散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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赤とんぼ

2023-04-26 13:24:43 | 日記
2023年4月26日(水)

夕やけ小やけの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小篭に摘んだは まぼろしか

十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

(三木露風作詞、山田耕作作曲)

 今更ながら、ふと『赤とんぼ』の歌詞が気になった。この歌の重心が赤とんぼよりも、むしろ「姐や」にあるとはかねがね思っていたのだけれど。

 一番の「おわれて」を「追われて」と思い込む誤りが多いというが、それではもちろん意味を成さない。「負われて」つまりおんぶしてもらっての意に相違なく、誰におぶってもらったかといえば三番に出てくる姐や、つまり子守の娘にこれまた相違ない。実の姉を「姐や」とは呼ばない。
 その姐やが数え十五で嫁に行ってしまった。ずいぶん早いが、昔は珍しくなかったことだろう。最後にひっかかるのが「お里の便り」で、この「お里」は誰の「お里」かという意識下の疑問が、通勤の道でふと浮上してきたのである。昨晩МI氏 ~ イニシャルが同じ! ~ と久しぶりに会い、霊だの魂だの夢だのについて語らったのが刺激になったものか。
 歌詞に表れている要素を特に考えもなく追うならば、姐やのお里ということになりそうだ。しかし「絶えはてた」という表現には、続くべきもの、続いてほしいものが絶えたことへの痛恨がにじんでいる。嫁に行った娘の消息を、娘の実家からかつての奉公先に伝えることに、さほどの持続性が期待できるものか。それほど親しかった姐やなら、嫁ぎ先から時には便りをくれそうなものだし、こちらから様子を尋ねてもよいのである。

 何となく腑に落ちないと感じていたのを、あらためて検索すると思いがけない解説が出てきた。
  曰く、この子の母親は、離縁されて里に帰っていた。その母親が近隣の娘を当家の子守奉公に出すように計らい、この姐やを通じて子どもは母親の消息を聞くことができていた。その頼みの姐やが嫁に行ったために、里に戻った母の様子を知る伝手がすっかり失われ、その痛恨と哀切が「絶えはてた」にこもっているというのである。別れた親子の面会の権利など、誰の脳裏にもなかった時代のことである。
 複数のサイトが一様にこの説を採用しているから、おそらく作詞者の生い立ちを踏まえての定説なのだろう。それが正しいかどうかはさておき、赤とんぼと夕焼けの美しさ、姐やの背のぬくもりと懐かしさに加え、さらに深い悲哀が行間に明滅することは見逃し難く、それが名曲を名曲たらしめていることに異論はない。

 毎年の帰省の際、高速道路が兵庫県たつの市に入るところで、標識の赤とんぼに一瞬目を奪われる。
https://www.city.tatsuno.lg.jp/kurashi/bunka/jigyou/douyou.html

 三木露風(1889-1964)は同市出身の詩人である。大正の終わり近くに33歳で洗礼を受け、カトリックの信徒として生涯を全うした。バチカンから「聖騎士」の称号を授けられたそうである。

  

Ω

日本語は非論理的か?

2023-04-20 22:40:14 | 日記
2023年4月21日(金)

 「日本語は非論理的な言語であり、論理的な考究には向かない」と、大まじめに言う人が未だにある。昭和の亡霊に出遭った気分でギョッとする。
 そもそもこれ、「日本語は非論理的である」という言明自体が日本語で為されているのだから、
 A:そのように主張する人は、その言葉によって自身の主張を裏づけている
 B:言明自体が矛盾しており、正誤の判定不能(⇒ 「クレタ人は嘘つきとクレタ人が言った」のパラドックス)
 どちらにしてもとりあう必要はないのかもしれないが、この手の御仁が 
 「だから英語でかかれた論文を読みなさい」
 などと、したり顔で学生に指導するから困るのである。学生は教員が偉いものだと思っているので、「日本語は非論理的な言語である」という思い込みは効率よく伝染し、それが日本語の非論理的な使用をいっそう蔓延させる。
 僕自身も英語で書かれた論文を読むことを大いに勧めているが、理由は全く別のところにある。現実の日本語が非論理的な言明に満ちているとすれば、それは使うものの性根の問題であって、言語そのものの責任ではない。日本語は美しいばかりでなく、実用にも立派に耐える十二分に論理的な言語である。

