一面の頭越しに、二本の付箋が送り手の意図を伝えている。
 18面はレジャー面、「大洗ヒラメ解禁」からずっと下、「キラフォレ5人卒業」の横に並んだ「情報」欄、これだったのか。


 以下、転記:

 ”魂の詠唱” 本田歩さん作品集刊行
 統合失調症を患い、47歳で他界した本田歩さんの作品を集めた「ケセラセラ 統合失調症患者の作品集」(文芸社・本体1400円税別)が命日である12月9日、刊行された。
 本田さんは20代後半に統合失調症と診断された。同じ頃、父親の病死、精神科閉鎖病棟への入院、離婚、離転職を経験した。そのようなつらい経験の中でも、日々の何げない情景や家族への思い、人生の機微などを写真付きの俳句や詩にしてスマホに残していた。しかし、2019年12月に急死。生前、本田さんが「生きているうちに小説でも出版したい」と言っていたことから、スマホに残された200点近い写真付きの俳句と詩、スケッチブックにあった水彩画から遺族が抜粋して出版した。
 本田さんは働きながら放送大学で学んでいた。同大教授で精神科医の石丸昌彦氏(63)は「統合失調症があっても、病があっても、こんな作品が残せるという励みになってほしい」と語り、”患者の作品集ではあっても、病ゆえの作品集ではない。「月の夜に生きる喜びケセラセラ」から「秋深し気高く燃やせこの命」まで、この世に自らを開いて歩みきった魂の詠唱である”と推薦文を寄せた。
 アマゾン、楽天市場、または全国書店での取り寄せで購入できる。

***

 書いたとおりで、仔細や背景ゆえでなく作品そのものが星屑のように輝かしいのである。写真もよいし、詩句もよい。御家族の依頼により帯の推薦文を書かせていただいたこと、光栄の一語に尽きる。


 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B1%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%82%BB%E3%83%A9-%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%A4%B1%E8%AA%BF%E7%97%87%E6%82%A3%E8%80%85%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-%E6%9C%AC%E7%94%B0-%E6%AD%A9/dp/4286221725/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E3%82%B1%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%82%BB%E3%83%A9&qid=1607818397&s=books&sr=1-3

 スポーツ新聞という存在を大いに見直した。その他いろいろ思うところがあるが、今はただ作品集の広く読まれることばかりを、ひたすら願っている。

Ω


武漢に作家あり

2020-12-09 13:17:35 | 日記
2020年12月9日(水)

 「一つの国が文明国家であるかどうかの尺度は、高層ビルや車の多さ、強大な武器や軍隊、科学技術の発達、卓越した芸術、派手な会議、絢爛たる花火、世界各地で豪遊する旅行者の数などではない。唯一の尺度(基準)は、弱者にどう接するか、その態度だ」
 
 孫引きの誹りは覚悟の上で書きとめておく。
 齋藤愼爾『終わりなきコロナの時代 ー 生と死のあわいで』(『てんとう虫』2020年、7+8月号P.68-69)に引用されたものを転記している。
 「新型コロナに感染した人は当初<被害者>であったのに、忌むべき不吉な<加害者>と位置づけられてしまう。中国武漢が発症元と伝えられると、中国人全体に対する差別が欧米や日本で顕在化する。武漢在住の作家、方方氏の日記がブログで公表されても黙殺される。方方氏の一節を引かぬ訳にはいかない。」(齋藤氏)
 「黙殺された」仔細など寡聞にして知らず、おかげでこういう作家のあることを知った。

 なお、「終わりなき感染症時代に真に求められるのは、宗教でも医学者の専門知でもなく、英知に支えられた思想だと考える」との齋藤氏の主張は真にもっともであるが、それに先立ち「キリストが磔刑にされたときの、「わが神、わが神、なぜ私を見捨てられるのですか」という叫びを何故に信者は問題視しないのか」と斬りつける調子で書かれているのには鼻白んだ。
 この深い叫びを信者が「問題視していない」と、何をもって決めつけるのか、まずはその点を伺いたいものだ。
 博学に裏づけられた示唆豊かなエッセイだが、緊張感を保って一文を書ききるのは易しい作業ではないと見える。

