散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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土偶とザカリア/ユーモアということ

2014-11-29 23:10:46 | 日記

2014年11月29日(土)

 朝、碁楽会のFさんから電話がかかってきた。12月14日に今年度の大会があることを知らせてくださったのだが、10月からずっと欠席続きなので心配してくださったらしい。

 「皆あんまり弱いんで、つまらなくなったんかと思て」

 この方の出身地域は訊かなくても分かって懐かしい。皆が弱いなんて、滅相もないですよ。

 入会の時、勝手が分からないので四段で申請し、もらったハンデが少し多めだったのだ。それに助けられて2つ3つ勝たせてもらったが、誰からでも学ぶことはいくらでもある。仕事が忙しかっただけだ。

 「はあ、安心しました。せいぜい強い人と当てますから、また来てください。」

 おっしゃるFさんはアマ八段で、僕らから見ればプロとほとんど変わらない。ああ、教わりたい・・・

***

 などと言いつつ、午後はT君と国立博物館へ。今週月曜の約束だったのに、僕が風邪気味で伸ばしてもらったのだ。国宝展をやっているんだが、目当てはピンポイント、五体の土偶である。雨の中を「館外で90分待ち」と脅かされ、T君ご機嫌ナナメである。確かに、障がい者や高齢者には別の配慮があって良さそうだ。実際は45分ほどで入館、文句言われないように長めに言ってるのかなと、僕はその方がすっきりしない。

 土偶だ。

 何てモダンなんだろう。デフォルメと象徴化、逆説的にそれを支えるしっかりした観察。全体をおおらかなユーモアが包んでいる。「おおらかなユーモア」は重複表現かな、おおらかでないユーモアは考えがたい。

 男性系 ・・・ 中空土偶(函館)、合掌土偶(八戸)・・・BC1000~2000

 女性形 ・・・ 縄文の女神(舟形)、縄文のビーナス(茅野)・・・BC2000~3000、

          仮面の女神(茅野)・・・BC1000~2000

 T君が「新兵器があるんだぜ」と取り出したのは4倍の単眼鏡、なるほど、土偶の表情や肌理がよく見える。貸してもらって、交代に堪能した。

 合掌土偶は、何をしているんだろう。「気」の集中といったものか、たいへんな力がそこにこもっている。女神の流れる美しさ、ビーナスのはちきれる豊かさ、それぞれいいなあ。

   

***

 明日からアドベント、中高生に話すのはザカリアのエピソードだが、教案誌の解説を読んでもいまひとつピンと来ない。悪いけど味気ないのだ。

 こういうときは、あらためて原文を読むに限る。読めば必ず発見がある。

 ザカリアは、生涯一度あるかないかの晴れの大任を帯びて至聖所に入る。そこで祝福を受け、それを携え戻って民に分かつという至高のつとめである。ところがそこに顕現した天使は、既に高齢のザカリアとエリザベト夫婦に子が与えられることを告げる。アブラハムとサラの物語の再現であり、受胎告知という意味ではマリアへのそれの先触れでもある。公的な任務の場で私的な祝福が告げられるのも妙なようだが、そこから逆にこの子 ~ 洗礼者ヨハネ ~ の誕生が単なる私的なできごとではないことが分かる。

 ところで、こうした聖なる体験に直面した凡夫の反応を記すに、聖書はしばしば実にリアリスティックなのだ。逆に振れすぎてかえってリアルを欠くとすら見えるか、言うに事欠いてザカリアは「そんなことあり得ない、証拠を見せてくれ」と天使に食い下がるのである。

 「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」

 サラはうっかり苦笑しただけで、「あなた、いま笑いましたね」と天使に突っ込まれた。ザカリアはあからさまに言い逆らっている。ただで済むはずがないのだが、天使のしっぺ返しがおよそ考えられるものの中で最も気が利いているのだ。

 「わたしはガブリエル、神の前に立つ者、あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

 どの口がそういう罰当たりを言うわけ?そんなこというなら・・・「さっきの話はナシ、祝福とりやめ」などとキレたのでは、天使も大人げない、そのかわり、「そういうことを言う口なら、しばらく閉ざしてもらいましょう」と来たのだ。それが祝福のしるしだって!何と皮肉で辛辣な、しかしまた何と粋な計らいであることか。

