2014年11月29日(土)
朝、碁楽会のFさんから電話がかかってきた。12月14日に今年度の大会があることを知らせてくださったのだが、10月からずっと欠席続きなので心配してくださったらしい。
「皆あんまり弱いんで、つまらなくなったんかと思て」
この方の出身地域は訊かなくても分かって懐かしい。皆が弱いなんて、滅相もないですよ。
入会の時、勝手が分からないので四段で申請し、もらったハンデが少し多めだったのだ。それに助けられて2つ3つ勝たせてもらったが、誰からでも学ぶことはいくらでもある。仕事が忙しかっただけだ。
「はあ、安心しました。せいぜい強い人と当てますから、また来てください。」
おっしゃるFさんはアマ八段で、僕らから見ればプロとほとんど変わらない。ああ、教わりたい・・・
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などと言いつつ、午後はT君と国立博物館へ。今週月曜の約束だったのに、僕が風邪気味で伸ばしてもらったのだ。国宝展をやっているんだが、目当てはピンポイント、五体の土偶である。雨の中を「館外で90分待ち」と脅かされ、T君ご機嫌ナナメである。確かに、障がい者や高齢者には別の配慮があって良さそうだ。実際は45分ほどで入館、文句言われないように長めに言ってるのかなと、僕はその方がすっきりしない。
土偶だ。
何てモダンなんだろう。デフォルメと象徴化、逆説的にそれを支えるしっかりした観察。全体をおおらかなユーモアが包んでいる。「おおらかなユーモア」は重複表現かな、おおらかでないユーモアは考えがたい。
男性系 ・・・ 中空土偶(函館)、合掌土偶(八戸)・・・BC1000~2000
女性形 ・・・ 縄文の女神(舟形)、縄文のビーナス(茅野)・・・BC2000~3000、
仮面の女神(茅野)・・・BC1000~2000
T君が「新兵器があるんだぜ」と取り出したのは4倍の単眼鏡、なるほど、土偶の表情や肌理がよく見える。貸してもらって、交代に堪能した。
合掌土偶は、何をしているんだろう。「気」の集中といったものか、たいへんな力がそこにこもっている。女神の流れる美しさ、ビーナスのはちきれる豊かさ、それぞれいいなあ。
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明日からアドベント、中高生に話すのはザカリアのエピソードだが、教案誌の解説を読んでもいまひとつピンと来ない。悪いけど味気ないのだ。
こういうときは、あらためて原文を読むに限る。読めば必ず発見がある。
ザカリアは、生涯一度あるかないかの晴れの大任を帯びて至聖所に入る。そこで祝福を受け、それを携え戻って民に分かつという至高のつとめである。ところがそこに顕現した天使は、既に高齢のザカリアとエリザベト夫婦に子が与えられることを告げる。アブラハムとサラの物語の再現であり、受胎告知という意味ではマリアへのそれの先触れでもある。公的な任務の場で私的な祝福が告げられるのも妙なようだが、そこから逆にこの子 ~ 洗礼者ヨハネ ~ の誕生が単なる私的なできごとではないことが分かる。
ところで、こうした聖なる体験に直面した凡夫の反応を記すに、聖書はしばしば実にリアリスティックなのだ。逆に振れすぎてかえってリアルを欠くとすら見えるか、言うに事欠いてザカリアは「そんなことあり得ない、証拠を見せてくれ」と天使に食い下がるのである。
「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
サラはうっかり苦笑しただけで、「あなた、いま笑いましたね」と天使に突っ込まれた。ザカリアはあからさまに言い逆らっている。ただで済むはずがないのだが、天使のしっぺ返しがおよそ考えられるものの中で最も気が利いているのだ。
「わたしはガブリエル、神の前に立つ者、あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
どの口がそういう罰当たりを言うわけ?そんなこというなら・・・「さっきの話はナシ、祝福とりやめ」などとキレたのでは、天使も大人げない、そのかわり、「そういうことを言う口なら、しばらく閉ざしてもらいましょう」と来たのだ。それが祝福のしるしだって!何と皮肉で辛辣な、しかしまた何と粋な計らいであることか。
祝福は生きている。ただ、ザカリアは口が利けない。これは微妙にして痛烈なお仕置きである。ザカリアは、至聖所を出たら民に祝福を伝える役目を帯びており、そのために生涯一度の大任を委ねられたのだ。口が利けなかったら、この大役は台無しである。この場のザカリアにとってこれほど厳しいお仕置きはない。「祝福機能の停止」という厳罰をザカリアは被った。
ただ、祝福そのものは損なわれていない。自身の幸いと重なって民が究極の祝福にあずかろうとしていることを、ザカリアは確かに知っている。祝福はわが内にあり、のど元までこみあげているのに、それを語ることができない ー ただしばらくの間は。このしばらくの、どれほど長かったことだろうか。
罰がかえって祝福の倍加でもあることを、ここで僕らは見るのである。子どもが産まれるまで10ヶ月の余も口が利けないことによって、ザカリアの内なる言葉は熟しに熟す。酵母が働いて酒や味噌が熟成されるように、待つ間も聖霊は働き続けてその日に備える。それがついに弾けたのが、いわゆるザカリアの預言。預言と言うも、マリア、シメオンのそれと並んで「賛歌」と呼ぶにふさわしい。
「憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」
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アドベントは「近づく」の意味、近づくその日を待つ期間とされる。「待つ」ことのさまざまな相がここには重なる。子どもの誕生まで10ヶ月、待ち望んだ両親には数年・数十年、救い主の到来を待望してきた民にとっては数百年・千年。
その展望の中では点景に過ぎないが、至聖所で口を封じられて以来、声と言葉の戻る日を待ちに待ったザカリアの心も、ここに重ねてみることができる。
それにしても、聖書は全巻の至るところユーモア満載だ。それにもっと注目したらいいのにな・・・
ああ、もったいない。