散日拾遺

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読書メモ 003 『利休と秀吉』&『秀吉と利休』

2013-07-31 16:49:29 | 日記
読書という作業には、自由連想の側面がある。
いろいろな面でそうだと思うが、さしあたり読みたい本の選択に関して。

なぜか『男子の本懐』を読みたく思い、これが記念すべき Kindle の一冊目となった。

読んだら面白かったので、城山三郎の小説を他にもと思い、
大河ドラマで印象の強かった『黄金の日々』へ。

これはやや失望に終わったが、そこで利休に関心が向いた。
で、往年の名作(と勝手に思い込んでいる)『秀吉と利休』(野上弥生子)を求めたが、新本では手に入らず書店にあった『利休と秀吉』(邦光史郎)を先に読んで。

そうこうするうちに、田舎の二畳間の粋な計らいで『秀吉と利休』にめぐりあった。
すいすいと読み流せるものではなく、けっこう日数がかかった。
好きな小説とはいえないが、読んでよかったと思う。

邦光本と野上本、二冊並べて思いついたことをいくつか書いておく。
並べること自体、ナンセンスかもしれないけれど。


【壱】

秀吉と利休が物語の軸 ~ というか、楕円の二つの焦点であることは当然として、二作とも二人をめぐる他の人間を描きこむことで、物語をふくらませている。

邦光が注目したのは、茶々こと淀君と、織田有楽斎。
いずれも秀吉との間に潜在的な敵対要素をもちつつうわべは親密な関係にあり、その意味で利休と共通する位置取りにある。その三者の人生を描き分けたといえなくもない。
大野治長については、淀君の恋人であり心の支えであったとするが、秀頼の真の父親については断定を避けている。

いっぽうの野上が実質的な主人公に据えたのは、利休の架空の(?)末子である紀三郎。この若者の、偉大な父親との対決が全編を通じてのテーマになっている。
父・利休が秀吉との蜜月関係を背景として権勢の頂点にある限り、紀三郎は父を容れることができなかった。しかし利休は秀吉の勘気を被り、謝罪を拒んで事実上みずから死を選ぶ。その首が無残に京の町に晒された時、若者は父を取り戻す。

そのくだりがカッコいいので転記する。

「この父を、もとのように腹だたしくも、疎ましくも紀三郎は思いはしなかった。いっそすべてが剝がれ、奪われ、蹴落とされ、生前には聞かされた覚えのない悪罵、汚辱にまみれていることで、父が嘗てなかったほどぴったり身近いものになった。彼はなにか物狂おしく群衆にむかって怒鳴ってやりたい気がした。父の名に結びつけられるのをあれほど厭うた彼が、こう大声で叫びたかった。おれが、あの首の息子だ。」

アイデンティティの拡散と回復・・・なんて、ペラい言い方はするもんじゃないね。
とはいうものの、だ。
ヨーロッパの近代小説の中で、父と息子の、というか父に対する息子の葛藤を描いていないものは、実に実に少ないんだよ。あるいは、このテーマから「離陸」するところで、ヨーロッパ文学が近代から現代に入るのではないかとも思う。

そういう意味で、野上『利休』はまともすぎるほどまともに「近代長編小説」のお作法を踏襲している。
利休は首になることで、息子に「言葉」を贈ったのだ。


【弐】

あらためて、堺という町の歴史に関心をそそられる。
(『堺 ― 海の都市文明 (PHP新書)』という本があるので、さっそく注文。送料共、303円也)

利休一代の人生は、実は堺がそのユニークさを失って歴史の背景に沈んでいくプロセスと同期している。単なる時間的同期ではなく、メカニズムにおける連関である。

信長台頭以前、堺は一個の独立した自治都市だった。
ヨーロッパのそれにも対比できることは、宣教師報告からも見て取れる。

初めに信長が現れた時、意気軒昂たる堺はこれに屈しようとはしなかった。
1568(永禄11)年秋のその様子は、『黄金の日々』冒頭に詳しい。
しかし堺の指導者たちは、信長が従来の武将とは違った何かをもっていることを的確に嗅ぎ取り、これと共存する道を選択する。今井宗久、津田(天王寺屋)宗及、千宗易(利休)の名が繰り返し現れるのは、このような路線の指導者としてだ。
特に利休は信長の、後には秀吉の茶頭として文化的な影響力を発揮するが、おそらくは彼個人の資質も手伝って政治的な影響力を増し、利休晩年には隠然たる影のフィクサーとなる。
その力を、堺の地位を保つ方向に活用しようとする意識は当然あったはずで、利休の死はそのような堺の活力の終わりでもあった。

