散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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土佐弁と伊予弁

2018-04-27 13:35:59 | 日記

2018年4月26日(木)

 土佐弁と伊予弁は似ているかと訊かれたりする。同じ四国で県境を接する隣県でもあり、そう思われるのも無理はないが、実際には大して似ていない・・・と思う。もちろん相対的な話だけれど。

 四国は小さい島であるけれども、峻険な山地がとりわけ北側では海際まで迫り、なけなしの平地を細かく寸断する。それが幕藩体制下の藩割りなどにも反映された結果、四国の中身は意外なほど多彩、多様である。

 狭いとか不便とかいった評は、外れてはいないが一面的なもので、「土地を広く使いたければ交通機関のスピードを落とせ」と書いた賢者の言を思い出す。そうした意味で四国は賢くもたいへん広い。

 小学校時代に3年間松山に住み、高知に戻った途端に伊予訛りをからかわれたという思い出を、倉成塾の女性メンバーが語ってくれた。

 「ありがとう」という時、松山では _ _ _ ー_ つまり「と(う)」が高くなる。土佐弁は前半が高くて正反対なのだそうで、聞き逃しようもない。どちらも東京弁から見れば訛っている。あるいは、どちらから見ても東京弁は訛っている。

 一方、似た言葉もある。高知市内の路面電車が発車を告げて閉扉したが、赤信号で待機するところへ高齢の男性がやってきた。乗りたがっているのにワンマンの運転手は気づかない。と、やおら乗客の女性が運転手に向かって、

 「おいでてますよ!」

 すぐさまドアが開いた。

 「おいでる」は伊予弁にもある。説明するまでもなく「いらっしゃる」「おいでになる」の意で、のんびり日向びた表敬の響きが大好きである。

 中央では失われた古語表現がしばしば方言の中に保存される例も、他の地方と同じく土佐弁と伊予弁に共通しているだろう。

Ω


ここはここ、土佐の高知のはりまや橋

2018-04-24 12:49:26 | 日記

2018年4月24日(火)

> 路面電車と川の景色から広島でしょうか。

 勝沼さん、コメントありがとう。なるほど、路面電車が活躍している街は案外たくさんあるのですね。正解は...

 はい、土佐の高知なのでした。上は面接授業への出がけに朝日を背にして撮ったもので、現はりまや橋交差点の北西隅にあたります。同交差点、北東隅のビル壁の仕掛け時計がなかなか凝ってまして、通常は12時の上に高知城が乗っかってるだけなんですが...

 高知学習センターから路面電車で戻ってくるのが、ちょうど午後6時過ぎ。よさこい節などのメロディに乗って、大パフォーマンスが延々7~8分も続きましたよ。

 6時方向では、5人のよさこい乙女がせっせと踊り続け、9時方向には、のっそり現れた龍馬その人。やがて3時方向に、はりまや橋がするすると出てきて、めかした女性がしずしず橋を登っていきます。まあ凝ってること!眺めていても何だかわくわく落ち着かないのは、南(写真右手)に10kmも行けば「鵬程万里 果てもなき」(高知商業校歌、高知市民はみんな歌えるそうです。石丸は高校野球中継で覚えました)太平洋が開けていて、ジョン万次郎がそこから嵐に連れ去られまた帰ってきた、などということを思うからかもしれません。日本列島の南岸はどこだって太平洋に面しているのに、とりわけ土佐がそれを感じさせるのは何故なんでしょうね?

 金曜日の夕方から火曜日の午前中まで90時間ほどの高知滞在でしたが、常にも増して熱心な受講者に恵まれた面接授業から、学習センター所長先生との語らい、T病院S先生訪問、勝沼さんも御存じの倉成さん一党との勉強会など、最近記憶にないほど密度の高い時間を過ごしました。どうしたって書くことが追いつかないので、書ききれなかった分はいずれお目にかかった時にお話しすることとさせてください。

 途中を飛ばして出発直前の写真から。

  ← 金曜の夕方/火曜の昼前 → 

 はりまや橋の一筋北、高知橋からの眺めでした。

 最後にJR高知駅前、

 雨中の志士たち、土佐人自慢のこの三人は誰でしょう?

