読書という作業には、自由連想の側面がある。
いろいろな面でそうだと思うが、さしあたり読みたい本の選択に関して。
なぜか『男子の本懐』を読みたく思い、これが記念すべき Kindle の一冊目となった。
読んだら面白かったので、城山三郎の小説を他にもと思い、
大河ドラマで印象の強かった『黄金の日々』へ。
これはやや失望に終わったが、そこで利休に関心が向いた。
で、往年の名作(と勝手に思い込んでいる)『秀吉と利休』(野上弥生子)を求めたが、新本では手に入らず書店にあった『利休と秀吉』(邦光史郎)を先に読んで。
そうこうするうちに、田舎の二畳間の粋な計らいで『秀吉と利休』にめぐりあった。
すいすいと読み流せるものではなく、けっこう日数がかかった。
好きな小説とはいえないが、読んでよかったと思う。
邦光本と野上本、二冊並べて思いついたことをいくつか書いておく。
並べること自体、ナンセンスかもしれないけれど。
【壱】
秀吉と利休が物語の軸 ~ というか、楕円の二つの焦点であることは当然として、二作とも二人をめぐる他の人間を描きこむことで、物語をふくらませている。
邦光が注目したのは、茶々こと淀君と、織田有楽斎。
いずれも秀吉との間に潜在的な敵対要素をもちつつうわべは親密な関係にあり、その意味で利休と共通する位置取りにある。その三者の人生を描き分けたといえなくもない。
大野治長については、淀君の恋人であり心の支えであったとするが、秀頼の真の父親については断定を避けている。
いっぽうの野上が実質的な主人公に据えたのは、利休の架空の(?)末子である紀三郎。この若者の、偉大な父親との対決が全編を通じてのテーマになっている。
父・利休が秀吉との蜜月関係を背景として権勢の頂点にある限り、紀三郎は父を容れることができなかった。しかし利休は秀吉の勘気を被り、謝罪を拒んで事実上みずから死を選ぶ。その首が無残に京の町に晒された時、若者は父を取り戻す。
そのくだりがカッコいいので転記する。
「この父を、もとのように腹だたしくも、疎ましくも紀三郎は思いはしなかった。いっそすべてが剝がれ、奪われ、蹴落とされ、生前には聞かされた覚えのない悪罵、汚辱にまみれていることで、父が嘗てなかったほどぴったり身近いものになった。彼はなにか物狂おしく群衆にむかって怒鳴ってやりたい気がした。父の名に結びつけられるのをあれほど厭うた彼が、こう大声で叫びたかった。おれが、あの首の息子だ。」
アイデンティティの拡散と回復・・・なんて、ペラい言い方はするもんじゃないね。
とはいうものの、だ。
ヨーロッパの近代小説の中で、父と息子の、というか父に対する息子の葛藤を描いていないものは、実に実に少ないんだよ。あるいは、このテーマから「離陸」するところで、ヨーロッパ文学が近代から現代に入るのではないかとも思う。
そういう意味で、野上『利休』はまともすぎるほどまともに「近代長編小説」のお作法を踏襲している。
利休は首になることで、息子に「言葉」を贈ったのだ。
【弐】
あらためて、堺という町の歴史に関心をそそられる。
(『堺 ― 海の都市文明 (PHP新書)』という本があるので、さっそく注文。送料共、303円也)
利休一代の人生は、実は堺がそのユニークさを失って歴史の背景に沈んでいくプロセスと同期している。単なる時間的同期ではなく、メカニズムにおける連関である。
信長台頭以前、堺は一個の独立した自治都市だった。
ヨーロッパのそれにも対比できることは、宣教師報告からも見て取れる。
初めに信長が現れた時、意気軒昂たる堺はこれに屈しようとはしなかった。
1568(永禄11)年秋のその様子は、『黄金の日々』冒頭に詳しい。
しかし堺の指導者たちは、信長が従来の武将とは違った何かをもっていることを的確に嗅ぎ取り、これと共存する道を選択する。今井宗久、津田(天王寺屋)宗及、千宗易(利休)の名が繰り返し現れるのは、このような路線の指導者としてだ。
特に利休は信長の、後には秀吉の茶頭として文化的な影響力を発揮するが、おそらくは彼個人の資質も手伝って政治的な影響力を増し、利休晩年には隠然たる影のフィクサーとなる。