 祝福は生きている。ただ、ザカリアは口が利けない。これは微妙にして痛烈なお仕置きである。ザカリアは、至聖所を出たら民に祝福を伝える役目を帯びており、そのために生涯一度の大任を委ねられたのだ。口が利けなかったら、この大役は台無しである。この場のザカリアにとってこれほど厳しいお仕置きはない。「祝福機能の停止」という厳罰をザカリアは被った。

 ただ、祝福そのものは損なわれていない。自身の幸いと重なって民が究極の祝福にあずかろうとしていることを、ザカリアは確かに知っている。祝福はわが内にあり、のど元までこみあげているのに、それを語ることができない ー ただしばらくの間は。このしばらくの、どれほど長かったことだろうか。

 罰がかえって祝福の倍加でもあることを、ここで僕らは見るのである。子どもが産まれるまで10ヶ月の余も口が利けないことによって、ザカリアの内なる言葉は熟しに熟す。酵母が働いて酒や味噌が熟成されるように、待つ間も聖霊は働き続けてその日に備える。それがついに弾けたのが、いわゆるザカリアの預言。預言と言うも、マリア、シメオンのそれと並んで「賛歌」と呼ぶにふさわしい。

 「憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ

 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」

***

 アドベントは「近づく」の意味、近づくその日を待つ期間とされる。「待つ」ことのさまざまな相がここには重なる。子どもの誕生まで10ヶ月、待ち望んだ両親には数年・数十年、救い主の到来を待望してきた民にとっては数百年・千年。

 その展望の中では点景に過ぎないが、至聖所で口を封じられて以来、声と言葉の戻る日を待ちに待ったザカリアの心も、ここに重ねてみることができる。

 それにしても、聖書は全巻の至るところユーモア満載だ。それにもっと注目したらいいのにな・・・

 ああ、もったいない。


具膳飡飯 適口充腸 ~ 千字文 101 / 中枢優位性の得失

2014-11-29 09:46:09 | 日記

2014年11月29日(土)

具膳飡飯 適口充腸

飡はサン、餐に同じ。

「膳をととのえ食事をするにも、口に適って腹を充たせば、それで十分ということらしい。

そりゃそうだろう。

***

 ほ乳類とりわけ人類は、中枢神経系を発達させることによって飛躍的な発展を遂げた。徹底的な中枢優位で、情報学だか何だかの立場からは欠点も指摘されているらしい。中枢の負担が重すぎること、中枢に故障が起きると全体の機能が麻痺することなど。これって現代社会のありようそのもので、ひたすら相互乗り入れを進めて全線一体化しつつある鉄道システムも、その一断面かと思われる。

 ところで、地球進化の現段階で爆発的に成功しているのは、ほ乳類/人類だけではない。巨視的に見れば、昨今は節足動物とりわけ昆虫の時代とも言えるんだそうだ。彼らは神経系の発達に関して我々と対照的な路線をとっていて、中枢の機能集中をそこそこに止め、末梢の独立性を高く保っている・・・らしい。(半可通なので断言はしないでおく。)

 ほ乳類型の中枢の発達は「知能」というスーパーウェポンを生み出し、知能は学習とその蓄積を可能にした。昆虫類はこの方向への発展可能性を断念し、環境適応はもっぱら生得的な「本能」に委ねている。既存のプログラムが不適応に陥ったときは、その世代内で修正することはさっぱりとあきらめ、プログラムのプールから適者生存のふるいによって新たなオプションを選び直す方式をとる・・・んだろうと思う。ほんとかな。

 え~っと、ここで書き留めたかったのはそういう大それた話ではなくて、鉄道にせよ何にせよ、もう少し昆虫にならって末梢の独立性を活かした制御方式がとれないかということだ。個体としてのヒトは過剰な(?)中枢優位型にできてしまっているんだから、これをあらためるのは無理な話だし、そんな必要もない。しかしそういう身体条件をもたされているからといって、社会システムまでもこれに倣る必要はない。高度の中枢制御が常に善であり美であるというのは、思い込みに過ぎない。一神教すらこうした思い込みの延長上に置かれているとしたら、いささか無残な話である。

 頭をつぶされても動いている昆虫の脚を見れば「気持ち悪い」と感じるが、中枢のコンピュータが麻痺してもローカル線が変わらず平常運行できるならば、それはたいへん気持ちのよいことだろうと思われる。

 さて、自分の生活に引き寄せて言うと、どういうことになるんだろう?


