散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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3月31日 ジョンソン大統領が北爆中止を表明(1968年)

2024-03-31 03:54:51 | 日記
2024年3月31日(日)

> 1968年3月31日、アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ベインズ・ジョンソンは、1960年以来泥沼化していたベトナム戦争に関し、北ベトナムに対する爆撃を一部を除いて中止すると発表し、重ねて北ベトナムに和平交渉に応ずるよう求めた。
 ベトナム戦争は前職のケネディ大統領から引き継いだものだが、1965年以降は、ジョンソン自身の命令によるアメリカ軍兵士の増強や北爆により、戦争拡大に積極的に加担していた。しかし、選挙が長引くにつれ世論は反戦に傾き、1968年3月16日に起きたソンミ村虐殺事件などで、国際世論からも非難が集中した。支持率も低下して窮地に追い込まれたジョンソンは、北爆中止と同時に、同年11月の大統領選への再出馬も断念したのである。
 1963年11月22日、公民権法制定のため南部遊説中のケネディ大統領が暗殺され、ジョンソン副大統領が大統領に就任したのは、暗殺からわずか90分後だったという。大統領専用機内で行われた就任の宣誓に立ち会ったケネディ夫人は、血の付いたスーツを着たままだった。それから六年余りで、ジョンソンは大統領職をニクソンに譲り渡したのである。
 ジョンソン大統領は、ケネディが進めていた政策の継承として、黒人差別を禁ずる公民権法の制定など、内政的には大きな功績を残している。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.96

Lyndon Baines Johnson
1908年8月27日 - 1973年1月22日


 「国防総省選出議員」と揶揄されるぐらい軍とのパイプが強く、ケネディが暗殺されたダラスはジョンソンの地元であるなどの状況から、ジム・ギャリソンはジョンソンを共犯者と見たてていたように記憶する。経歴には小さな不思議がいろいろとあるが、運の強い人物であることは間違いない。
 ケネディ同様ジョンソンも、ベトナムへの介入は共産主義に対抗して民主主義を守るために必要なことと信じていた。内政に貢献のあったことは知らなかったが、事実であるらしい。議会との交渉はケネディよりよほど巧みだったようである。

 もう一つ、リンドン・ジョンソンは、ぺんてるの「サインペン」を世界に広めるという大きな歴史的貢献を為している。



Ω

【紙面から】「ほめて育てる」親は不適切?

2024-03-30 07:49:26 | その日の新聞紙面から
2024年3月30日(土)

> 「ほめて育てる」の発祥の地、米国でも、ほめすぎが自己愛を肥大させるという負の側面が問題になっているそうだ。サンディエゴ州立大のジーン・トウェンギ教授によると2000年代以降、自己愛性人格が強い大学生が急激に増えているという。そしてその価値観を植え付けたのは、多くがその親だと指摘する。
 その指摘に再びハッとして、グッときた。子どもをできるだけ叱らず、ほめて育てたいという親の考えの裏には、「子供に嫌われたくない」という親自身の自己愛も潜んでいるのではないか。
 「ほめて育てる」が広がったのは、昭和の終わりころだ。でもそれが、子どもの自己肯定感を下げ、親と子供の自己愛を増長させているとしたら ーー それは、不適切にもほどがある。
 「多事奏論」岡崎明子氏

 もうだいぶ長いこと、すっきりしないでいる。健康な自己愛と病的な自己愛の関係、ある種の自己愛が自己肯定感の高さではなく低さと連動していること、自信と自己愛と自己肯定感の関係などなど ー
 整理できたらまとめてみたいが、そんなことを言っている間にも外来には自己肯定感の不足を訴えて、若者や元若者が次々にやってくる…

Ω

3月30日 エッフェルがパリに塔を完成させる(1889年)/ フランシーヌ・ルコントの場合(1969年)

2024-03-30 03:06:45 | 日記
2024年3月30日(土)

> 1889年3月30日、パリ万国博覧会のモニュメントとして、巨大な塔が完成した。設計したのは高架橋の設計で実績のあった建築家ギュスターヴ・エッフェルと、彼の会社の技術者たちだった。
 今ではエッフェル塔と呼ばれているこの塔のデザインは、政府によりコンクールで選ばれたものだが、当時は芸術的な建築といえば石の建築だったため、たいへん不評だった。「ボルトで締められた鉄板製の醜悪な円柱」がパリの景観や歴史的建造物を台無しにする、という芸術家たちの抗議文がパリ市に宛てて送られたという。完成後もエッフェル塔に対する批判は続き、芸術家たちによる撤去運動まで起きている。
 ところが、その一方で活性完成したエッフェル塔の人気は凄まじく、まだエレベーターが動いていない間に、なんと28,922人が歩いて塔に登ったという。
 建築家エッフェルは、他にも世界的に有名な建造物の建築にかかわっている。その中で最も有名なのは、アメリカの「自由の女神」だろう。製作者は彫刻家バルトルディだが、像の設計にはエッフェルも参加している。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.95

   
Alexandre Gustave Eiffel
1832年12月15日 - 1923年12月27日


 むしろ、この一枚の方がインパクトがあるか。
> エッフェルの身長は152cmだった。エッフェルがエッフェル塔と小さなピラミッドに挟まれている風刺画で、ピラミッドにはフランス語で「作品の大きさで、人物の偉大さが測られる。」と書かれていた。


