散日拾遺

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見つけた! / 積善の家に余慶あり

2018-03-29 21:32:23 | 日記

2018年3月30日(金)

 『易経』岩波文庫版で上下2冊、視線を検索モードに切り替えてページをめくること30分余、「見つけた!」と大声あげた。

 「神農氏没して黄帝堯舜氏作(おこ)る。その変を通じ、民をして倦まざらしめ、神にしてこれを化し、民をしてこれを宜しくせしむ。易は窮まれば変じ、変ずれば通じ、通じれば久し。ここをもって天よりこれを祐(たす)け、吉にして利しからざるなきなり。」(周易繋辞下伝 文庫下巻 P.254)

 「窮即変、変即通」までが既に聞いていたところ、これに「通即久」と続き、かつ全体の主語が「易」である。そういう意味なの、何と姑息な切り取りをやっていたことか・・・

 やや戻って下記、

 「九五。大人虎変。未占有孚。象曰、大人虎変、其文炳也。
  上六。君子豹変。小人革面。征凶。居貞吉。象曰、君子豹変、其文蔚也。小人革面、順以従君也。」
 (周易下経 革卦 文庫下巻 P.120)

 「君子豹変」と対を為して「大人虎変」とも言うらしい。まるで判じ物だが、ありがたいことに解説がついている。

 ・・・大人虎変すというのは、その毛の文様がさらに炳(あきら)かに輝くことである。上六は柔順居正、革命成就の秋であるから、その事業に参与した君子 ー 有位有徳の士人の功業は、豹の毛が秋になって美しく変わるように輝かしい。また無位無徳の小人ならば面持ちを革めて、新しい君主のなすところに随従すべきである。ただし革命の事業は重大なことであるから、さらにそれをおしすすめてしばしば民生を疲労させるようなことは凶である。じっとしてその成果を享受していれば、貞正で吉である。

 ・・・君子豹変すというのは、その毛の文様が蔚然として美しくなるということである。小人面を革むというのは、柔順に新しい君に従うことである。

 これが本来の意味だとすれば、むしろありがたくない。そもそも、根本から変わるの変わらないのというのは、誰がどこで持ち込んだ注釈か。豹の文様の恐ろしくも美しい輝きばかりが印象強く、易の正体と故事の由来は竹林の虎斑のように迷彩に紛れるばかりだ。めまいがしてくる。

???

  とはいえ思わぬ余得あり。こんなのを見つけた。

  「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり。臣にしてその君を弑し、子にしてその父を弑するは、一朝一夕の故にあらず。その由って来たるところのもの漸なり。これを弁じて早く弁ぜざるに由るなり。易に曰く、霜を履んで堅氷至ると。蓋し順なるを言えるなり。」(周易上経 坤卦 文庫上巻 P. 103)

  「積善の家に余計あり」

 家族一同の無事健康を先代の遺徳に帰するにあたり、父がこの言葉を引いたことがある。ということは … ☎☎☎ 

  「出典がわかった?『易経』?ほう、そうか」

  「お父さんはどこで習ったんですか?旧制中学、それとも幼年学校?」

  「ありゃ、女中部屋じゃ」

  「女中部屋!?」

  「うん、うちの女中部屋の壁に書いてあった。おおかた峰三郎じいさんの趣味かもしれん。」

   戦前の素封家の例に漏れず、我が家にも女中がおり、その居室があった。多芸多才の曾祖父が達筆を振るい、跡取りの父が幼年期に見覚えたものらしい。積善は我が為ならず、未来世代に余慶を願う也。これ、治家治世の要諦か。

Ω


君子豹変 小人革面

2018-03-28 19:16:15 | 日記

2018年3月29日(木)

 「君子は豹変す」・・・本当はどういう意味だっけ?「君子面(づら)したやつは、風向きが変わると掌を返すので信用ならない」という意味でないことは確かだけれど。

 原文は「君子豹変、小人革面」 ~ 君子は豹変し、小人は面を革む(おもてをあらたむ)