秀吉という人物は、庶民的で気宇壮大な面が注目されがちだが、実は検地、刀狩、百姓の移動の禁止など、身分社会を固定するための基本政策を着々と実施して、徳川幕藩体制の地ならしをしている。豊臣政権が続いたならば、徳川とは違った近世になったかといえば、決してそんなはずはない。

堺も例外ではない。秀吉の時代に堀を埋められ、堺は軍事的には丸腰になった。さらに大坂築城に際して住民の大半が強制的に移住させられ、事実上骨抜きにされていた。利休の死は、そのような意味で既に不要であったかもしれないが、自治都市堺の終わりを告げる象徴的な意味はあっただろう。それを狙って利休を誅したというのは、いささか言い過ぎだろうけれど。

堺の地の利と商業的伝統は、その後もなおしばらくの繁栄を可能にしたが、鎖国により対外貿易への優越性を長崎に奪われるに及んで、堺の繁栄は経済的にも幕を閉じることになる。

・・・とまあ、これぐらい予習しておいて、注文した本の到着を待つことにしよう。


【参】

有名な「朝顔」の場面が、野上『利休』には出てこないのに驚いた。
調べてみると、この逸話は千宗旦の『茶話指月集』にあるのだという。
誰かがこれを鮮やかな現代文で描いていたと思ったが、野上ではなかったのだな・・・

千宗旦、1578(天正6)年~1658年(万治元)年。
父は利休の後妻千宗恩の連れ子千少庵、母は利休の娘お亀、まさに利休の直系の孫だ。
少庵・お亀夫妻が、それぞれの義父・実父にあたる利休にこまやかな孝養を尽くす様は、邦光『利休』の第3章「老古錐」あたりに詳しい。
彼らの息子である宗旦は、少庵の京千家を継いだ。宗旦流(三千家)の祖であり、千家中興の祖とも呼ばれる。

『茶話指月集』はさっそく読んでみよう。


【四】

またまた突飛かもしれないが、連想はどだい突飛なものだからね。

「秀吉と利休」から、「ヘンリー8世とトマス・モア」を連想したのだ。

トマス・モア(Thomas More、1478~1535)
イギリスの大法官、『ユートピア』で知られる思想家。
ヘンリー8世の離婚問題、さらには首長令(国王至上法)にカトリックの立場から反対し、反逆罪に問われて斬首された。

僕の印象にあるのは、実は映画『わが命つきるとも a Man for All Seasons』なんだな。
1966年のアメリカ映画で、トマス役の主演ポール・スコフィールドよりも、ヘンリー8世を演ずるロバート・ショー(Robert Shaw 1927-78)の見事な敵役が記憶に鮮やかだ。
『バルジ大作戦』『スティング』『ジョーズ』、いずれもロバート・ショーがいなかったら、さぞかし気の抜けたビールになったことだろう。



で、このロバート・ショー扮するヘンリー8世は、政治上の最高権力者ではあるけれども、自身の決定に対して法律家であり思想家であるトーマス・モアの支持を得たくて仕方がない。モアが折れてきてくれるのを心待ちにしており、それはほとんど恋文の返事を待つような姿で。

それが、利休の折れてくるのを待つ秀吉と、きれいに重なるんだよ、僕のイメージの中ではね。

もちろん秀吉は利休を、ヘンリーはトマスを、それぞれ大いに買っており、したがって深く恐れてもいる、その大きさ深さが強い反動を生んで、極刑という形をとったことも共通だ。
利休は茶道家、トマスは(このくくりでは法律家というよりも)宗教家という違いがあるように見えるが、利休の「茶」は芸ではなく道であって、超越的な価値に殉じて現世の権力を軽しとする点、実はトマスと軌を一にしている。

ついでのことに、時代も近い。
利休屠腹、1591(天正19)年、享年71歳
トマス斬首、1535年、57歳

***** 以下は抜き書き・備忘 *****

【邦光本】

P.13 人は、今、役に立つ小さな自分用の理屈をもっていればそれで十分だった。

P.27 顔色を読もうとする武将は多いが、この三人の茶堂は、顔色よりもこちらの心を読み、考えを察しようとしている。

P.29 「これまで大坂の城に入っておった池田を立ち退かせて、」
(天正11年、秀吉の言葉。池田輝政?)