Ω


ここはどこ? / 宿で見る映画と父子葛藤のことなど

2018-04-21 00:10:20 | 日記

2018年4月20日(金)

 午後を休診にしてやってきました、さてここはどこ?

 ヒント1 

 ヒント2

 ヒント3

 宿でメールを開けたら、半日の間に5件ほどの便りや知らせが届いていて、どれも3分や5分で返信できないものばかりである。そのうちの一つは留守宅から、父の親友の他界を知らせるものだった。Tさんというこの温厚な紳士は十代半ばで幼年学校に入ったが、結核に罹って退校を余儀なくされた。病が癒えて後は人並み以上の健康を維持し、つい先日まで現役の医師として立派な働きをしておられたのである。数ヶ月の患いであっけなく召されたのは見事とも幸せとも言えるが、これで父は親しい友人をほぼ全て見送った。老いを巧みにあしらいつつ蜜柑類の世話に余念なく、その甲斐あって今春はここ数年に例がないほどの豊作だが、送る相手がなくてはつまらない。僕の友人のうち酸味を苦にしない面々を選んで、にわかに大動員である。

 家であまり見ないテレビを、旅先ではなぜか好んで見てしまう。BSで『ウォール街』をやっていた。話題になったのがつい数年前のように思ったが、1987年の作品と知って苦笑した。道理で作中のアメリカ人がむやみにタバコを吸っている。ここにも当然ながら父子葛藤が出てくるが、主人公とその父親を演じるのが実際にも父子(マーティン・シーンとチャーリー・シーン)だというから、念が入っている。敵役のゴードンと主人公バッドの関係がこれまた一種の父子転移で、一人の息子を二人の「父親」が奪い合う図と考えれば、カラマーゾフからスター・ウォーズまでの夥しい作品群が行列作って顔を出すだろう。このモチーフなくして、いかなるストーリーも書けないかのようである。

 そういえば悪役のゴードンを演じきったマイケル・ダグラス、顎の線や怒りの表現などからひょっとしてと思ったら、案の定あのカーク・ダグラスの息子だった。父親はもうこの世にいまいと思ったら、失礼しました、嬉しくも健在のようである。1916年生まれの満101歳!『炎の人ゴッホ』『バイキング』『スパルタカス』など今も印象に鮮やかだが、いちばん切なく思い出されるのは邦題『暗殺』(何とセンスのない・・・)、元々は ”Brotherhood”と題したものである(https://movie.walkerplus.com/mv635/)。

 この人は何と帝制ロシアからの移民の子だそうだ。20世紀の長さを思う。幼年期はイジー・デムスキーとして育ったとある。日本への関心強く、64年の来日時には切望して三船敏郎を訪ねているそうだ。

(Wikipedia より拝借)

Ω


蚊が噛む地方の意外な広がり

2018-04-18 10:18:16 | 日記

2018年4月17日(火)

「もう中に入らんと、蚊が噛むよ」

「大丈夫、蚊は刺すけど噛まないから」

   我が家で定番のやりとりだが、僕はこれを伊予弁限定と思い込んでいた。大阪でも「噛む」ということを、文枝師匠の高座の中継で日曜日に知った。

「兵庫県でも噛むの?」

「噛むわよ、いつも言ってるじゃないの」

  創作落語であろう『大・大阪辞典』、他にも「サブイボ(寒イボ、鳥肌)」「メバチコ(ものもらい)」など懐かしい語彙が続出、伊予弁が西日本方言群の一翼に属することを再確認する。

  「きのう(昨日)」を「きんの」と発音する件では、古い記憶が蠢動した。むしろ「きんな」と聞こえる訛りをどこかで聞いたと思う。松江だろうか、しかし松江の小学校5、6年で担任してくださった井上芳郎先生は、「きんな」ではなく「きにょう」と発音していらした。近所の神田さんのおばちゃんも同じである。「きんな」はどこで聞いたのだったろう。