 君子たるもの、いったん真理を感得したら旧来の自分を根本から改める、その潔さと徹底ぶりが豹の斑紋のように明らかということらしい。迫害者サウロ、目からうろこが落ちて使徒パウロに生まれ変わるの図。それにひきかえ、小人は事の真相を深く理解することがなく、姑息にうわっつらを改めるばかりで本質は変わらないという。

 君子/小人といった類型を先に描くのでなく、「豹変しうるのが君子、革面に汲々として根本から変われないのが小人」と逆転させれば分かりやすいか。まことにもって耳の痛いことだ。

 こんなふうに解説するサイトがある。

 「たとえば、他者を傷つける言葉を発してしまったとします。そして、周囲から、あれこれと批判されたので、他者を傷つける言葉を発しないように、努力、注意します。再び、あれこれ言われるのは嫌ですからね。
 これはこれで、確かな方法です。でも、大きな精神力と自己制御を続ける努力が必要となります。しかしながら、他者を傷つけると後で自分も傷つけられることになるという事実を、心の底から理解したときは、毎日の自己制御を行わなくても、自然と、他者を傷つけることができなくなります。
 根源法則を真に理解すると、全身全霊で変化するからです。変化しようと思わなくても、変化してしまうのです。
 このように、自己制御に力を入れるよりも、物事の真相、真理をしっかりと理解する方が、効果が高くて、しかも効率的です。」

(https://newstyle.link/category25/entry1370.html)

 決断・勇気よりも理解に注目し、効果・効率で論じるのが意表を突いて示唆的だけれど、君子の徳は道行きのどこかで(あるいはそもそもの初めから)合理性や効率との訣別を余儀なくされる。出会ってしまったパウロには、この道を行くよりほかに選択がない。損得の判断も逆にそこから演繹される。「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」「すべてを失ったが、今ではそれらを塵あくたと見なしている」(フィリピ 3:7-8)といった豹変ぶりは、効果・効率の延長上ではなく彼岸に属する現象である。その結果としてとてつもなく大きな「効果」が生じたのは、また別のことだ。

 話を戻して「君子豹変」の出典は『易経』とあり。え、また?「窮すれば通ず」ならぬ「窮即変、変即通」も『易経』ではないか。すると「変化」が『易経』の主要命題ということか。易とは、動かし難い運命を天地の機微に読みとるものかと浅く理解していたので、「変化」が繰り返しテーマになるとしたら少々意外である。

 「窮すれば通ず」の時に文庫本を手に取ってみたが、実際の卦の解釈など細々と書かれており、違うかなと思って棚に戻した。ところが、Amazon の読者レビューを見ると「易の実際が分かりやすく書かれていて良い」というものがいくつも載っている。そういう方向で『易経』を読む人が相当数あるわけで、人の関心は真にさまざまである。

 呉清源師も幼少期にこれらを暗誦するほど学んだのだ。「上手は変わる」と碁の格言にあること、あるいは易経に由来するか。

Ω


ヒヨドリ追記

2018-03-22 13:32:05 | 日記

2018年3月22日(木)

 ほら、このとおり。黄色の中心部を残して、ピンクの花弁をむしり食べた様子が、一目瞭然。 

 昨日は引っ越しの手伝いに駆りだされ、終日、千葉市内を右往左往。氷雨のシャワーをたっぷり浴びたが、その間、東京・神奈川が本降りの雪だったと帰宅後に知った。荒天をものともせずヒヨさん元気で御出勤、天晴れな食い散らかしぶりで、それでも半分ほど残してあるのは満腹したから?