P.92 まして権力者ほど移り気なものはなく、ありとあらゆる約束や誓いほど虚しいものはない。
 その点、天下人となる以前から、信長は一つの軌道をもっていた。あまりにも激しい好厭と癇癖をもつゆえに、その行動原理、心情の変化には一定の型があった。
 しかもこの線を超えると変化するという見きわめがついたから、我慢の限界さえ気をつけていれば、先が読めた。
 だが、秀吉は、なまじ忍従の半生を堪え抜いてきただけに、我慢の限界が読みにくく、しかもその場その場で絵を描いてきた変わり身の早さを特色とするので、行動の原理がつかみにくかった。
 おまけにさしたる理想も持ち合わせておらぬときているので、なおさら心が読み取れなかった。
 - この御仁にあるものは、すべて欲望に発して、欲望に返っていくようだ。

P.168 うなずきつつ、有楽は、急にあたりの空気が冷えを帯びはじめてきたように思った。それはあるいは心に冷えを覚えたためかもしれない。
(後文は本来、不要か。)

P.188 これというのも宣教師の説くゼウスの神の教えによるものだというので、
(ゼウスはデウスとあるべきか。)

P.196 楽しみを聚(あつ)めた第(邸)というので、聚楽第と名づけられたその邸館群、

P.198 あの気丈さで、ひたすら秀吉を憎み呪ってきたおちゃちゃが、尋常一様のことで、考えはともかく、気持ちを変えようとは思えない。

P.200 (利休は)近頃、何故か、余分な空白をもった場所になじめなかった。気力にみちている時は、空白をはね返せるが、今は空白に取り囲まれると自分が次第に無力になって行きそうに思えてならない。
ー 今は(四畳半よりも)一畳半の方が落ち着ける・・・・・

P.212 非力で、馬に乗ったり、弓を引いたり、太刀を振るって戦うことの苦手な主とその側近の臣は、言わず語らずのうちに、お互いの共通項を認め合い、かばい合ってきたのかもしれない。
 勇将の下に弱卒なしというが、秀吉は酒も苦手な方で、石田と二人で吊るし柿を齧っている方が、気持ちの上で無理がなかった。

P.220 豊臣政権の内政長官である三成は、いつも堺にいるわけにはいかないので、父の正継を代官として、堺に常駐させていた。

P.255 合戦は、所詮、生命のやりとりで、いつ死んでもよい覚悟さえ出来ていれば、それほど恐れることはなかったが、こんどの大茶会ばかりは、自分の発案どおり、満天下の茶人と茶好きの庶民が果たして集まってくれるかどうかがまず心配だった。

P.275 一方では天下の名物を残らず集めつつ、片方では侘び茶の極致をめざそうというこの二律背反こそ、秀吉と利休の希求するものが、はっきり背を向け合ったとみるべきではないかと、ふと気づいた。
ー たしかにのう・・・・・
 それが今日の中止につながったと、有楽はみたのである。

P.276 よく言えば天衣無縫、謗れば厚顔無恥の男のことなので、

P.282 もう夏の入り口にさしかかったとみえて、今日の街は釜底から炎に炙られてすこしずつ湯気が立ち昇りはじめたような湿った気配を漂わせている。

P.296 これはたまらぬ。
 こんな毒々しく禍々しいものに出会おうとは、まるで考えていなかったちゃちゃは、

P.340 端正でどっしりとした黒茶碗、そこに美の究極を見出した利休は、”赤は雑なる心”と秀吉の美に対する感覚を見下して、遠く離れた次元へ身を引いてしまった。

P.342 (朝顔の時とは違って)野菊のあしらいの淡々たるさまは、いかにも秀吉の作為を子ども扱いして無視したようで、主もなげな仕打ちと映った。

⇒ 邦光では、秀吉の決断はこうした利休の「見下し」の蓄積に対する報復と解される。
野上のように「きっかけ」を想定していない。

P.366 人生七十/力●希咄/吾這宝剣/祖仏共殺

P.405 鶴松の死によって、秀吉は未来を失い、母の死によって過去をも喪してしまった。

P.407 天下に並ぶ者なき権威者は、天にニ日なきごとく、二人あってはいけないのである。けれど利休は会釈して天下人に道を譲ろうとしなかった。


【野上本】

P.7 黒くけざやかに

P.9 でも、そのことには利休はもう触れようとせず、箱膳の蓋をあけた。一人分の食器のおさまる黒塗りの古びた器具は、若い時からのものである。家に帰っているあいだはいまだに用いており、それもふるなじみの大ぶりな飯椀と、象牙の箸を自らとりだすと、りきはこぶだしで味よくこさえた粥を土鍋からよそった。朝はこの粥に時の野菜の煮ものが一皿、それに漬物ときまっていた。