 そう言い切るのに、理論と実証との両面で根拠がある。
 理論的根拠と実証的根拠などとはいかにも大仰だが、実はそんなに大したことではなくて。
 実証の方では、日本語以外の母語で育ち、後から学んだ日本語を話す人々(要するに外国人)の中に、驚くほど論理的で筋道立った書き方・話し方がしばしば見られること、これが何よりの根拠である。ドナルド・キーンなどは格別高尚な例として、TVを見ていても卑近な実例には事欠かない。イラン出身のサヘル・ローズさん然り、アメリカ出身のプロ棋士マイケル・レドモンドの解説の明晰なことは以前にも書いた。その他、尊敬すべき無名の生活人たち。
 彼らの語りを聞いていて感じるのは、正しい日本語を正しく使おうという意志の一貫していることで、逆に何となく書けて話せるあたりまえの状況への甘えが、日本語人の日本語から緊張感を奪っているのである。

 少し風呂敷を拡げるなら、幕末の開国以来、欧米発の情報が洪水のように流入してくる中で、日本人が日本語を使いつつこれに耐え、文化の広い領域でとにもかくにも欧米に伍してきたことが何よりの証拠ともいえる。日本語が非合理なものであるなら、総じて外国語が苦手でもっぱら日本語に頼ってきた日本人が、この厳しい一世紀半を生き延びられたはずがない。
 中国系マレーシア人留学生のことを思い出す。ポリグロットぶりを羨む同級生たちに対して、あるとき彼が珍しく声の調子を高くした。日本人は自分らの幸せに気づいていないというのである。彼自身は家族や華僑のコミュニティでは中国語(福建語・北京語)、マレーシアの公的生活ではマレー語、そして学校では英語、好きで使い分けるのではない、どれをとってもそれだけでは生活の全領域をカバーできず、仕方なく使い分けてきた。家族と語らうのと同じ日本語を使い、日本語で学問できる幸せを日本人は知るべきだと。それは羨望であると同時に、欧米発の途方もない質と量の情報を受けとめて再構成し得た、日本語と日本人への表敬の言葉でもあった。
 「マレー語は十分に論理的であり得るか」とマレーシア人が自問するならまだしも理由のあることだが、日本人が日本語について自問を通り越し、「(欧米語に比べて)非論理的」と決めつけるなど疑問というよりバカバカしい。
***
 理論的な側面について精密な議論を展開する準備はないが、一つ考えられるのは翻訳ということの一般的な困難と混同していないかということである。別個の二つの言語、とりわけ異なる文化背景をもち、さらには異なる文法体系に属する二つの言語の間で正確な翻訳を行うことは至難の業であり、「正確」という点に厳密さを求めるならほぼ不可能であるといってよい。共感的理解(!)によってかろうじて近似が可能になるのが翻訳の現実で、それにもかかわらず(あるいはそれだからこそ)翻訳がしばしば創造の起爆力になるのが文化交流の面白さである。
 ともかく翻訳は、不可能と言えるほど難しい。そのことをある観点から照射すれば、Aという言語体系における合理性が、Bという言語体系において理解されないということはあるだろう。しかしその場合、必然的に逆もまた真なのであり、日本語的思惟が英語的思惟に照らして不合理であるなら、英語的思惟もまた日本語的思惟に照らして不合理となっているはずである。日本語だけが欧米語に比べて一方的に非合理的と言うことはありえず、それがそのように見えるのは、欧米(語)に対して劣等感をもち、初めから負けと決め込んでいる者の目を通すからである。そしてもう一つは、教育と自己規律の問題だ。

 自分ではこれ以上の精密な分析をする元気がないので、誰か書いてくれていないかなと思ったら、おあつらえ向きに見つかった。
 望月善次『三つの神話に関するノート』と題する16ページの論考(「人文科教育研究」2巻、P.15-30, 1976)で、副題が「三つの神話」の何たるかを明示している。曰く、
 「日本語は難しい」
 「日本人は外国語が下手である」
 「日本語は非論理的である」