易輶攸畏 屬耳垣墻 ~ 千字文 100 / キルケゴールの引用

2014-11-28 07:01:51 | 日記

2014年11月28日(金)

 9月3日以来だ!深い理由はない、ただ何となく忘れていたのである。強いて言えば、ここはちょっと面白いので念入りに見てみたいと思っただけだ。というのも・・・

 易輶攸畏 屬耳垣墻 (イユウ・ユウイ ゾクジ・エ(ン)ショウ)

 音だけ並べても意味をなさないね、意味としては、

輶   軽率なこと

攸   「所」に同じ

屬   「くっつける」こと(なるほどそうか!)、「ゾク」が呉音で「ショク」が漢音。

垣墻 壁、塀。

 従って「安易・軽率な行動は慎むべし、耳を壁につけ(て周囲に気を配れ)よ」というんだが、Wikisource のつけている訳が面白いのだ。

「軽挙妄動おそれるところ 壁に耳あり障子に目あり」

 原文は「(自分が)壁に耳をつけて用心せよ」というところをひっくり返しているけれど、意味としては申し分なく原意が伝わる。訳すならこういうふうに訳したい。

***

 水曜日に会合があり、"Paradigms Lost" の翻訳を一致協力して進めることを、5人のメンバーで確認した。ちょっと大変だけれど、価値ある仕事なのは間違いない。

 

 で、僕の担当部分の冒頭にキルケゴールの言葉が引用されている。

 Once you label me you negate me.

 「レッテルを貼ることは、とりもなおさず相手を否定することである。」

 ぐらいに言っておこうか、むろんいろいろな表現上の工夫が可能である。

 いまいましいのは、この言葉の出典がなかなか分からないことだ。30を超えるというキルケゴールの著作の中の、どこにこれが載っているのかわからない。わからないのがいまいましいというよりも、誇らしげにこの言葉を紹介している多数のサイトのどれもこれも、出典を示すことに価値を置いていないのが腹立たしいのである。「出典:キルケゴール」なんて平気で書いてたりする。もっとひどいのは、この言葉を引用した(アメリカ人の?)人生手引き書みたいなものを「出典」としている。(『自分のための人生』W. ダイアー ~ この本自体は面白いのかもしれない。) げんなりだ。

 わからないな、みんな関心がないのかしらん?オリジナルへの敬意が、いくら何でも低すぎるだろう。

 

 もうひとつ言うなら、国際標準としての英語で紹介するのはとりあえず良いとして、キルケゴールの原語がこれとは違うことをもう少し意識したい。キルケゴールはデンマーク人だ。デンマーク語(デーン語?)は日本語よりは英語に近い(だろう)としても、翻訳されたものである点は変わらない。近いからかえって起きる失敗もあることは、聖書の翻訳をみたってはっきりしている。

 once で始まる構文には、ちょっとしたトリックがある。上では「とりもなおさず」とやってみたが、「・・・が早いか」とか「いったんレッテルを貼るならば」とか、ニュアンスはいろいろと考えられる。そこから一つを選ぼうとするなら、著者自身の元の言葉を参照しないわけにいかない。案外、微妙な違いがあるかもしれないぜ。

 まずは、どこに載ってるか、それからだ。

 


木曜日のいろいろ ~ メンタルヘルスセミナー/大丈夫/ある墓参/武侠小説

2014-11-27 19:01:36 | 日記

2014年11月6日(木)

 3週間前になるが、メ ンタルヘルスのセミナーで講師をつとめた。関連業種の人事担当者ばかり70人ほど集まり、それが皆固く押し黙って(一人例外がいたっけな)、面接授業や公開講座の開けた雰囲気が少しもない。見えないネクタイで締めあげられてるみたいで、冗談なんか言えたもんじゃない。それで知ったのは、自分にとって酸素と同程度に笑いが必要なことだ。

