散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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謂語助者 焉哉乎也 ~ 千字文一巻の終わり

2016-12-31 23:58:40 | 日記

2016年12月31日(土)

 謂語助者 焉哉乎也

 「助辞というものは、焉、哉、乎、也などである。」

 最後はいたってあっさりと散文的である。いうまでもなく助辞は文の勢いや主観的判断を示すもので、実質的な概念を内包しない。

 千字文の成立過程については別伝があるらしい。もともと魏の大夫・鍾繇(しょうよう)が作りあげ、魏から禅譲を受けた晋・武帝(司馬炎、司馬懿仲達の孫にあたる)に献上した。武帝はこれを珍重して手許から離さなかったというが、これは西暦280年前後のことになる。

 下って晋の天子が宋の文帝に追われ丹陽(現・江蘇省丹陽県)に難を避けることがあり、もちろん天子は千字文を携行したが途中で雨に遭い、車が雨漏りしていたために濡れてしまった。濡れた千字文がそのまま丹陽の書庫に収められたというが、この年代がよく分からない。宋・文帝の治世は424~453年とあり、東晋は420年に滅んでいるから時間的にぴったりはまらないのである。何しろ宋の文帝が丹陽を支配下に治めて書庫を開いた時、雨で汚損して順番が乱れていたので、右将軍であった王羲之に韻を合わせるよう命じたが、為しえなかった。

 宋はいわゆる南朝の初めである。宋に次いで斉、さらに梁があとを襲い、ここで梁の武帝(502-549)が周興嗣(470-521)に命じて韻が合うよう文を整えさせた。つまり周興嗣は千字文の全体を作ったわけではなく、既存の混乱したテキストの韻を整えたに過ぎないというのである。その際、2字の不足があったので助辞で補ったともいう。

 ただ、だから周興嗣の功績が小さいとも言えない。既存の一千字が意味を為すよう韻を揃えるのは実は非常な難事であって、それならいっそゼロから起案するほうが楽なのではあるまいかとさえ思われる。周興嗣が一夜にして白髪になったとの逸話が、ここでやおら真実味を帯びてくるようだ。

 千字文の起源についてはさらに第三の説もあるらしく、今はこれ以上消化も紹介もしきれない。これほどの偉業の成立経緯がはっきりしないということ自体、歴史の面白いところである。さらに千字文がその後、中国周辺の広大な地域に住む人々に影響を与えたこと ~ その中にもちろん日本/日本人が含まれる ~ は言うまでもなく、そのプロセスを追っていくだけでひとつの学問領域が成立するだろう。実際、岩波文庫版に寄せる小川環樹氏の解説は60頁近くに及んでおり、読むのが正月の楽しみになりそうである。

 「天地玄黄 宇宙洪荒」から転記を始めたのが2014年1月27日だったから、思い出しては字句を辿っていくだけでまる二年かかった。韻なども確認しながらあらためて眺めてみよう。まもなく年が明ける。

Ω

 


孤陋寡聞 愚蒙等誚 ~ 千字文 124

2016-12-31 11:55:05 | 日記

2016年12月31日(土)

 欲をかいてもう一つ、クレペリン検査の終末効果そのものだ。

 孤陋寡聞 愚蒙等誚

 いずれもそのまま日本語に入っていて珍しく解説不要である。最後の「誚」だけなじみがなく、これは「責める、なじる」の意だそうだ。ただ、文意については諸説がある。大方の話では、

 「孤独で頑なな者、見聞のせまい者などに対しては、愚かで物を知らない者までが他の人々同様に非難を加える」

 のだと。誚られる者と誚る者がひとまとめに切って捨てられる感じで身も蓋もない。ただし一節には、周興嗣(470-521)が自らへりくだり、「私は孤陋・寡聞なので、愚昧の人々にさえなじられるだろう」との意味を込めたのだという。末尾直前でもあり、そう読めるように仕組んだということはあるかもしれない。

 周興嗣は南朝・梁の武帝(502-549)の命を受けて千字文を編んだ。一夜でこれを完成し、皇帝に進上したときは白髪になっていたとの伝説がある。王羲之の書を模写して集成し、完成当初から珍重されて着実に広まり、宋代以降中国全土に普及したという。

Ω


千字文 122&123 ~ 姿勢学のススメ

2016-12-31 11:29:26 | 日記

2016年12月31日(土)

 せめてこれを年内に片づければ、少しは達成感があるかなと俗な欲が出たりして、都合の良いことに122、123はあんまり深みがないのね。

 矩歩引領 俯仰廊廟 (くほ・いんれい ふぎょう・ろうびょう)

 「矩」は「矩(のり)を越えず」の「矩」、もともと「定規」の意だから、「矩歩」で「規則に合った歩き方をする」こと。小山ゆうの『俺は直角』とか思い出した、失礼しました。

 「引領」は首を伸ばして待つことで、ここでは姿勢を正しくすることだそうだ。そうそう「死生学」は「姿勢学」、つまり心と魂の姿勢を整えることだと、数日前に思いついたのだった。深み、あるじゃん。「俯仰」は「うつむくこと」と「あおむくこと」で、あわせて起居動作、「廊廟」の「廊」は宮殿の回廊、「廟」は祖先をまつる「みたまや」だから、ここは「廊廟」で朝廷のこと。