その力を、堺の地位を保つ方向に活用しようとする意識は当然あったはずで、利休の死はそのような堺の活力の終わりでもあった。
秀吉という人物は、庶民的で気宇壮大な面が注目されがちだが、実は検地、刀狩、百姓の移動の禁止など、身分社会を固定するための基本政策を着々と実施して、徳川幕藩体制の地ならしをしている。豊臣政権が続いたならば、徳川とは違った近世になったかといえば、決してそんなはずはない。
堺も例外ではない。秀吉の時代に堀を埋められ、堺は軍事的には丸腰になった。さらに大坂築城に際して住民の大半が強制的に移住させられ、事実上骨抜きにされていた。利休の死は、そのような意味で既に不要であったかもしれないが、自治都市堺の終わりを告げる象徴的な意味はあっただろう。それを狙って利休を誅したというのは、いささか言い過ぎだろうけれど。
堺の地の利と商業的伝統は、その後もなおしばらくの繁栄を可能にしたが、鎖国により対外貿易への優越性を長崎に奪われるに及んで、堺の繁栄は経済的にも幕を閉じることになる。
・・・とまあ、これぐらい予習しておいて、注文した本の到着を待つことにしよう。
【参】
有名な「朝顔」の場面が、野上『利休』には出てこないのに驚いた。
調べてみると、この逸話は千宗旦の『茶話指月集』にあるのだという。
誰かがこれを鮮やかな現代文で描いていたと思ったが、野上ではなかったのだな・・・
千宗旦、1578(天正6)年~1658年(万治元)年。
父は利休の後妻千宗恩の連れ子千少庵、母は利休の娘お亀、まさに利休の直系の孫だ。
少庵・お亀夫妻が、それぞれの義父・実父にあたる利休にこまやかな孝養を尽くす様は、邦光『利休』の第3章「老古錐」あたりに詳しい。
彼らの息子である宗旦は、少庵の京千家を継いだ。宗旦流(三千家)の祖であり、千家中興の祖とも呼ばれる。
『茶話指月集』はさっそく読んでみよう。
【四】
またまた突飛かもしれないが、連想はどだい突飛なものだからね。
「秀吉と利休」から、「ヘンリー8世とトマス・モア」を連想したのだ。
トマス・モア(Thomas More、1478~1535)
イギリスの大法官、『ユートピア』で知られる思想家。
ヘンリー8世の離婚問題、さらには首長令(国王至上法)にカトリックの立場から反対し、反逆罪に問われて斬首された。
僕の印象にあるのは、実は映画『わが命つきるとも a Man for All Seasons』なんだな。
1966年のアメリカ映画で、トマス役の主演ポール・スコフィールドよりも、ヘンリー8世を演ずるロバート・ショー(Robert Shaw 1927-78)の見事な敵役が記憶に鮮やかだ。
『バルジ大作戦』『スティング』『ジョーズ』、いずれもロバート・ショーがいなかったら、さぞかし気の抜けたビールになったことだろう。
で、このロバート・ショー扮するヘンリー8世は、政治上の最高権力者ではあるけれども、自身の決定に対して法律家であり思想家であるトーマス・モアの支持を得たくて仕方がない。モアが折れてきてくれるのを心待ちにしており、それはほとんど恋文の返事を待つような姿で。
それが、利休の折れてくるのを待つ秀吉と、きれいに重なるんだよ、僕のイメージの中ではね。
もちろん秀吉は利休を、ヘンリーはトマスを、それぞれ大いに買っており、したがって深く恐れてもいる、その大きさ深さが強い反動を生んで、極刑という形をとったことも共通だ。
利休は茶道家、トマスは(このくくりでは法律家というよりも)宗教家という違いがあるように見えるが、利休の「茶」は芸ではなく道であって、超越的な価値に殉じて現世の権力を軽しとする点、実はトマスと軌を一にしている。
ついでのことに、時代も近い。
利休屠腹、1591(天正19)年、享年71歳
トマス斬首、1535年、57歳
***** 以下は抜き書き・備忘 *****
【邦光本】
P.13 人は、今、役に立つ小さな自分用の理屈をもっていればそれで十分だった。
P.27 顔色を読もうとする武将は多いが、この三人の茶堂は、顔色よりもこちらの心を読み、考えを察しようとしている。
P.29 「これまで大坂の城に入っておった池田を立ち退かせて、」
(天正11年、秀吉の言葉。池田輝政?)