   蚊の吸血行動を表現する言葉として断然印象的なのは、

   「かじる」

   である。山梨出身の数学少年がこの言葉を発した時、おしゃべりで口の減らない関西勢が一瞬沈黙した。僕らが前歯を剥いてアイスキャンデーやトウモロコシをガジガジかじる、あの勢いで美味しそうな柔肌にかぶりつく巨大生物の姿が、皆の頭上に浮かんでいたに違いない。

   侮るべからず、ちびっ蚊ブーン、まもなく彼らの季節がやってくる。 

Ω


名にし負う、ジョシュア・オッペンハイマー

2018-04-09 22:46:00 | 日記

2018年4月9日(月)

 移動する電車の中でアメリカ人と思しき両親と6歳・4歳といった感じの男の二人の家族連れを見かけた。さほどヤンチャという風にも見えないが、両親は電車内でのマナーを守るようしきりにたしなめ、その勢いが「もうガマンの限界」という感じである。日頃の蓄積や前段階もあってのことだろうが、揃ってたしなめられながら兄貴が一日の長を発揮して一瞬早く「よい子」モードに戻り、勢い余って一瞬長くはしゃぎすぎた弟が叱責の矢面に立たされる場面など、20年前を思い出しておかしいようなバツが悪いような。親の尻馬に乗って兄が弟を表情で嘲り、弟が何か言いたそうにした瞬間、母親がピシリと言葉で止めた。

 下車しながら弟君が母親に抗議する。 "Mom, I didn't say anythig yet." (ママ、僕まだ何も言ってないよ!)
 母親すかさず、 "You were going to do." (言おうとしたでしょ!)

 思わず吹き出した。何語でも何人でも同じこと、万国共通の親子の口論である。英語が身につかないと言うんだが、こんな場面を題材にしたらどんなものだろうか。

***

 勝沼さんより、アクト・オブ・キリングについて短いコメントあり。

 タイトル: ドキュメンタリー
 コメント: ドキュメンタリー映画には重要な事実を後世に伝えるという役割もあるかと考えています。それと、人の半生くらいの年月が経って初めて見えてくるものもあるように思いました。
 西部邁さんについては、最後のテレビ出演の際のことを話に聞き、複雑な気持ちになりました。

 ナザレのイエスの物語を記した福音書の編纂が始まるのは、最も早いマルコ福音書が紀元65~80年頃、やや遅れてマタイとルカ、別系統のヨハネ福音書がさらに遅れる。前三者が80~85年頃に出そろったとすると、イエスがゴルゴタで刑死した30年前後からちょうど半世紀、生き証人らが他界する時期を迎え、文字に記録する必要が生じたことがきっかけといわれるが、「人の半生くらいの年月が経って初めて見えてくるものがある」ことも重ねて見たくなる。

 西部さんのテレビ出演のこと、今晩の会合の帰りに勝沼さんから聞いた。なるほど複雑な、そしてイヤな気分である。僕が言いよどんだのは、かつて学生運動に強い影響を与えた人物の保守旋回で振り回された人々があったこと、そして今回も同様に振り回された、あるいは巻き込まれた人があったことである。巻き込まれる側もいい大人なのだから故人のせいとばかりはいえないし、繰り返し人を巻き込むのはそれだけの魅力があった証拠だろうが、言っていることとやっていることとの間に齟齬があるのは否定できない。いずれにせよ、人は生きてきたように死んでいく。多くの人が言っていることだが、僕の印象に残っているのは、淀川キリスト教病院にホスピス棟を開設した頃の柏木哲夫氏の講演の結びである。

***

 今日は勝沼さんを含め20名余の仲間が渋谷の会議室に集まり、2時間ほどの勉強会をもった。遡って3月20日(火)、院生の竹内香さんが京都で主宰する、がん患者の家族・遺族の集いの場「ふらっと」の活動を記録した映画 ~ まさにドキュメンタリー ~ の上映会を中心に、塾のメンバーや学生・院生の合同勉強会を開いたのである。席上、思いがけず誕生日を祝ってもらうオマケまで付いたが、いちばんのプレゼントはこうして人が集まることだ。