 「まえがき」から引用する。
 まず、「日本語の難しさ」についてであるが、言語をあやつる力は、人種、言語の相違を越えてあらゆる人間に共通する事実であるから、ある言語が難しくて、ある言語が易しいなどということは、原理的に存在しない。従って、勿論言語のうちの一つたる「日本語」が特に難しい言語であるということはあり得ないことになる。
 次に「日本人の外国語下手」であるが、上の「日本語の難しさ」で述べた如く、あらゆる言語間に、原理的難易の区別はないのであるから、その裏返しとして、当然、外国語上手の国民、外国語下手の国民などというものは存在しようはずがないのである。
 最後に「日本語の非論理性」についてであるが、これも既に述べた如く、どの言語を用いる人も(言語それ自体のもつ限界の上に立ってのことではあるが)一応は、自分の表現しようと思うことを過不足なく表現することが可能なのであるから、ある言語が論理的であるとか、論理的でないとかいう議論は余り意味のないことになる。
 以上述べた如く、三つのテーマは、いずれも原理的には存立不能である。それにも拘らず、これら三つのテーマに対する肯定的雰囲気は、日本国民の申に瀰漫している。敢えて「神話」と呼ぶ所以でもある。
 それでは、何故かかる「神語」は発生するのか。その発生の背景を以下順を遺って整理して行こうというのが、本ノート作成の狙いである。(以下略)
 
 のっけからブラボー、あとは読んでのお楽しみ。ブラボーな著者は岩手大学の名誉教授にして、三木与志夫の筆名で知られる歌人である。「神話」については、他にもこんなサイトが見つかった。

Ω


『シャーロック・ホームズ』の字幕から

2023-04-20 08:38:42 | 日記
2023年4月15日(土)

 映画やドラマに字幕をつける作業の苦労は察するに余りあり、経験談を集めれば内幕本も何冊分かのネタが、たちどころに集まることだろう。
 当ブログでも字幕を上げたり下げたり楽しませてもらっているが、概して批判が多くなるのは事の性質上いたしかたない。埋め合わせに最大の「あっぱれ」を挙げるなら何と言っても「交換神経痛」で、これは何かの賞を進呈したいぐらいの歴史的小傑作である。

 字幕のお手並み拝見しながら、近頃の土曜日の楽しみはBSのシャーロック・ホームズ。1980年代にイギリスで制作されたシリーズで、露口茂・長門裕之らの吹き替えも懐かしいものの、鑑賞はやっぱりオリジナルの言葉と声が聞ける字幕に限る。
 本日は『赤髪連盟』、依頼人が不可思議な事件の経緯を語るくだりで、さっそく字幕がやらかした。エンサイクロペディア・ブリタニカをAから始めてすべて書き写すという作業は、不可解で謎めいていたものの「とても面白かった」と依頼人がふりかえる。百科事典の内容を一字一句あまさず転記する馬鹿げた作業は、初めこそ法外な報酬につられた金目当ての苦行だったが、進めるにつれ博学知の魅力が依頼人を虜にしていくのである。
 そこで羅列される a で始まる言葉の行列 ~ abacus(そろばん)、abbey(大修道院)、architecture(建築) それに続く "Act of the Apostles" を字幕が「アポストルの機能」とやったのである。残念、『使徒言行録(使徒行伝)』をご存じなかったとは!
 続いて adulteration、anatomy、apes…依頼人がうっとりした表情で思い返すのを、ホームズとワトソンが目配せしながら笑いをこらえて聞いている、このあたりが作品の楽しみどころで、原作には書かれていない装飾である。
 