P.13 そのあとに師匠とした武野紹鷗からは、連歌師であった彼の歌道、茶道いったいの悟りとして、古い仕方を守りつつ、つねに新しい作為をするのが茶湯であるのを教えられた。また、紹鷗の先達で、一休の弟子で、彼からえた『仏法も茶湯の中にあり』の一語に生涯を貫いた珠光への傾倒は、しだいに紹鷗をのり超えさせた。
(悪文!)

P.20 唐伝来で、堺でもまだ大店だけのものなる曽呂盤(そろばん)がおいてあった。

P.30 秀吉が一種えたいの知れない気おくれに捉えられるのは、この瞬間である。自分の輝きが急にきえ、影のうすい、見すぼらしいものになった気がする。そこにただ黙って坐っているものから来る、抵抗しがたい威圧であった。

P.31 得がたいものほど無理にも得ようとする権威者の我意に裏づけられているので、

P.45 利休の主張する露地草庵の茶は、こんなおもいの秀吉には、理念よりむしろ情感的に、より多く訴えるものがなかったとはいえない。
(悪文!)

P.48 『百姓は永久、武士は当座』の見地による

P.70 ことに下賤な素性は、暗い部屋の壁のしみが明るい日光でいっそう目ざわりになるように、秀吉の一身に光輝が集まるにつれ、ますますひけ目を感じさせないではすまなかった。

P.109 店、店の長い暖簾も、夏のあいだのだらけた怠惰をとり戻し、しゃっきりと青い日光を反ねかえしている。
(悪文!)

P.132 腹の底の知れぬ男、関白様の威光をかさに着て生きている男、音物(いんもつ)次第の男、金ならいっそう悦ぶ男、これらを言葉通りほんとうにするには酷にすぎても、嘘とするにはほんとう過ぎた。ほんとうは父が果たしてどんな人間であるかは、かれこれ思いめぐらせばめぐらすほど紀三郎には正体が掴みにくいのであった。

P.163 運命次第では、三軍を指揮したはずの武将の血が、円頂黒衣のしたにも失せず流れている、それもしるしの一つかもしれない。
(大徳寺の古渓和尚は、もと朝倉氏の出自である。)

P.168~9 像は利休に眺められるより、むしろ像そのものの方が利休を凝視していた。
(中略)
「こうして見ると、私の方が影法師です」
賞賛も感動もそれ以上の表現はありえない。

P.189 隅田川、筑波山、武蔵野、日暮里と関東の名高い名所のながめに

?日暮里の何が? 荒川区のwebページに以下のようにあることはあるが・・・
 日暮里地域は、江戸時代中期以降、「一日過ごしても飽きない里」という意味で「ひぐらしの里」と呼ばれるようになりました。これに呼応して、明治十年、もともと「新堀」であったこの一帯が「日暮里」と正式に表記されるようになりました。

そういう話ならば、利休の時代に「日暮里」なる地名があったかどうかも不明だ。

もうこのあたりで十分か。

秀吉の勘気のきっかけとして、「唐御陣が、明智討ちのようにいけばでしょうが」という利休の不用意な一言(P.302)を想定したのは、なるほど作家の発明に違いない。

その一言に尾ひれが付き、石田らが尾ひれをつけ、尾ひれのついたものと承知しながら聞き捨てにできない秀吉、ただ一言のわびを入れようとしない利休、そのあたりの表現はうまいものだ。

丹念な考証と豊かな想像力に支えられた、具体的な描写が全体を通して素晴らしい。
しかしこの人、実はかなりの悪文家である。

以上、タイトルを起こしてから1か月半ぶりにようやく完了。

サン・テグジュペリ/バロン・ニシ

2013-07-31 09:32:27 | 日記
2013年7月31日(水)

サンテグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry、1900年6月29日 - 1944年7月31日)