 パリ × 3月30日と聞くと、エッフェル塔よりも先に思い浮かぶものが、実は別にある。

> 1969年3月30日の日曜日、パリの路上でフランシーヌ・ルコント(当時30歳の女性)が、ビアフラの飢餓に抗議して焼身自殺した。3月31日に朝日新聞夕刊が小さなスペースでこの外電(AFP)を載せた。
 CFの制作に携わり、CMソングの作曲家でもあった郷伍郎は、この記事に触発されて『フランシーヌの場合』を作詞作曲した。郷はシャンソン歌手・古賀力と新谷のり子、青山音楽事務所(代表者・青山ヨシオ)の協力を得てデモテープを製作した…

Ω

3月29日 ベートーベンの葬儀にシューベルトが列席(1827年)

2024-03-29 03:10:23 | 日記
2024年3月29日(金)

> 1827年3月29日、オーストリアの作曲家フランツ・シューベルトは、尊敬するベートーヴェンの葬儀に、棺の周りで松明を掲げる38人の中の一人として列席した。葬儀の後数人で居酒屋に行き、故人を偲び、ワインで乾杯したという。この時のシューベルトの暗示的な乾杯の言葉が伝えられている。「われらの中で最初にベートーヴェンに続く者のために!」。
 翌年11月19日、シューベルトは腸チフスのため三十一歳のあまりにも短い生涯を閉じることになるのである。シューベルトの亡骸は彼の希望通り、ベートーベンの隣に埋葬された。
 シューベルトは生涯に交響曲八曲を含むおよそ千曲の作品を残している。現存する最も古い曲は十三歳の時の作品である。十五歳からサリエリのレッスンを受け、十七歳で父親の営む学校の助教員となるが、あまりにも作曲への熱が強すぎて教員生活は長くは続かなかった。次々と浮かぶ楽想を書きとめるために、夜寝る時も眼鏡をかけたまま、枕辺には五線譜を置いていたという。
 彼の生活を支えていたのは友人たちであった。住居、食物、そして大量の五線紙をシューベルトに与え、天才が作曲に専念できるよう援助してくれた。こうして次々と出来上がる曲を、彼らはサロンコンサートで楽しんだのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.94

Franz Peter Schubert
1797年1月31日 - 1828年11月19日

 先にメンデルスゾーンが満38歳で他界したことを見たが、モーツァルトは35歳、シューベルトは31歳である。その生き急ぎ方を見ると、彼らは自分に与えられている時間が分かっていたのではないかと思われてくる。
 一方、上掲の簡単な記述の中で、まったく違う意味で強く注意を引かれる人物がサリエリである。

Antonio Salieri
1750年8月18日 - 1825年5月7日

 映画『アマデウス』での敵役ぶりが、マーリー・エイブラハムの名演技もあって歴史的事実であるかに思われてしまうが、現実のサリエリは凡庸でもなければ悪人でもなかった。むしろモーツァルトの方が、才気と若さにまかせて面倒の種をふりまいた形跡がある。
 オーストリア宮廷楽長として楽壇に君臨したなどはむしろどうでもよいことで、教育者としてベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てたとあっては、音楽史における殊勲は燦然として隠れもない。これら恐るべき麒麟児らをどんなふうに指導したのか、こわごわ見てみたかったものだった。

Ω

20240328 ー 記憶は身体なしに成立しえない/日本という方法

2024-03-28 07:47:38 | その日の新聞紙面から
2024年3月28日(木)

記憶は身体なしに成立しえない
三浦雅士
> 記憶は、脳というよりは口の記憶、耳や手の記憶としてある。詩歌はまずは一つの口調として記憶され、読むことのみならず思考も文体に同調することで起動すると、評論家は言う。そして文字を介したさらに抽象的な思考への展開さえも、聴覚から視覚への移行という、身体回路の変換に負うと。経典の暗記も身体訓練。とすれば、おそらく道徳も。『考える身体』から。
折々のことば 鷲田清一 3040

 囲碁の棋譜並べも、同じく身体で覚えるのである。「暗誦」という単純で強力な学習法を詰め込み教育と混同して廃し、主体的に考えることと弁えなくしゃべりちらすことを区別しない。そこへスマホとゲームで指先ばかりが「身体」となることが重なれば、記憶の内実は実に荒涼たるものになること請け合い。両手でゲームに没頭しながら座席の隙間に尻から突っ込んでくる「道徳」は、こうして成立する。

***

> 日本は東洋に属して、しかも海を隔てた列島です。四書五経も仏教も外から入ってきたもので、鉄・稲・漢字・馬も順番に立ち上がってきたのではない。そういうい国なので、編集的な多重性があるだろうと。だから日本をよく見ることによって、世界の文明や文化が見えるだろうという関心をもちました。
 しかし、そんな日本の文化や歴史にもかかわらず、西洋の学問の方法で語ろうとしてきたために…
 …日本という国そのものが「方法」であるということです。「日本は方法の国だ」という確信は初期からあって、だんだんそれを固めていった。最終的には「擬(もどき)」と言いました。なぞらえる。あやかる。歌舞伎や江戸遊芸では「やつし」と呼ばれるものです。本来のものを想定はするんだけれども、そこに少し逸脱をかける…
 …やつさないと、そらさないと。そのために方法がある。編集という方法と、日本という方法が重なっていったんです。
編集工学者 松岡正剛(13)

 すぐには理解できないが、うっすらとした感じのようなものはある。精神病理学に編集的な多重性を重ねたらどうなるか。「抑うつ気分」も「見捨てられ不安」も順番に立ち上がることなしに並列流入してきた。日本という方法から読み直し、やつしてそらして再構築するには、どこからどう手をつけたものだろう。「気」という言葉がヒントになるだろうか。そんな気がしないでもないが…

Ω