P.92 まして権力者ほど移り気なものはなく、ありとあらゆる約束や誓いほど虚しいものはない。
その点、天下人となる以前から、信長は一つの軌道をもっていた。あまりにも激しい好厭と癇癖をもつゆえに、その行動原理、心情の変化には一定の型があった。
しかもこの線を超えると変化するという見きわめがついたから、我慢の限界さえ気をつけていれば、先が読めた。
だが、秀吉は、なまじ忍従の半生を堪え抜いてきただけに、我慢の限界が読みにくく、しかもその場その場で絵を描いてきた変わり身の早さを特色とするので、行動の原理がつかみにくかった。
おまけにさしたる理想も持ち合わせておらぬときているので、なおさら心が読み取れなかった。
- この御仁にあるものは、すべて欲望に発して、欲望に返っていくようだ。
P.168 うなずきつつ、有楽は、急にあたりの空気が冷えを帯びはじめてきたように思った。それはあるいは心に冷えを覚えたためかもしれない。
(後文は本来、不要か。)
P.188 これというのも宣教師の説くゼウスの神の教えによるものだというので、
(ゼウスはデウスとあるべきか。)
P.196 楽しみを聚(あつ)めた第(邸)というので、聚楽第と名づけられたその邸館群、
P.198 あの気丈さで、ひたすら秀吉を憎み呪ってきたおちゃちゃが、尋常一様のことで、考えはともかく、気持ちを変えようとは思えない。
P.200 (利休は)近頃、何故か、余分な空白をもった場所になじめなかった。気力にみちている時は、空白をはね返せるが、今は空白に取り囲まれると自分が次第に無力になって行きそうに思えてならない。
ー 今は(四畳半よりも)一畳半の方が落ち着ける・・・・・
P.212 非力で、馬に乗ったり、弓を引いたり、太刀を振るって戦うことの苦手な主とその側近の臣は、言わず語らずのうちに、お互いの共通項を認め合い、かばい合ってきたのかもしれない。
勇将の下に弱卒なしというが、秀吉は酒も苦手な方で、石田と二人で吊るし柿を齧っている方が、気持ちの上で無理がなかった。
P.220 豊臣政権の内政長官である三成は、いつも堺にいるわけにはいかないので、父の正継を代官として、堺に常駐させていた。
P.255 合戦は、所詮、生命のやりとりで、いつ死んでもよい覚悟さえ出来ていれば、それほど恐れることはなかったが、こんどの大茶会ばかりは、自分の発案どおり、満天下の茶人と茶好きの庶民が果たして集まってくれるかどうかがまず心配だった。
P.275 一方では天下の名物を残らず集めつつ、片方では侘び茶の極致をめざそうというこの二律背反こそ、秀吉と利休の希求するものが、はっきり背を向け合ったとみるべきではないかと、ふと気づいた。
ー たしかにのう・・・・・
それが今日の中止につながったと、有楽はみたのである。
P.276 よく言えば天衣無縫、謗れば厚顔無恥の男のことなので、
P.282 もう夏の入り口にさしかかったとみえて、今日の街は釜底から炎に炙られてすこしずつ湯気が立ち昇りはじめたような湿った気配を漂わせている。
P.296 これはたまらぬ。
こんな毒々しく禍々しいものに出会おうとは、まるで考えていなかったちゃちゃは、
P.340 端正でどっしりとした黒茶碗、そこに美の究極を見出した利休は、”赤は雑なる心”と秀吉の美に対する感覚を見下して、遠く離れた次元へ身を引いてしまった。
P.342 (朝顔の時とは違って)野菊のあしらいの淡々たるさまは、いかにも秀吉の作為を子ども扱いして無視したようで、主もなげな仕打ちと映った。
⇒ 邦光では、秀吉の決断はこうした利休の「見下し」の蓄積に対する報復と解される。
野上のように「きっかけ」を想定していない。
P.366 人生七十/力●希咄/吾這宝剣/祖仏共殺
P.405 鶴松の死によって、秀吉は未来を失い、母の死によって過去をも喪してしまった。
P.407 天下に並ぶ者なき権威者は、天にニ日なきごとく、二人あってはいけないのである。けれど利休は会釈して天下人に道を譲ろうとしなかった。
【野上本】
P.7 黒くけざやかに
P.9 でも、そのことには利休はもう触れようとせず、箱膳の蓋をあけた。一人分の食器のおさまる黒塗りの古びた器具は、若い時からのものである。家に帰っているあいだはいまだに用いており、それもふるなじみの大ぶりな飯椀と、象牙の箸を自らとりだすと、りきはこぶだしで味よくこさえた粥を土鍋からよそった。朝はこの粥に時の野菜の煮ものが一皿、それに漬物ときまっていた。
P.13 そのあとに師匠とした武野紹鷗からは、連歌師であった彼の歌道、茶道いったいの悟りとして、古い仕方を守りつつ、つねに新しい作為をするのが茶湯であるのを教えられた。また、紹鷗の先達で、一休の弟子で、彼からえた『仏法も茶湯の中にあり』の一語に生涯を貫いた珠光への傾倒は、しだいに紹鷗をのり超えさせた。
(悪文!)
