2023年4月21日(金)
「日本語は非論理的な言語であり、論理的な考究には向かない」と、大まじめに言う人が未だにある。昭和の亡霊に出遭った気分でギョッとする。
そもそもこれ、「日本語は非論理的である」という言明自体が日本語で為されているのだから、
A:そのように主張する人は、その言葉によって自身の主張を裏づけている
B:言明自体が矛盾しており、正誤の判定不能(⇒ 「クレタ人は嘘つきとクレタ人が言った」のパラドックス)
どちらにしてもとりあう必要はないのかもしれないが、この手の御仁が
「だから英語でかかれた論文を読みなさい」
などと、したり顔で学生に指導するから困るのである。学生は教員が偉いものだと思っているので、「日本語は非論理的な言語である」という思い込みは効率よく伝染し、それが日本語の非論理的な使用をいっそう蔓延させる。
僕自身も英語で書かれた論文を読むことを大いに勧めているが、理由は全く別のところにある。現実の日本語が非論理的な言明に満ちているとすれば、それは使うものの性根の問題であって、言語そのものの責任ではない。日本語は美しいばかりでなく、実用にも立派に耐える十二分に論理的な言語である。
そう言い切るのに、理論と実証との両面で根拠がある。
理論的根拠と実証的根拠などとはいかにも大仰だが、実はそんなに大したことではなくて。
実証の方では、日本語以外の母語で育ち、後から学んだ日本語を話す人々(要するに外国人)の中に、驚くほど論理的で筋道立った書き方・話し方がしばしば見られること、これが何よりの根拠である。ドナルド・キーンなどは格別高尚な例として、TVを見ていても卑近な実例には事欠かない。イラン出身のサヘル・ローズさん然り、アメリカ出身のプロ棋士マイケル・レドモンドの解説の明晰なことは以前にも書いた。その他、尊敬すべき無名の生活人たち。
彼らの語りを聞いていて感じるのは、正しい日本語を正しく使おうという意志の一貫していることで、逆に何となく書けて話せるあたりまえの状況への甘えが、日本語人の日本語から緊張感を奪っているのである。
少し風呂敷を拡げるなら、幕末の開国以来、欧米発の情報が洪水のように流入してくる中で、日本人が日本語を使いつつこれに耐え、文化の広い領域でとにもかくにも欧米に伍してきたことが何よりの証拠ともいえる。日本語が非合理なものであるなら、総じて外国語が苦手でもっぱら日本語に頼ってきた日本人が、この厳しい一世紀半を生き延びられたはずがない。
中国系マレーシア人留学生のことを思い出す。ポリグロットぶりを羨む同級生たちに対して、あるとき彼が珍しく声の調子を高くした。日本人は自分らの幸せに気づいていないというのである。彼自身は家族や華僑のコミュニティでは中国語(福建語・北京語)、マレーシアの公的生活ではマレー語、そして学校では英語、好きで使い分けるのではない、どれをとってもそれだけでは生活の全領域をカバーできず、仕方なく使い分けてきた。家族と語らうのと同じ日本語を使い、日本語で学問できる幸せを日本人は知るべきだと。それは羨望であると同時に、欧米発の途方もない質と量の情報を受けとめて再構成し得た、日本語と日本人への表敬の言葉でもあった。
「マレー語は十分に論理的であり得るか」とマレーシア人が自問するならまだしも理由のあることだが、日本人が日本語について自問を通り越し、「(欧米語に比べて)非論理的」と決めつけるなど疑問というよりバカバカしい。
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理論的な側面について精密な議論を展開する準備はないが、一つ考えられるのは翻訳ということの一般的な困難と混同していないかということである。別個の二つの言語、とりわけ異なる文化背景をもち、さらには異なる文法体系に属する二つの言語の間で正確な翻訳を行うことは至難の業であり、「正確」という点に厳密さを求めるならほぼ不可能であるといってよい。共感的理解(!)によってかろうじて近似が可能になるのが翻訳の現実で、それにもかかわらず(あるいはそれだからこそ)翻訳がしばしば創造の起爆力になるのが文化交流の面白さである。
ともかく翻訳は、不可能と言えるほど難しい。そのことをある観点から照射すれば、Aという言語体系における合理性が、Bという言語体系において理解されないということはあるだろう。しかしその場合、必然的に逆もまた真なのであり、日本語的思惟が英語的思惟に照らして不合理であるなら、英語的思惟もまた日本語的思惟に照らして不合理となっているはずである。日本語だけが欧米語に比べて一方的に非合理的と言うことはありえず、それがそのように見えるのは、欧米(語)に対して劣等感をもち、初めから負けと決め込んでいる者の目を通すからである。そしてもう一つは、教育と自己規律の問題だ。
自分ではこれ以上の精密な分析をする元気がないので、誰か書いてくれていないかなと思ったら、おあつらえ向きに見つかった。
望月善次『三つの神話に関するノート』と題する16ページの論考(「人文科教育研究」2巻、P.15-30, 1976)で、副題が「三つの神話」の何たるかを明示している。曰く、
「日本語は難しい」
「日本人は外国語が下手である」
「日本語は非論理的である」
「まえがき」から引用する。
まず、「日本語の難しさ」についてであるが、言語をあやつる力は、人種、言語の相違を越えてあらゆる人間に共通する事実であるから、ある言語が難しくて、ある言語が易しいなどということは、原理的に存在しない。従って、勿論言語のうちの一つたる「日本語」が特に難しい言語であるということはあり得ないことになる。
次に「日本人の外国語下手」であるが、上の「日本語の難しさ」で述べた如く、あらゆる言語間に、原理的難易の区別はないのであるから、その裏返しとして、当然、外国語上手の国民、外国語下手の国民などというものは存在しようはずがないのである。
最後に「日本語の非論理性」についてであるが、これも既に述べた如く、どの言語を用いる人も(言語それ自体のもつ限界の上に立ってのことではあるが)一応は、自分の表現しようと思うことを過不足なく表現することが可能なのであるから、ある言語が論理的であるとか、論理的でないとかいう議論は余り意味のないことになる。
以上述べた如く、三つのテーマは、いずれも原理的には存立不能である。それにも拘らず、これら三つのテーマに対する肯定的雰囲気は、日本国民の申に瀰漫している。敢えて「神話」と呼ぶ所以でもある。
それでは、何故かかる「神語」は発生するのか。その発生の背景を以下順を遺って整理して行こうというのが、本ノート作成の狙いである。(以下略)
のっけからブラボー、あとは読んでのお楽しみ。ブラボーな著者は岩手大学の名誉教授にして、三木与志夫の筆名で知られる歌人である。「神話」については、他にもこんなサイトが見つかった。
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