2014年8月30日(土)
「手張りとかもやってたみたいで、お金の苦労がしょっちゅうで、借金取りが押しかけてきたりして・・・」
確かに「手張り」と聞こえたように思ったんだが、意味が分からぬまま面接を進めた。障子なんかを手で張るという以外に、そんな言葉があるのかどうか。
帰って国語辞典を見てみれば、ちゃんとあるのだ。
「勝負後に金を支払う条件で、ばくちを張ること」
それで分かった。
非常に危険な張り方であることは、僕にもわかる。頭に血が昇ると、懐に金もないのに「勝つんだから金は要らない」が当人の現実になるだろう。この状態の博徒からむしるのは、その道の人間ならいともたやすいことに違いない。
今でも現に、あるのだ。
***
Yさんはポポと二人三脚で、苦手な夏をどうやら越えつつある。(「手張り」の話は、たまたま思い出したから書いただけで、Yさんとは全く関係ない。)
ポポも高齢で、夏は決して楽ではないのだそうだ。しんどそうなポポが、どうかすると涙の跡を目の周りに残していたりするのを、Yさんが優しく丁寧に拭うのが日課だそうである。
胸のあたりが温かくうずく風景であるが、そこには目に見える以上の深まりがある。
Yさんがポポの涙を拭う時、主がまたYさんの涙を拭っていてくださる、そんなふうに僕には思われるのだ。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録 21:3-4)
いわゆる「身代わり地蔵」とか「身代わり観音」とかは全国に多くあるのだと思うが、首都圏のある寺院のそれについて調べた時、面白いことを知った。治癒を願う者は、御本尊の体の、自分が不調をきたしているのと同じ部分を、心を込めてなでさすることを求められている。そのようにして願いが伝わり、癒しが起きるのである。
これと同じカラクリが心理臨床にも働いているのではないかと考え、駄文を桜美林の紀要に載せたことがあった。「共感」の能動的側面と言ってもよい。苦痛の中で癒しの手を伸べる者こそが、豊かに癒しを与えられる、そんなことではないだろうか。
ちょうど次男が『動物に魂はあるか』という本を読んでいる。アリストテレス以来、デカルト経由の大問題を、今日の視点から論じたものであるらしい。
ありやなしやを知的に論じることは、もちろん「あり」だろうけれど、今これを聞いて僕が思うのはポポのことである。家族の一員として労苦を共にし、不和があればそれを敏感に察知して調停の役さえ果たし、Yさんと癒しのループをつくり出すこの生き物に、魂が「ない」とは言えそうにない。少なくともYさん一家は、この一羽のウサギの中にはっきりと魂を感じている。
実体としてあるかないかというよりも、それをあらしめ、あるいは否認する心理に注目した方が、現実には実り多いかもしれない。否認の心理が全開になるのが、戦場というところであろう。
「手張りとかもやってたみたいで、お金の苦労がしょっちゅうで、借金取りが押しかけてきたりして・・・」
確かに「手張り」と聞こえたように思ったんだが、意味が分からぬまま面接を進めた。障子なんかを手で張るという以外に、そんな言葉があるのかどうか。
帰って国語辞典を見てみれば、ちゃんとあるのだ。
「勝負後に金を支払う条件で、ばくちを張ること」
それで分かった。
非常に危険な張り方であることは、僕にもわかる。頭に血が昇ると、懐に金もないのに「勝つんだから金は要らない」が当人の現実になるだろう。この状態の博徒からむしるのは、その道の人間ならいともたやすいことに違いない。
今でも現に、あるのだ。
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Yさんはポポと二人三脚で、苦手な夏をどうやら越えつつある。(「手張り」の話は、たまたま思い出したから書いただけで、Yさんとは全く関係ない。)
ポポも高齢で、夏は決して楽ではないのだそうだ。しんどそうなポポが、どうかすると涙の跡を目の周りに残していたりするのを、Yさんが優しく丁寧に拭うのが日課だそうである。
胸のあたりが温かくうずく風景であるが、そこには目に見える以上の深まりがある。
Yさんがポポの涙を拭う時、主がまたYさんの涙を拭っていてくださる、そんなふうに僕には思われるのだ。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録 21:3-4)
いわゆる「身代わり地蔵」とか「身代わり観音」とかは全国に多くあるのだと思うが、首都圏のある寺院のそれについて調べた時、面白いことを知った。治癒を願う者は、御本尊の体の、自分が不調をきたしているのと同じ部分を、心を込めてなでさすることを求められている。そのようにして願いが伝わり、癒しが起きるのである。
これと同じカラクリが心理臨床にも働いているのではないかと考え、駄文を桜美林の紀要に載せたことがあった。「共感」の能動的側面と言ってもよい。苦痛の中で癒しの手を伸べる者こそが、豊かに癒しを与えられる、そんなことではないだろうか。
ちょうど次男が『動物に魂はあるか』という本を読んでいる。アリストテレス以来、デカルト経由の大問題を、今日の視点から論じたものであるらしい。
ありやなしやを知的に論じることは、もちろん「あり」だろうけれど、今これを聞いて僕が思うのはポポのことである。家族の一員として労苦を共にし、不和があればそれを敏感に察知して調停の役さえ果たし、Yさんと癒しのループをつくり出すこの生き物に、魂が「ない」とは言えそうにない。少なくともYさん一家は、この一羽のウサギの中にはっきりと魂を感じている。
実体としてあるかないかというよりも、それをあらしめ、あるいは否認する心理に注目した方が、現実には実り多いかもしれない。否認の心理が全開になるのが、戦場というところであろう。