P.20 唐伝来で、堺でもまだ大店だけのものなる曽呂盤(そろばん)がおいてあった。
P.30 秀吉が一種えたいの知れない気おくれに捉えられるのは、この瞬間である。自分の輝きが急にきえ、影のうすい、見すぼらしいものになった気がする。そこにただ黙って坐っているものから来る、抵抗しがたい威圧であった。
P.31 得がたいものほど無理にも得ようとする権威者の我意に裏づけられているので、
P.45 利休の主張する露地草庵の茶は、こんなおもいの秀吉には、理念よりむしろ情感的に、より多く訴えるものがなかったとはいえない。
(悪文!)
P.48 『百姓は永久、武士は当座』の見地による
P.70 ことに下賤な素性は、暗い部屋の壁のしみが明るい日光でいっそう目ざわりになるように、秀吉の一身に光輝が集まるにつれ、ますますひけ目を感じさせないではすまなかった。
P.109 店、店の長い暖簾も、夏のあいだのだらけた怠惰をとり戻し、しゃっきりと青い日光を反ねかえしている。
(悪文!)
P.132 腹の底の知れぬ男、関白様の威光をかさに着て生きている男、音物(いんもつ)次第の男、金ならいっそう悦ぶ男、これらを言葉通りほんとうにするには酷にすぎても、嘘とするにはほんとう過ぎた。ほんとうは父が果たしてどんな人間であるかは、かれこれ思いめぐらせばめぐらすほど紀三郎には正体が掴みにくいのであった。
P.163 運命次第では、三軍を指揮したはずの武将の血が、円頂黒衣のしたにも失せず流れている、それもしるしの一つかもしれない。
(大徳寺の古渓和尚は、もと朝倉氏の出自である。)
P.168~9 像は利休に眺められるより、むしろ像そのものの方が利休を凝視していた。
(中略)
「こうして見ると、私の方が影法師です」
賞賛も感動もそれ以上の表現はありえない。
P.189 隅田川、筑波山、武蔵野、日暮里と関東の名高い名所のながめに
?日暮里の何が? 荒川区のwebページに以下のようにあることはあるが・・・
日暮里地域は、江戸時代中期以降、「一日過ごしても飽きない里」という意味で「ひぐらしの里」と呼ばれるようになりました。これに呼応して、明治十年、もともと「新堀」であったこの一帯が「日暮里」と正式に表記されるようになりました。
そういう話ならば、利休の時代に「日暮里」なる地名があったかどうかも不明だ。
もうこのあたりで十分か。
秀吉の勘気のきっかけとして、「唐御陣が、明智討ちのようにいけばでしょうが」という利休の不用意な一言(P.302)を想定したのは、なるほど作家の発明に違いない。
その一言に尾ひれが付き、石田らが尾ひれをつけ、尾ひれのついたものと承知しながら聞き捨てにできない秀吉、ただ一言のわびを入れようとしない利休、そのあたりの表現はうまいものだ。
丹念な考証と豊かな想像力に支えられた、具体的な描写が全体を通して素晴らしい。
しかしこの人、実はかなりの悪文家である。
以上、タイトルを起こしてから1か月半ぶりにようやく完了。
いろいろな面でそうだと思うが、さしあたり読みたい本の選択に関して。
なぜか『男子の本懐』を読みたく思い、これが記念すべき Kindle の一冊目となった。
読んだら面白かったので、城山三郎の小説を他にもと思い、
大河ドラマで印象の強かった『黄金の日々』へ。
これはやや失望に終わったが、そこで利休に関心が向いた。
で、往年の名作(と勝手に思い込んでいる)『秀吉と利休』(野上弥生子)を求めたが、新本では手に入らず書店にあった『利休と秀吉』(邦光史郎)を先に読んで。
そうこうするうちに、田舎の二畳間の粋な計らいで『秀吉と利休』にめぐりあった。
すいすいと読み流せるものではなく、けっこう日数がかかった。
好きな小説とはいえないが、読んでよかったと思う。