 「規則に従った歩き方をし、頭をあげて姿勢正しく待ち、宮中では宮廷にふさわしい態度で行動する」のだと。そうね、機会があったらね。

***

 束帶矜莊 徘徊瞻眺 (そくたい・きょうそう はいかい・せんちょう)

 「矜莊」は、つつしみ深く厳かな様。もっぱら「矜持」「荘重」という熟語で使っている字だが、そういうことだったのね。「徘徊」がもっぱら病理的な意味で使われるのは残念ではある。「譫」の字は「譫妄」で使う ~ 「せん妄」にしちゃうからかえって訳が分からない、「譫(うわごと)」や「妄(想)」が活発に出現する病態と考えればイメージできるでしょうと、面接授業の定番ネタ ~ が、「瞻」は「仰ぎ見る」ことだったのね、「眺」は「遠くを眺める」、「眺望」の「眺」か。

 「(引きつづき宮廷では)盛装して、つつしみ深くおごそかであるが、歩き回り、上を仰ぎ、四方を見回すこともある」と。そうでしょうとも。

 Ω


指薪修祜 永綏吉劭 ~ 千字文 121

2016-12-31 10:54:08 | 日記

2016年12月31日(土)

 「薪を指さす」は、老子が没する際に友人の秦失(佚)が言った言葉だそうな。

 「窮(つ)くることを薪を為(すす)むるに指さすも火は伝わるなり。其の尽くるを知らざるなり。」(『荘子』養生主篇)

 薪をくべ、(それが焼き尽くされる様子から)「尽きる」ことを示してみるが、火は後に残って伝わっていく。すなわち火は尽きることなく、生命は不滅である、ということらしい。つい今し方W君からメールが来て、別の友人とのやりとりでDNAが個体を乗り換えつつ続いていくことを伝えたとあった。ドーキンスの所説など思い出して落ち着かないが、それも越年にふさわしい感じがする。永続する「火」とは何のことか。

 「修祜(しゅうゆう)」の「修」は「脩」とも書き、「祜」は「祐」すなわち「祐」だから天の助け(天佑)を意味する。あわせて「禍福生死など、天の支配するものを自己のものとして修めること」とある。

 「永綏(えいさい)」の「綏」はやすんずること、「楽しいかな君子、福履之を綏んず」という詩経の句が引用され、そのような種類の「やすんず」が「綏」らしい。「吉劭」の「劭」は「美しく徳高い」の意。

 「指薪の故事を思い、神佑を自分のものとするならば、永く心安らかにおり、幸福で徳高くいられるであろう」

 だそうだ。

***

 生命を火に譬えるのは仏典でも見た記憶があるが、あちらは「火が消えた時、誰も火はどこへいったかとは問わない。そのように生命は燃えている間は存在し、消えた後は存在しない」という平易にして衝撃的な意味合いで用いられていたように思う。「燃やす素材は尽きたとしても、火は尽きることがない」というのは、同じ「火」に注目しながらほぼ正反対の強調点を見いだして、それこそある種の「綏」をもたらすようであるが、これが老荘から出ているのが面白く感じられる。とはいえ問題は、「私」という意識はどこまでも焼き尽くされる素材の側にくっついているところにあり、火が永遠に燃え続けたとしても「私」はそこにいないということが悔しいのである。

 「私」は永遠と関わりがない。その苦しさが誰にとっても課題なのだ。

 苦しさを紛らわしつつ年の暮れ (桃蛙)

 Ω

 


真田十勇士にその人あり

2016-12-30 19:08:40 | 日記

2016年12月30日(金)

 根津甚八が昨日亡くなった。健康を損なっているとは聞いていたが、まだ69歳で残念このうえもない。

 東大の同級生に大蔵省(現・財務省)へ進んだS君という演劇好きがあり、学生時代に彼がマメに誘ってくれたおかげで状況劇場の芝居はけっこう見た。1976-7年頃のことで、それだけに座長の唐十郎に李礼仙、根津甚八らが1978年の大河ドラマ『黄金の日々』に出たときは嬉しかった。これも早く亡くなった川谷拓三が杉谷善住坊役を好演するなど溌剌たる脇役陣が染五郎(当時)の助左をもりたて、マドンナに栗原小巻、竹下景子や夏目雅子の豪華な女優陣、信長役の髙橋幸治と秀吉役の緒形拳が『太閤記』以来10年ぶりに競演したのも話題を呼んだ。根津扮する石川五右衛門が釜ゆでにされる場面は凄絶だった。

 この年末、実は根津が話題にならないかなと思っていた。というのも御存じ『真田丸』がヒットしたからである。何の関係があるかって?根津甚八という名前は真田十勇士のそれだもの。三谷脚本では猿飛佐助しか登場しなかったが、霧隠才蔵に三好清海入道までは僕でも知ってる。続いて三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、望月六郎、そして根津甚八だ。新聞によれば本名は根津透(とおる)とあり、姓を生かして真田十勇士から芸名を取ったに違いない。時節に言寄せて、誰かがその由来をインタビューしたりしないかなと、ほのかに期待していたのだ。

 彼が自動車事故を起こしたのは、わが家から400mほどの場所である。それ以来ふっつりと存在を消した。けじめというものだろうが、仕事で償う再起の姿が見たかったとも思う。名優だった。

 

Ω