***
 方方(ファンファン)
 1955年、中国・南京生まれ。現代中国を代表する女性作家の一人。2歳時より武漢で暮らす。運搬工として肉体労働に従事したあと、文革後、武漢大学中国文学科に入学し、在学中から創作活動を始める。卒業後はテレビ局に就職し、ドラマの脚本執筆などに従事。80年代半ばから、武漢を舞台に、社会の底辺で生きる人々の姿を丁寧に描いた小説を数多く発表。2007年からは湖北省作家協会主席も務めた。2010年、中篇「琴断口」が、中国で最も名誉ある文学賞の一つである魯迅文学賞を受賞。「新写実小説」の代表的な書き手として、高い評価を得ている。主要な作品は映画化もされた「胸に突き刺さる矢」(2007年)、『武昌城』(2011年)、『柩のない埋葬』(2016年)など。
武漢日記 :方方,飯塚 容,渡辺 新一|河出書房新社 
(www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309208008)
 
Ω

負いもせぬ子に教えられ

2020-12-08 11:12:08 | 日記
2020年12月8日(火)

来信:
 先生、先日はありがとうございました。ひとつだけ、お教えいただけませんか。
 『ピカソの言葉』(絵はがき)の
  "Si l'on sait exactement ce que l'on va faire, à quoi bon le faire ?"
で隠れている写真の部分に、何が写っているかを、先生はご存知でいらしたのですか。
 今朝方、自宅で本を整理しているとき、たまたま、見つけてしまったのです。

返信:
 いえ、存じません。何?

再度の来信:
 石丸先生
Artist: Robert Doisneau (French, 1912–1994)Title: Les Pains de Picasso, 1952
Medium: Photographs, Gelatin silver print
  •   Les 【P】ains de Picasso →   Les 【M】ains de Picasso
 PをMにして「ピカソのパン」が「ピカソの手」になるなど、仏語ではタイトルも遊びゴコロに溢れていて素敵でした。

*以下は引用です
  1. 「ニースの手」という名前だったパン。Robert Doisneau(ロベール・ドアノー)が撮影した『ピカソのパン』という写真でピカソがテーブルに置いていたパン。
    今では「ピカソの手」と呼ばれています。
    出典: https://honeylemonspice.com/hoshi-france-5/

  2. 実物のパン:https://ameblo.jp/aruch-life/entry-12591755029.html
とても楽しませていただきました。
以上が、お返事です。

K
Ω

ピカソのフクロウとピカソの言葉

2020-12-08 10:56:17 | 日記
2020年12月2日(水)
 人が足を運んで顔を合わせるという行為にはリアルな価値があって、なかなか代償の効くものではないが、学生指導などは背に腹代えられずオンラインで実施することになる。これにはプラスの副産物もあり、遠隔地の学生が交通費や日程を気にせず参加できるという効果の大きさは、容易に想像のついたところである。
 加えて、質疑応答の中で「それについてはこんな本が書かれていて」などと思いつきで言った場合、現実の教室では書肆情報を提供するのが関の山だが、研究室や自宅ならば「ちょっと待ってて」と書棚から取ってきて見せることができる。もともと雑談に流れることが多いので、この余得が案外大きい。
 2日(水)のゼミ指導では、何かのはずみでピカソの話になった。

 「ちょっと待ってて」と取ってきたのは、いつだったかどこでだったか、何しろかなり昔に買い求めた絵はがき二葉である。
 掌のフクロウが創り手と何と瓜二つだこと。とりわけ目が!しかしこちらは実はオマケで、本題は次のものである。
 
 なぜかフランス語で書かれてある言葉を、僕は長らく少々の誤訳と共に記憶していた。
 「自分の手から何が創り出されるか、あらかじめ完全に分かっているとしたら、創るという行為にいったいどんな意味がある?」
 つまり faire を「創造する」と脳内変換していたのである。ピカソにとっては行住坐臥すべてが創造行為であったろうから、あながち誤訳ともいえないが、原義は行為一般について言ったものに相違ない。
 そして exactement の文字が強調されている。凡人我らも自分が何をしようとしているのか、大凡のところは分かっている。しかし厳密に、精確に、ことこまかに、すべて完璧に分かっているわけではない。微妙な攪乱や逸脱が思いがけない方向へ行為を導き、予想だにしなかった結末へ至ることは珍しくない。
 まるで見当がつかないわけではないが、すっかり見当がついているわけでもない、その間(あわい)に妙味が生まれる、だからこそ、考えるだけでなく実際に行為し創作する意味がある・・・
 そんな能書きを垂れながら、Zoom の画面越しに二葉の絵はがきを学生たちに示して見せた。
 そうしたところ・・・
to be continued