邦光本と野上本、二冊並べて思いついたことをいくつか書いておく。
並べること自体、ナンセンスかもしれないけれど。
【壱】
秀吉と利休が物語の軸 ~ というか、楕円の二つの焦点であることは当然として、二作とも二人をめぐる他の人間を描きこむことで、物語をふくらませている。
邦光が注目したのは、茶々こと淀君と、織田有楽斎。
いずれも秀吉との間に潜在的な敵対要素をもちつつうわべは親密な関係にあり、その意味で利休と共通する位置取りにある。その三者の人生を描き分けたといえなくもない。
大野治長については、淀君の恋人であり心の支えであったとするが、秀頼の真の父親については断定を避けている。
いっぽうの野上が実質的な主人公に据えたのは、利休の架空の(?)末子である紀三郎。この若者の、偉大な父親との対決が全編を通じてのテーマになっている。
父・利休が秀吉との蜜月関係を背景として権勢の頂点にある限り、紀三郎は父を容れることができなかった。しかし利休は秀吉の勘気を被り、謝罪を拒んで事実上みずから死を選ぶ。その首が無残に京の町に晒された時、若者は父を取り戻す。
そのくだりがカッコいいので転記する。
「この父を、もとのように腹だたしくも、疎ましくも紀三郎は思いはしなかった。いっそすべてが剝がれ、奪われ、蹴落とされ、生前には聞かされた覚えのない悪罵、汚辱にまみれていることで、父が嘗てなかったほどぴったり身近いものになった。彼はなにか物狂おしく群衆にむかって怒鳴ってやりたい気がした。父の名に結びつけられるのをあれほど厭うた彼が、こう大声で叫びたかった。おれが、あの首の息子だ。」
アイデンティティの拡散と回復・・・なんて、ペラい言い方はするもんじゃないね。
とはいうものの、だ。
ヨーロッパの近代小説の中で、父と息子の、というか父に対する息子の葛藤を描いていないものは、実に実に少ないんだよ。あるいは、このテーマから「離陸」するところで、ヨーロッパ文学が近代から現代に入るのではないかとも思う。
そういう意味で、野上『利休』はまともすぎるほどまともに「近代長編小説」のお作法を踏襲している。
利休は首になることで、息子に「言葉」を贈ったのだ。
【弐】
あらためて、堺という町の歴史に関心をそそられる。
(『堺 ― 海の都市文明 (PHP新書)』という本があるので、さっそく注文。送料共、303円也)
利休一代の人生は、実は堺がそのユニークさを失って歴史の背景に沈んでいくプロセスと同期している。単なる時間的同期ではなく、メカニズムにおける連関である。
信長台頭以前、堺は一個の独立した自治都市だった。
ヨーロッパのそれにも対比できることは、宣教師報告からも見て取れる。
初めに信長が現れた時、意気軒昂たる堺はこれに屈しようとはしなかった。
1568(永禄11)年秋のその様子は、『黄金の日々』冒頭に詳しい。
しかし堺の指導者たちは、信長が従来の武将とは違った何かをもっていることを的確に嗅ぎ取り、これと共存する道を選択する。今井宗久、津田(天王寺屋)宗及、千宗易(利休)の名が繰り返し現れるのは、このような路線の指導者としてだ。
特に利休は信長の、後には秀吉の茶頭として文化的な影響力を発揮するが、おそらくは彼個人の資質も手伝って政治的な影響力を増し、利休晩年には隠然たる影のフィクサーとなる。
その力を、堺の地位を保つ方向に活用しようとする意識は当然あったはずで、利休の死はそのような堺の活力の終わりでもあった。
秀吉という人物は、庶民的で気宇壮大な面が注目されがちだが、実は検地、刀狩、百姓の移動の禁止など、身分社会を固定するための基本政策を着々と実施して、徳川幕藩体制の地ならしをしている。豊臣政権が続いたならば、徳川とは違った近世になったかといえば、決してそんなはずはない。