1944年のこの日、連合軍側のパイロットとして偵察飛行に飛び立ったサン・テグジュペリは、そのまま消息を絶った。

1900年生まれの彼は既に44歳、猫の手も借りたい激戦のさなかであっても、現役軍務からは退くよう勧める声が強かったというが、本人がそれを肯んじなかった。
人柄をよく知るわけではないが、愛国心というよりは根っからのパイロット魂と、歴史に対する参加 engagement の意志によるものではなかったかと思う。

絶望が伝えられたとき、友軍のみならずドイツ軍側からも彼を悼むメッセージが発せられたという。

*****

井伏鱒二の『軍歌「戦友」』から引いておく。
連想というにはあまりに乱暴で relevant とも言えないが、思い出しちゃったことは書きましょうという自由連想ルールに従って。

 終戦後、億山君は会社へ勤めるようになってから、硫黄島玉砕の軍談を同僚から聞かされた。島に立て籠もる日本軍の将兵のなかに、西大佐が戦車連隊長として出征していることは、アメリカ軍の方には以前からわかっていた。日本軍の総司令官が栗林中将であることも、我慢づよい新発田連隊の兵がいることも、新潟の「三階節」が好きな兵が多いこともわかっていたそうだ。アメリカ側は25万人の大軍で包囲して、2月19日に6万の兵が上陸した。数日して銃撃戦がときどき途絶えるようになると、その合間にアメリカ兵が拡声器つきのメガホンで放送した。たどたどしい日本語であった。
「オリンピックの英雄、バロン西に告げる。あなたは、立派に軍人としての責任を果たした。今、ここであなたを失うことは、私たちアメリカ人としても耐えられない。バロン西、出てきなさい。あなたを殺したくない。」
 繰り返しアナウンスした。西大佐は出て行かなかった。(中略)西大佐は3月22日に戦死した。日本軍の死者、2万2千であった。

西竹一(にし たけいち、1902年(明治35年)7月12日 - 1945年(昭和20年)3月22日)
陸軍軍人(最終階級は大佐)、華族(男爵)。
1932年のロサンゼルス・オリンピックに、愛馬ウラヌスとともに出場し、馬術障害飛越競技において金メダルを獲得した。「バロン西」の声望がアメリカ人の間にも広まったことは事実であるが、「投降勧告」に関しては疑問の指摘もある。

西戦死一週間後の3月末、愛馬ウラヌスも陸軍獣医学校で生涯を終えた。



*****

サン・テグジュペリの画像を探していたら、「私が撃ち落とした」という元ドイツ軍パイロットの告白を報じた記事が見つかった。何新聞のいつの記事かはわからない。(2005年以降ではあるのだろう。)



え、小さくて読めない?
しょうがねーなあ、んじゃ、書いといてやるよ。

【パリ=飯竹恒一】
「星の王子さま」で知られるフランス人作家で、第2次世界大戦の偵察飛行中に消息を絶ったアントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(1900~44)について、ドイツ空軍の元パイロットが「私が撃ち落とした」と告白した。15日付仏紙プロバンスが伝えた。
告白したのはホルスト・リッペルトさん(88)。44年7月31日、任地の南仏で敵機がレーダーに映ったため出動。マルセイユ方面に向かう戦闘機を発見して追跡し、翼に向けて攻撃した。「命中した。機体はつぶれ、海にまっすぐに落ちた。パイロットは見えなかった」という。
 乗っていたのが、コルシカ島の連合軍基地から独占領下の仏本土に偵察飛行に出たサンテグジュペリだと知ったのは数日後。「彼だと知っていたら撃たなかった」。戦後、テレビ記者になったが、この件については口を閉ざしてきた。
航空郵便にも携わるパイロットだったサンテグジュペリは「夜間飛行」など航空にまつわる名作を残し、リッペルトさんも愛読者だった。「空の様子やパイロットの心情を見事に描いていた」
サンテグジュペリの最期をめぐっては、03年にマルセイユ沖で飛行機の残骸が引き揚げられ、翌04年に仏政府が搭乗機の一部と確認している。




父と息子 ~ ヨセフ補遺と『はだしのゲン』

2013-07-30 22:59:15 | 日記
2013年7月30日(火)

