散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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アキラとキヨシ/イチョウの小苗

2018-10-31 09:46:01 | 日記

10月31日(水)に書いたはずのこと

 昼食は波妻の浜に面した「ふわり」で鯛飯など楽しんだ。公式には、道の駅「風早の郷 風和里」そうそう、こんな感じである。 → https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kurashi/sangyo/sousyutu/huwari.html

 写真からは左方にあたる自然食品店内に、何やら色紙が一枚。

 『花遍路』の早坂暁、愛媛県温泉郡北条町(戦後は北条市、合併を経て現松山市)生まれ。大江健三郎は同県といっても遠い南予の内子町産だが、こちらは文字通り地元の作家である。親しみもすれば誇りでもあったのに、昨年末に他界していたことを僕は知らなかった。1929年生、2017年没、享年88歳。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%9D%82%E6%9A%81

 色紙右下の署名からたどり、下記にアクセス。よく撮れている、故郷の浜辺。
 https://ja-jp.facebook.com/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A-561451454221589/

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 帰宅して車から降りる時、ふと足元を見たら一面がイチョウの小苗である。それぞれ凛々しく空に向かって胸を張る。おお偉いぞ元気だな、みんな立派に育てよ、と励ましたいのはやまやまながら、みんなが立派に育ったら、あっという間に一帯がイチョウの杜になってしまう。実際にはそうならないだろうと考える理由があるにはあるが、リスクを冒して実験するわけにも行かず、心に詫びつつ一本ずつ丁寧に抜いた。  

     

 抜いてみると全体はこんな姿、芽と同長の根が地下へ伸びて成長を支えているのがわかる。↓

 イチョウ類は古生代に出現し、中生代に大繁栄の後、氷河期にほぼ絶滅した。恐竜の植物版のような足跡である。からくも一種のみが中国に生き残り、これが日本、さらには世界中に再伝播した。ギンナンの臭いが嫌われて街路樹としての評価は下がりつつあるようだが、当家では父が手間暇かけて処理し、秋冬には美味しくいただいている。

11月12日(月)記

Ω

 


聖者の行進

2018-10-23 15:56:15 | 日記

2018年10月23日(火)

 しばらく勤めた精神病院を辞めて、よそに移る時の話である。いずれこの日が来るのはお互い承知だが、何ともいえない寂しさがあり、そして罪悪感を禁じ得ない。

 ある患者さんに異動のことを告げたら、相手がゆっくり頷いて、用意してあったかのように言った。

 「さびしいけどね、きりもかぎりもないからね」

 しばし陶然となった。それを口にしたのは高齢に入りつつある女性で、カルテには「感情鈍麻」とか「無為自閉」という評価が記され、事実そのように日を送ると見えた閉鎖病棟の住人だった。饐えた臭いの染みついた20世紀の閉鎖病棟の片隅で、ふとこの言葉が口から出たのである。

 きりもかぎりもない ~ 彼女の魂に、この言葉がいつ、どのように宿ったのだろう。生涯に何度、どんな場面でこの言葉を口にしたのだろうか。

 賢者、さもなければ聖者の語彙、小さなともし火のように揺らめいてそこにある。

Ω


「希望」を語った日曜のゼミ

2018-10-21 21:58:42 | 日記

2018年10月21日(日)

 さらに遡るが、この日のことはたぶん末永く忘れない。この週の中頃から気道に変調あり、注意を払ったにもかかわらずどんどん悪化した。結果からみれば21日も休んでおけばよかったのだが、何度やり直してもこの日のゼミ ~ 卒研・修士・博士合同の ~ は出席したことだろう。こういう一日が時にある - 選択の余地のない一日である。

 「行くには行くが、声が出ない」と知らせておいたところ、定時に着いた時には修士のNさんの音頭取りで発表順を決める作業が始まっていた。日頃は僕のやっていることで、さすがは社会人院生たち。主宰教員が incompetant と知って、自主性の回路が直ちに全開、それが内容にも反映され、10時から17時まで陶酔に近い充実感が10人ほどの小部屋を支配し続けた。

 この日を象徴する言葉が出たのは、博士課程のAさんからである。障害受容と親子関係をからめた研究をしている彼女が、いつものように物思う口調で云ったこと ~ 機能欠損自体は回復の見込みがないと分かっており、そのことを十分理解しているにも関わらず、いつか何とかなるのではないかと「希望」を抱く親がしばしば存在する、という。

 「認知の制限が生じていて現実を認識できない」というネガティヴな意味ではない、「『にも関わらず』希望を抱き続ける力が親と当事者を支える」といった超ポジティヴな文脈のことで、できればこれを回復過程のキーコンセプトに据えたい気もちがいる。坂井素志先生から示唆された「二者関係/三者関係」さらには「二人称/三人称」のことを紹介し織りあわせつつ、「希望」をめぐって皆の幻想が膨らんだ。

 直ちに連想するのは喪の作業で、地上では二度と会えないとよくよく承知していながら、再会の希望を抱き続ける当事者がある。母の葬儀で不思議に思ったのは、僕を含む当の家族が悲しみの中にも再会の希望をもち、いみじくも「また会う日まで」(旧405、讃美歌21-465)を口ずさみながら棺を運ぶ傍らで、他の会葬者が「最後の別れ」を口にもし心にも念じているらしいことだった。それが教会関係者である場合にはほとんど悪い冗談のようなもので、日頃礼拝の中で聞かされまた告白していることを、実は少しも信じていませんと白状するようなものである。

 すると卒研生のH氏が、「三人称の死にとどまっているから、『希望』をもたずにいられるのではないでしょうか」と切り込んだ。急所の一撃、目からウロコである。大切な相手との死別を「希望」をもつことなく乗り越えることは、大半の人間にとってできない相談、したくもない相談なのである。いかに非現実的であれ、むしろ非現実的であるがゆえに価値あることなのだ。希望の存在ことが命と意志の証しである。

 「永続するものは信仰・希望・愛」(コリントⅠ 13:13)

 信仰と愛は分かるとして、なぜ希望 ελπις なのか永らく理解の外だった。ようやくわかり始めた気がする ― 「わかった」はまだ遠いけれど。

 出ないはずの声を出して議論に参戦し、覿面悪化して気管支炎状態。22日(月)から24日(水)はで全ての予定をキャンセルする羽目とあいなった。

11月11日(日)記

Ω