堺も例外ではない。秀吉の時代に堀を埋められ、堺は軍事的には丸腰になった。さらに大坂築城に際して住民の大半が強制的に移住させられ、事実上骨抜きにされていた。利休の死は、そのような意味で既に不要であったかもしれないが、自治都市堺の終わりを告げる象徴的な意味はあっただろう。それを狙って利休を誅したというのは、いささか言い過ぎだろうけれど。
堺の地の利と商業的伝統は、その後もなおしばらくの繁栄を可能にしたが、鎖国により対外貿易への優越性を長崎に奪われるに及んで、堺の繁栄は経済的にも幕を閉じることになる。
・・・とまあ、これぐらい予習しておいて、注文した本の到着を待つことにしよう。
【参】
有名な「朝顔」の場面が、野上『利休』には出てこないのに驚いた。
調べてみると、この逸話は千宗旦の『茶話指月集』にあるのだという。
誰かがこれを鮮やかな現代文で描いていたと思ったが、野上ではなかったのだな・・・
千宗旦、1578(天正6)年~1658年(万治元)年。
父は利休の後妻千宗恩の連れ子千少庵、母は利休の娘お亀、まさに利休の直系の孫だ。
少庵・お亀夫妻が、それぞれの義父・実父にあたる利休にこまやかな孝養を尽くす様は、邦光『利休』の第3章「老古錐」あたりに詳しい。
彼らの息子である宗旦は、少庵の京千家を継いだ。宗旦流(三千家)の祖であり、千家中興の祖とも呼ばれる。
『茶話指月集』はさっそく読んでみよう。
【四】
またまた突飛かもしれないが、連想はどだい突飛なものだからね。
「秀吉と利休」から、「ヘンリー8世とトマス・モア」を連想したのだ。
トマス・モア(Thomas More、1478~1535)
イギリスの大法官、『ユートピア』で知られる思想家。
ヘンリー8世の離婚問題、さらには首長令(国王至上法)にカトリックの立場から反対し、反逆罪に問われて斬首された。
僕の印象にあるのは、実は映画『わが命つきるとも a Man for All Seasons』なんだな。
1966年のアメリカ映画で、トマス役の主演ポール・スコフィールドよりも、ヘンリー8世を演ずるロバート・ショー(Robert Shaw 1927-78)の見事な敵役が記憶に鮮やかだ。
『バルジ大作戦』『スティング』『ジョーズ』、いずれもロバート・ショーがいなかったら、さぞかし気の抜けたビールになったことだろう。
で、このロバート・ショー扮するヘンリー8世は、政治上の最高権力者ではあるけれども、自身の決定に対して法律家であり思想家であるトーマス・モアの支持を得たくて仕方がない。モアが折れてきてくれるのを心待ちにしており、それはほとんど恋文の返事を待つような姿で。
それが、利休の折れてくるのを待つ秀吉と、きれいに重なるんだよ、僕のイメージの中ではね。
もちろん秀吉は利休を、ヘンリーはトマスを、それぞれ大いに買っており、したがって深く恐れてもいる、その大きさ深さが強い反動を生んで、極刑という形をとったことも共通だ。
利休は茶道家、トマスは(このくくりでは法律家というよりも)宗教家という違いがあるように見えるが、利休の「茶」は芸ではなく道であって、超越的な価値に殉じて現世の権力を軽しとする点、実はトマスと軌を一にしている。
ついでのことに、時代も近い。
利休屠腹、1591(天正19)年、享年71歳
トマス斬首、1535年、57歳
***** 以下は抜き書き・備忘 *****
【邦光本】
P.13 人は、今、役に立つ小さな自分用の理屈をもっていればそれで十分だった。
P.27 顔色を読もうとする武将は多いが、この三人の茶堂は、顔色よりもこちらの心を読み、考えを察しようとしている。
P.29 「これまで大坂の城に入っておった池田を立ち退かせて、」
(天正11年、秀吉の言葉。池田輝政?)