学習センターへ向かう電車の中で、ヨセフの葛藤の意味をあらためて思う。
これまで気づかなかったのが迂闊だった。

「律法の義から信仰の義へ」
パウロが定式化した福音の本質、キリスト教の精髄がここにある。
イエスの生涯も、ひとえにこのためにあった。

実はこの運動が、「正しい人」である父ヨセフの葛藤のうちに既に表れているのではないか。
ヨセフは、律法の義をすり抜けて、憐みを生かす道を探っていた。
これに対する神の啓示はいわば超法規的措置であり、システムそのものの変更を示唆している。
それはヨセフを安堵させただろうが、啓示に先立って彼が憐みの決断に至っていたことを、僕としては軽く見ることができない。

このあたりからは、例によって教会の公式見解を逸脱する。
イエスはまさしくヨセフの子であった。
父の憐みの決断を、子は正しく引き継いで大きく発展させた。
そのように読んでみたい。

旧新約聖書の全体を、父と息子の物語として読めないかという年来の幻。
またひとつ、好個の素材が加わった。

迂闊と言えばヨセフへの啓示が「夢」の中で行われたことにも、注意を払っていなかった。
日曜日に説教を聞きながら、数週間前に自分が教会学校で担当した旧約の箇所を思い出した。
創世記に登場するヤコブの子ヨセフは、夢解きの達人であった。
同名の子孫が、またしても夢に導かれている。

*****

ギリシア語は独習なので読みに自信がなく、それで昨夜のうちにN先生に厚かましくも質問メールを送らせていただいた。
学習センターから返ってみると、御多忙の中を早々にお返事あり。

Ιωσηφ δε ο ανηραυτης δικαιος ων και μη
θελων αυτην δειγματισαι

「左近義慈 平野保監修のギリシャ語新約聖書ではδικαιος ων を『正しいひとであった』と訳し、その後のκαιを『が』と訳しています。」

これだ!

「岩波書店の新約聖書では『夫ヨセフは正しい人『で』、また彼女をさらし者にしたくなかったので』と訳しています。この『で』を逆接と取るか順接と取るかは微妙です。」

おっしゃる通りだ。
そして微妙であってよいのだ。
いつもながらありがとうございます。これで安心しました。

いただいたメールはN先生の近況をも伝え、そして末尾はこう結ばれている。
「ところで先日、明治神宮の菖蒲園で狸に会いました。」
読み返すうちに、大いに楽しくなった。

牧師さんが 明治神宮の菖蒲園で 狸に出会う

これ既に一幅の俳画
そして日本以外のどこの世界で、こんな風景にお目にかかれるだろう!

*****

夕食後、別のものを見ようとしてテレビを点けた。
「クローズアップ現代」で『はだしのゲン』を取り上げている。
そのまま画面に釘づけになった。

アメリカ、ロシア、イランなど、既に20か国で翻訳されているという。
その大半が過去10年のことで、翻訳はボランティアの貢献が大であるとも。

僕は中沢啓治の訃報に気づかなかったぐらいだから、愛読者然として語る資格はないが、
しかし『ゲン』からは、確かにあるものを受け取っている。

爆風によって倒壊した家屋の下敷きになり、ゲンの父・弟・妹が生きながら焼かれていくあの場面。
いよいよ火が回り、父や弟妹を助けるどころか焼けた地面に立っていることもできず、おろおろ泣くばかりのゲンに、瀕死の父が声をかける。

お母さんと赤ん坊を頼む、と

その瞬間、ゲンの背骨が伸びる。
彼は駆け出していき、駆け続ける。
「生きて生きて生きぬいちゃる!」と叫びながら。

息子を生かすのは、父の言葉なのだ。
あるいは、息子を生かす言葉こそが真の父なのだ。
聖書は、そのことに関わっている。

忘れ物 ~ ボードワン博士と上野公園

2013-07-30 22:17:53 | 日記
記録しておこうと思って、すっかり忘れていた。

7月6日(土)に「漱石の美術世界展」を見に行った。
S君の強い勧めがあってのことだが、漱石となれば見逃すわけにはいかない。

でも、記録しておきたいのはそのことではなくて、上野公園の中央の広場から西側の木立に入ったあたりにある、ひとつの胸像のことだ。

軍服姿の胸像の名が、「ボードワン博士 Dr. A.F.Bauduin」とある。
碑の文面をそのまま転記しておく。

オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。
かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。
上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。

名前の綴りや発音はフランス系を思わせるが、まぎれもなくオランダの軍医であったらしい。
幕末から明治初期まで激動の10年近くを日本で過ごし、オランダ医学の影響力がドイツ医学のそれにとって代わられる時期に日本を去っている。その人物にもむろん興味を引かれる。