 「捕手の楽しみ」と呼ぶものがあり、これは野球の首尾の際、捕手だけが他の8人の投手・野手全員の顔が見えることを指す。今日はちょうどそんな具合で、集まった20人は桜美林から放送大学、臨床の同労者から友達の友達まで多彩で、お互いがどんなに素晴らしいかまだお互いに知らない。僕だけが全員を知っているという無上の至福である。

 冒頭、アクト・オブ・キリングの話をするうちに、ふと思いついて注目したのが監督である Joshua Oppenheimer の名前である。

 まず Oppenheimer、この名を聞いたら「原爆の父」を想起したい。後に原爆開発を後悔し、水爆実験に反対したとされるが、「彼は後悔したんじゃない、原爆を超える水爆の開発を嫉んだのだ」と言ったのは、何の映画のどの登場人物だったか。それはさておき、これは典型的なユダヤ人の姓である。ユダヤ系ドイツ人のと言った方が良いか。Joshua O. も祖父母の代にナチの迫害を逃れてアメリカに移住した。

 次に Joshua(ジョシュア)、これは言うまでもなく旧約聖書のヨシュアである。ヨシュアはモーセの後継者としてイスラエルのカナン帰還を指揮するが、有名なのがエリコ(ジェリコ)攻略でヨシュア記6章に詳しい。虚心坦懐に読めば実に胸の悪くなるようなもので、「民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」(6章20-21節)とある通り、大量虐殺のお手本そのものだ。

 有名な歌があり「正義の旗を掲げ/ヨシュアと共に、敵に奪われし/故郷を指して」と歌うのだが、手前勝手な正義である。エリコが「敵に奪われた」とはどこにも書かれておらず、ただ「主がこの土地を自分らに与えられた」という妄想的信念があるだけだ。『アクト・オブ・キリング』の末尾でアンワル・コンゴが激しい嘔吐とともに罪悪感に直面するように、旧約全篇を通じてこれでもかと活写される人間の非道と残虐を踏まえてこそ、新約の逆転が意味をもつというのが一つの解決だが、現在のイスラエル国家は恐ろしいほど単純かつ無反省にヨシュア記の現代版を実行し続けている。

 それはさておき、こうしてみると Joshua Oppenheimer という名前は実にただならぬ象徴になっていることがわかる。原爆とジェノサイドの加害性と被害性が何重にも撚りあわされ、ほぐす端すら見つからない。この名を与えられた者に歴史的な知性と良心があったとしたら、なるほど『アクト・オブ・キリング』を制作するか、さもなくば自ら登場人物(アクター/アクトレス)になって加害あるいは被害に加担するか、いずれ何者かにならずにはいられないことだろう。現にこの若者はそのようになった。

 昨今の「キラキラネーム」は別段非難される筋合いのものではなく、むしろ往古に万葉仮名を創案した日本文化に似つかわしい発想とすらいえる。ただ、旧約の昔から今日に至るまで、限られた名前を徹底的に使い回す一群の人々と対比した場合、命名の初めから歴史性を付与され、歴史と伝統を否応なく意識させられる彼らとは違って、あっけらかんとした無邪気で空虚な非歴史性が、僕らの名のりを覆っていることを認めないわけにはいかない。

 日本人が歴史に弱いとか歴史音痴だなどというのも、案外こんなことと関係しているかもしれないよと、例によって脱線放言するのを今夜も仲間たちは辛抱強く聞いてくれた。

 ところで Joshua Oppenheimer、「ふらっと」の記録映画『To the Last Drop』の制作者である人類学者の和氣正太郎さんと、どこか似たところが僕には感じられる。むやみに長身で手足の長いイケメンという見かけの共通点ではない、映像作家としての質のことである。

Ω