P.92 まして権力者ほど移り気なものはなく、ありとあらゆる約束や誓いほど虚しいものはない。
その点、天下人となる以前から、信長は一つの軌道をもっていた。あまりにも激しい好厭と癇癖をもつゆえに、その行動原理、心情の変化には一定の型があった。
しかもこの線を超えると変化するという見きわめがついたから、我慢の限界さえ気をつけていれば、先が読めた。
だが、秀吉は、なまじ忍従の半生を堪え抜いてきただけに、我慢の限界が読みにくく、しかもその場その場で絵を描いてきた変わり身の早さを特色とするので、行動の原理がつかみにくかった。
おまけにさしたる理想も持ち合わせておらぬときているので、なおさら心が読み取れなかった。
- この御仁にあるものは、すべて欲望に発して、欲望に返っていくようだ。
P.168 うなずきつつ、有楽は、急にあたりの空気が冷えを帯びはじめてきたように思った。それはあるいは心に冷えを覚えたためかもしれない。
(後文は本来、不要か。)
P.188 これというのも宣教師の説くゼウスの神の教えによるものだというので、
(ゼウスはデウスとあるべきか。)
P.196 楽しみを聚(あつ)めた第(邸)というので、聚楽第と名づけられたその邸館群、
P.198 あの気丈さで、ひたすら秀吉を憎み呪ってきたおちゃちゃが、尋常一様のことで、考えはともかく、気持ちを変えようとは思えない。
P.200 (利休は)近頃、何故か、余分な空白をもった場所になじめなかった。気力にみちている時は、空白をはね返せるが、今は空白に取り囲まれると自分が次第に無力になって行きそうに思えてならない。
ー 今は(四畳半よりも)一畳半の方が落ち着ける・・・・・
P.212 非力で、馬に乗ったり、弓を引いたり、太刀を振るって戦うことの苦手な主とその側近の臣は、言わず語らずのうちに、お互いの共通項を認め合い、かばい合ってきたのかもしれない。
勇将の下に弱卒なしというが、秀吉は酒も苦手な方で、石田と二人で吊るし柿を齧っている方が、気持ちの上で無理がなかった。
P.220 豊臣政権の内政長官である三成は、いつも堺にいるわけにはいかないので、父の正継を代官として、堺に常駐させていた。
P.255 合戦は、所詮、生命のやりとりで、いつ死んでもよい覚悟さえ出来ていれば、それほど恐れることはなかったが、こんどの大茶会ばかりは、自分の発案どおり、満天下の茶人と茶好きの庶民が果たして集まってくれるかどうかがまず心配だった。
P.275 一方では天下の名物を残らず集めつつ、片方では侘び茶の極致をめざそうというこの二律背反こそ、秀吉と利休の希求するものが、はっきり背を向け合ったとみるべきではないかと、ふと気づいた。
ー たしかにのう・・・・・
それが今日の中止につながったと、有楽はみたのである。
P.276 よく言えば天衣無縫、謗れば厚顔無恥の男のことなので、
P.282 もう夏の入り口にさしかかったとみえて、今日の街は釜底から炎に炙られてすこしずつ湯気が立ち昇りはじめたような湿った気配を漂わせている。
P.296 これはたまらぬ。
こんな毒々しく禍々しいものに出会おうとは、まるで考えていなかったちゃちゃは、
P.340 端正でどっしりとした黒茶碗、そこに美の究極を見出した利休は、”赤は雑なる心”と秀吉の美に対する感覚を見下して、遠く離れた次元へ身を引いてしまった。
P.342 (朝顔の時とは違って)野菊のあしらいの淡々たるさまは、いかにも秀吉の作為を子ども扱いして無視したようで、主もなげな仕打ちと映った。
⇒ 邦光では、秀吉の決断はこうした利休の「見下し」の蓄積に対する報復と解される。
野上のように「きっかけ」を想定していない。
P.366 人生七十/力●希咄/吾這宝剣/祖仏共殺
P.405 鶴松の死によって、秀吉は未来を失い、母の死によって過去をも喪してしまった。
P.407 天下に並ぶ者なき権威者は、天にニ日なきごとく、二人あってはいけないのである。けれど利休は会釈して天下人に道を譲ろうとしなかった。
【野上本】
P.7 黒くけざやかに
P.9 でも、そのことには利休はもう触れようとせず、箱膳の蓋をあけた。一人分の食器のおさまる黒塗りの古びた器具は、若い時からのものである。家に帰っているあいだはいまだに用いており、それもふるなじみの大ぶりな飯椀と、象牙の箸を自らとりだすと、りきはこぶだしで味よくこさえた粥を土鍋からよそった。朝はこの粥に時の野菜の煮ものが一皿、それに漬物ときまっていた。
P.13 そのあとに師匠とした武野紹鷗からは、連歌師であった彼の歌道、茶道いったいの悟りとして、古い仕方を守りつつ、つねに新しい作為をするのが茶湯であるのを教えられた。また、紹鷗の先達で、一休の弟子で、彼からえた『仏法も茶湯の中にあり』の一語に生涯を貫いた珠光への傾倒は、しだいに紹鷗をのり超えさせた。
(悪文!)