同時に留意したいのは、彼がひとつの公園の建設に貢献しただけでなく、公園という思想を日本人に紹介する大役を果たしたことだ。
僕には山のことはよく分からないが、ウエストンが上高地を開いたという時、同じようなことが意識されているのではないか。

マレーシアに旅行した時、クアラルンプール近くの(あるいはペナン島の?記憶が定かでない)山の頂き付近にある快適な避暑地が、植民地時代のヨーロッパ人によって開かれたことを聞いた。
あたりには古来マレー人の王も豪族もいたわけで、そうした場所を開く力や富がなかったわけではない。避暑地という発想がなかったのである。

日常を離れて安息の時をもつことが贅沢ではなく必要に属するという発想、そのための場所を都市空間の中に制度的に設けようという思想、これらはすぐれてヨーロッパ的なものであり、僕らが学んでよいことのように思われる。

そしてここにも一人、近代日本の建て上げに貢献した「御雇い外国人」がいた。




漱石展自体は、S君の推奨だけあってとても良かった。
ただ、この美術館の小うるささには毎度辟易する。

ふと思いつくところがあって、手帳を取り出してメモしていたら、係員が目ざとく見つけて寄ってきた。
「それはボールペンですか?」
「そうですが」
「館内ではボールペンの使用をお控えいただいているので、どうぞこの鉛筆をお使いください」
ゴルファーなどが使う小さな鉛筆もどきを、御丁寧に貸与してくれた。

分からないんだな、これが。
展示品に傷をつけようと思えば、鉛筆だって十分な凶器になる。
それにボールペンの持ち込みを禁止するならともかく、使用をチェックするのはナンセンスというもので。

まあいいや、いろんな考え方があるもんだよ。

神々の聖地/僕らの世界

2013-07-30 06:55:06 | 日記
2013年7月30日(火)

ラジオ体操は夏季巡回中で、今朝は鳥取県八頭町から。

「八頭(やず)」の名称はヤマタノオロチを連想させるが、怪物の化身とされる斐伊川は島根県出雲市~斐川町あたりを流れていて、八頭はそこから140kmほども東にあたる。

講師が八頭町を紹介するのに、「縁結びで知られる因幡の白ウサギの舞台」云々と言ったが、例のウサギの話と「縁結び」は関係あるかしらん?出雲大社は、それこそ140km西方だ。

細かいことに目をつぶれば、出雲・因幡は一体として神話の舞台を為すともいえる。
天孫族に覇権を譲った、国つ神々の聖地である。
先日T君がこの地を奥さんと旅行し、大いに感銘を受けて帰ってきた。

小学校3年から6年にかけて松江で過ごしたので、僕にとっても想い出深い土地。
ただ、単純に懐かしいとばかりも言えない。

感謝ということは、好意とか好感とは次元の違うものらしい。
感謝できるかどうかが、天国と地獄の分岐点であることを痛感する。
おおげさなようだけれど、本当に。

*****

今日は何の日?

1978年のこの日、沖縄で車両の左側通行が始まった。
友人に誘われ、三人連れで沖縄を旅行したのはその前年。確かに車は道路の右側を走っていた。
一夜で切り替えるのは大変だっただろう。

僕にとって、沖縄にまつわる最初の生活記憶は高校野球だ。

1968年、夏の甲子園が第50回の節目を記念して一県一代表で開催された。
(当時は代表枠がずっと少なく、たとえば北四国と南四国からそれぞれ一校という具合だった。)
あわせて、まだ米施政下にあった沖縄からも特に代表が招かれた。
出場したのは興南高校、優勝した興国高校(大阪)に準決勝で大敗したものの、ベスト4まで勝ち上がる活躍で声援を集めた。
ニライ・カナイの神々も、児らの姿を嘉したもうたことだろう。

東北勢が8強に2校残る健闘ぶりや、決勝で0-1と惜敗した静岡商業の一年生エース新浦など、話題の多い大会だった。
その翌年、松山商業と三沢高校が球史に残る死闘を演じる。

沖縄の復帰は1972年、僕らが高校へ進学した年だった。

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放送大学は、ただいま単位認定試験(いわゆる期末試験)の真っ最中。
今日は僕も、東京足立学習センターで監督をお手伝い。

同センターでは、本部教員には障害のある学生の別室受験監督を割り当てる。
毎学期この作業が楽しみでもあり、せつなくもある。

お察しあれ