 もう一つ、今度は銀行泥棒をとりおさえるクライマックスに先だって、ホームズが珍しくロンドン警視庁から応援を頼む。やってきたのは屈強の若い刑事ジョーンズ、字幕によれば大した能吏ではないが「獲物に食いついたら絶対離れないのがいいところ」だという。
 このくだりでホームズの口から出た lobster という言葉が耳に引っかかった。これはぴんと来る話で、ロブスターの巨大なハサミはダテではなく挟む力がすさまじく強い。自重の300倍だとか、ゴリラの握力と同じ500kg重だとか、ライオンの咬合力より強いとか、ネットを引けばその種のエビデンス(?)が山ほど出てくる。アメリカの店頭で売られる生きたロブスターは、必ずハサミを縛ってあった。挟む力に比べてハサミを開く力が弱いので、軽く止めただけでいいらしいが、それを怠って挟まれたらエラいことになる。
 ホームズはジョーンズ刑事の褒むべき資質をロブスターのハサミに譬えた訳で、それならここは「食いついたら離れない」の前に「スッポンみたいに」と一言加えてほしかった。
横浜丸魚株式会社 https://www.yokohama-maruuo.co.jp/shokuiku/%E3%83%AD%E3%83%96%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%EF%BC%9F%E3%82%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%B5%B7%E8%80%81%EF%BC%9F%E3%81%A9%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%81%8C%E6%AD%A3%E5%BC%8F%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%80%82/20211217.html

 数日経ってあらためて気になり、例によって原作を確認してみた。PDFが無料でダウンロードできるありがたい時代である。

 A で始まる言葉については、こんな具合。
 "Eight weeks passed away like this, and I had written about Abbots and Archery and Armour and Architecture and Attica, and hoped with diligence that I might get on to the B’s before very long..."
 面白いことに、テレビドラマの脚本家は Architecture だけを残して他の言葉を全部入れかえている。こんなディテイルにどんな狙いがあってのことか?

 一方、lobster はこちら。
 "He has one positive virtue. He is as brave as a bulldog and as tenacious as a lobster if he gets his claws upon anyone."
 「ブルドッグのように勇敢」は省かれ、「ロブスターのように食いついたら離れない」が残されたのだ。 tenacious などという単語は知らないから聞きとれもしないが、ロブスターと聞こえたのは正しかったのである。
 ついでながら、ロブスターとオマール海老が同じものであることを、調べのついでに初めて知った。どっちにしてもおいそれと口には入らないのだけれど。
Ω

二十四節気 穀雨

2023-04-20 07:05:56 | 日記
2023年4月20日
 

穀雨 旧暦三月中気(新暦4月20日頃)
 春の最後の二十四節気、春の終わりというのは実感そのものだが、下記はどうだろうか。「けむるような春雨」は二十代の頃の記憶に確かにあるが、昨今の雨はもっと激しく容赦がない。
***
 この頃には、けむるような春雨が降る日が多くなります。この雨が田畑を潤し、穀物など種子の生長を助けてくれます。
 「百穀を潤す春雨」から穀雨の名があり、種まきに適した時期としても知られます。
 この時期に長引く雨を、菜種梅雨とよびならわしています。
*
 清明から穀雨の頃に降り続く雨のことを、菜種梅雨とよびます。菜の花の咲く時期にあたることから、その名があるようです。
 春の長雨には、このほかにも「催花雨(さいかう)」「春霖(しゅんりん)」などの名前があります。
 催花雨は花が早く咲くのを促すの意、天からの恵みの雨です。
***
 「霖」はきれいな字で、木々に雨が降り注ぐ風景が浮かんでくる。実際、「三日以上続く長あめ」、転じて「めぐみの雨」のことだそうな。
 霖霖(りんりん) 雨が降り続くさま
 霖霪(りんいん) なが雨
 霖瀝(りんれき) なが雨が降る
 何やら見覚えがあると思ったら、張作霖の名にこの字があった。
 「淫」は例の特化された用例ばかりでなく「度をこす」「ほしいままにする」の意があり、この字自体に「ながあめ」の意味もあるのだと。

七十二候
 穀雨初候 葭始生(あしはじめてしょうず)新暦4月20日~24日
 穀雨次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)新暦4月25日~29日
 穀雨末候 牡丹華(ぼたんはなさく)新暦4月30日~5月4日

 そうか、数日前の電話で父が「草が一気に伸び出した!」と叫んだのがこのことで、雨の降り方や強弱はさておき、この時期の雨が草木にとって慈雨であることは変わらないのである。成長の号砲とでも言っておこうか。
Ω