P.20 唐伝来で、堺でもまだ大店だけのものなる曽呂盤(そろばん)がおいてあった。
P.30 秀吉が一種えたいの知れない気おくれに捉えられるのは、この瞬間である。自分の輝きが急にきえ、影のうすい、見すぼらしいものになった気がする。そこにただ黙って坐っているものから来る、抵抗しがたい威圧であった。
P.31 得がたいものほど無理にも得ようとする権威者の我意に裏づけられているので、
P.45 利休の主張する露地草庵の茶は、こんなおもいの秀吉には、理念よりむしろ情感的に、より多く訴えるものがなかったとはいえない。
(悪文!)
P.48 『百姓は永久、武士は当座』の見地による
P.70 ことに下賤な素性は、暗い部屋の壁のしみが明るい日光でいっそう目ざわりになるように、秀吉の一身に光輝が集まるにつれ、ますますひけ目を感じさせないではすまなかった。
P.109 店、店の長い暖簾も、夏のあいだのだらけた怠惰をとり戻し、しゃっきりと青い日光を反ねかえしている。
(悪文!)
P.132 腹の底の知れぬ男、関白様の威光をかさに着て生きている男、音物(いんもつ)次第の男、金ならいっそう悦ぶ男、これらを言葉通りほんとうにするには酷にすぎても、嘘とするにはほんとう過ぎた。ほんとうは父が果たしてどんな人間であるかは、かれこれ思いめぐらせばめぐらすほど紀三郎には正体が掴みにくいのであった。
P.163 運命次第では、三軍を指揮したはずの武将の血が、円頂黒衣のしたにも失せず流れている、それもしるしの一つかもしれない。
(大徳寺の古渓和尚は、もと朝倉氏の出自である。)
P.168~9 像は利休に眺められるより、むしろ像そのものの方が利休を凝視していた。
(中略)
「こうして見ると、私の方が影法師です」
賞賛も感動もそれ以上の表現はありえない。
P.189 隅田川、筑波山、武蔵野、日暮里と関東の名高い名所のながめに
?日暮里の何が? 荒川区のwebページに以下のようにあることはあるが・・・
日暮里地域は、江戸時代中期以降、「一日過ごしても飽きない里」という意味で「ひぐらしの里」と呼ばれるようになりました。これに呼応して、明治十年、もともと「新堀」であったこの一帯が「日暮里」と正式に表記されるようになりました。
そういう話ならば、利休の時代に「日暮里」なる地名があったかどうかも不明だ。
もうこのあたりで十分か。
秀吉の勘気のきっかけとして、「唐御陣が、明智討ちのようにいけばでしょうが」という利休の不用意な一言(P.302)を想定したのは、なるほど作家の発明に違いない。
その一言に尾ひれが付き、石田らが尾ひれをつけ、尾ひれのついたものと承知しながら聞き捨てにできない秀吉、ただ一言のわびを入れようとしない利休、そのあたりの表現はうまいものだ。
丹念な考証と豊かな想像力に支えられた、具体的な描写が全体を通して素晴らしい。
しかしこの人、実はかなりの悪文家である。
以上、タイトルを起こしてから1か月半ぶりにようやく完了。