 ああ苦しかった、窒息するかと思った。

 同時に驚いたのは、会社の人事担当者の面談申し入れを、断る/嫌がる医者が多いことだ。個人情報うんぬんは理由にならない。あれは当事者を守るためのルールなんだから、当事者の利益になる局面では ~ むろん本人の了解を得たうえで ~ 必要かつ有効な情報交換は大いに促通すべきなのである。なのにそれを嫌う医者が多く、その言い訳に「個人情報」を持ち出すらしい。中にはこの種の徒労を何度も経験したあげく、医者との連携を断念して消極路線に切り替えたという担当者もあった。

 分からないな、どうも。

 カッコつけるわけじゃないが、それでは精神科の臨床はできないし、だいいち面白くないだろうに。DSMに準拠して振り分け(操作的診断は、それ単独では「みたて」ではなく「ふりわけ」に過ぎない)、対応する処方箋を発行するだけだとしたら、精神科診療なんて少しも面白くないし、機械だってできる。レジ打ちの方がよっぽど生の人間に触れている。

 どうも分からない。

***

 自信?そうだね・・・

「大丈夫、自信を持ちなさい」

 というのが励ましの定型だが、ほんとうは

「大丈夫、自信なんかなくても大丈夫」

 と言いたいのだ。

***

 ある人が岩手へ墓参に帰った。当日は霧が深く、よく知った道なのにうっかり迷ってしまった。歩くにつれ動悸がして気分が悪くなってくる。やがて森陰の小さく開けた丘に出た。墓石が立っているらしい。悪心をこらえて墓石の文字を読めば、「藤原経清」とある。奥州藤原氏の祖、前九年の役で源頼義に惨殺されたが、 息子清衡が三代の栄華の初めとなった、その経清である。

 どうも苦しくて仕方がない。ふと考えて、ちょうど携行していた線香を墓前に焚いて祈ったところ、すっと動悸がおさまって楽になった。道を戻って墓参を済ませ、駐車場で愛車に乗り込んだら、垂れ込めた雲が彼の頭上で開けて、燦々と秋の陽が降り注いだ・・・

***

 勘違い、『ゲーテとの対話』はまだ手に入れてなかった。岩波文庫でたっぷり分厚い3巻もの、これは買った覚えがない(ほんとか?)。ちょっと迷って購入した。目ざす言葉に行き当たるまで、どれだけかかるか分からないが、面白そうだからいいや。

 と言いながら、帰りの電車では『射英雄伝』の一巻にハマってしまった。(チョウ)は鷲の意というから、鷲をも射落とす英雄達の物語か。実はこれ、台湾出身の棋士・林子淵七段のお勧めなのだ。同じ台湾出身の張栩九段ともども、林海峰師の内弟子だった時代にハマったという。もっとも彼らは中国語の原作を読んだのだろう。金庸(Jing Yong)という中国人の著者は、中国・台湾で非常に人気のある「武侠小説」のチャンピオンだそうだが、日本語訳もリズムよく感じが出ている。

 冒頭の流れは『水滸伝』続編と言ったところ。現に時代も南宋、主人公のひとりは梁山泊の英雄の子孫という設定である。長春真人が出てきて、早くも一波乱起きた。これにハマるなんて、棋士らもやっぱり男の子だね。

 夢中で読みふけり、少しぼうっとして最寄り駅で降りたら、後ろからツイと出てきた若い女性が、制服の女の子のギターらしき荷物を思いきり蹴り上げた。びっくりして見ていると、振り返る女の子に一瞥くれて、また電車に乗り込んでしまった。

 武侠小説より、こっちが怖い。言葉を使いましょうよ、ね。

 あ、そのほうがもっと怖いか。

 


花は必ず剪って瓶裏に眺むべし

2014-11-27 11:34:22 | 日記

2014年11月27日(木)

 「二方は生垣で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲の中に立った池の女を見るや否や、忽ち悟った。 - 花は必ず剪(き)って、瓶裏(へいり)に眺むべきものである。」

(『三四郎』第三十八回 11月25日(火)朝日朝刊)

 漱石だ。

 この言葉の意味は、そう簡単ではない。そしてこの後に、例の「ヴォラプチュアス」論議が続く。読者は相当考えさせられる。美禰子のモデルは「平塚らいてふ」だと別の日の解説。

 このスタイルは、今はダメなのかな?いやさ、今はどこにどういう形であるんだろう?