「こちらもひよどりは一年中います。今のところ、椿は無事です。」と室崎さん。

「東京と違って、椿の花弁を食べなくても、他に美味しいものがたくさんあるのでしょうね。」

「そうだと思います、農家の人にはいやがられているから。鳥は鳥で生きていくための手段だから、しかたないとは思いますが、あまり荒らされると怒りたくなりますよね。そういえば、こちらの方では猪が畑を荒らすので電気柵をしている所があります。」

「電気柵は動物を殺すためでなく、近づけないためだとすれば、良い工夫かと思っていましたが、不案内な人が感電死した事件が少し前にありましたね。なかなかうまくいかないものです。」

 「そうですね。」

 ペットボトルの手製風車でモグラや野鳥を避ける工夫が、ネットにいろいろ出ている。そのうち試してみよう。

Ω


野の花 空の鳥

2018-03-19 10:33:35 | 日記

2018年3月19日(月)

 「僕は無実だ!」「うん、有名無実ね」 ・・・ 政治関係のニュースを見ながらふと。

 ***

 小豆島の室崎さんから、「椿を写してみました」と来信あり。トリミングして転載。天気の加減か、光の条件に恵まれていない。それでも、迷いのないすっきりした赤が窺われる。力強い赤だ。

 当方はこれ(⇓)、それこそ何の変哲もないジュリアン(Primula Polyanthus)のプランター。わざわざ撮ったのは、つい先ほどまでヒヨドリがやってきて、ピンクの花弁をむしっては食べ、むしっては食べ、悦に入る姿があったからである。

 それで分かった。2週間ほど前だったか、ピンクの花弁がすっかり消え失せ、黄色の芯ばかりになったことがあった。直前に何日か荒天が続いており、天候の加減かそれとも今季の花はこれで終わりかなどと思ったが、さにはあらず。

 花を育てて売る立場でもなし、食べてダメとは言わないが、せめて写真を撮らせてもらおうと構えたとたん、ピタリと姿を見せなくなった。 

 ヒヨドリは、なぜだか秋の季語だそうな。スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属、日本の他、サハリン、朝鮮半島南部、台湾、中国南部、フィリピン北部に分布するが、日本国内では留鳥・漂鳥としてごく普通に見られるのに、他の地域での生息数は少ないという。「日本の鳥」と言ってもよさそうだ。

 「糖分を好むためか、ツバキやサクラなどの花にやってきて蜜を吸ったり、庭先にミカンやリンゴなど果物の半切れを置いておくとすぐにやって来て独り占めしたりする」(『庭で楽しむ野鳥の本』 (2007)、18-19頁 ⇒ Wiki)。ジュリアンの花弁も甘みがあるのかな。室崎さんの椿にもヒヨドリが来るだろうか。

 当然の結果として庭の果実をいち早くつつくから、田舎の父にとってはイマイマしいライバルである。

「ヒヨドリ 画像」の画像検索結果

(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1482.html より拝借)

Ω


花鳥風月

2018-03-18 23:45:40 | 日記

2018年3月14日(水)

 4輪、いや5輪とソメイヨシノの開花判定に汲々とする一方で、河津桜は既に満開をいくらか過ぎ、花かげに若葉が覗き始めている。

同15日(木)

 若い女性の患者さんが、着座するなりカバンから取り出して机上に転がした。相当手の込んだものだが、作り方はインターネットで簡単に見られるという。中央が火口状に陥凹した錐体を単位としてみると、それがいくつ数えられるか。

 「8つ?」「8つ・・・」「8つですね」

 この数字から何かをひねり出せるほど、数学の素養をもたないのが残念。ふと『博士の愛した数式』を再読したくなった。数年を経て、いよいよ印象が鮮やかである。

 大きさの参照に、同じ患者さんの作品を並べてみた。変哲のない折り鶴のようだが、折り目がきわめて正確で、翼の先にも嘴や尾の先にもほとんどズレがない。数ヶ月前に今回と同様、やってくるなり机上にスイと投げ出したものだった。

 

 ついでに今月初めの満月。肉眼では輪郭明瞭な普通の満月だが、写真の腕が悪いので凄みを帯びた謎の天体みたいに写っている。何しろ、普通の満月とはこんなに明るいものかと夜道で驚いた。明月が精神の変調をもたらすと信ぜられたのも宜なるかなである。

 次の満月は3月31日(土)、従って翌4月1日(日)が今年のイースターとなる。目前だ。

 おっと、花・鳥・月と揃ったね。 風は写真に撮れないが、花を散らし鳥を宙に浮かべ確かに働いている。

Ω