散日拾遺

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内臓と情動 ~ 補足

2017-09-28 12:47:43 | 日記

2017年9月28日(木)

 σπλαγχνιςομαι (憐れむ)という言葉は、σπλαγχνον (腸)という言葉から派生している。「情は内臓にあると思われていたところから」と手許の辞書にあるが、甚だざっくりした解説である。どの内臓がどの情とどう関連するかが知りたい。

 医学用語はギリシア語由来のものが極めて多いので、錆びつきかけた記憶をゴリゴリ当たってみるが、使えそうなのは一つだけ。

 spleen 脾臓

 これは spl までの子音が共通だからほぼアタリだろう。Webster にはギリシア/ラテン語の splen 由来とある。ヒポクラテスは脾臓が黄胆汁を吸収して血液を浄化すると考えた。脾臓の機能が低下すると黄胆汁が煮詰まって黒胆汁(melancholia)になり、これが鬱病(melancholia)の原因であるとする。

 現代英語では spleen に「不機嫌、癇癪、いじわる、恨み、遺恨」といった意味が託されている。形容詞の splenetic は「不機嫌の、気むずかしい、怒りっぽい、意地の悪い」といったことらしい。

 in a fit of spleen 腹立ちまぎれに

 He vented his spleen on me. 私に鬱憤をもらした(当たり散らした)

 「鬱憤」という言葉は、よく見れば意味深長である。鬱屈した憤りのことだろうが、抑鬱が精神分析理論では怒りの抑圧に関連づけられることを想起させる。

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 内臓と精神活動の関連については、外せない連想が一件ある。統合失調症はかつて精神分裂病と呼ばれた。本人にも家族にも伝えられたものではないこの病名を、よくも一世紀にわたって使い続けたものだが、この病名はもともと翻訳の産物である。

 オイゲン・ブロイラーが主唱して schizophrenia の病(群)名が確立されたのが20世紀初め。これはギリシア語を用いた造語、σχιζο-φρενια である。σχιζο < σχιζω は「裂ける、分裂する」で、「天が裂けて”霊”が鳩のように降ってくるのを御覧になった」(マルコ 1:10)という下りの「裂ける」はこれだ。φρενια は「横隔膜」が原義だが、「横隔膜 = 呼吸 = 命」という連想を踏まえてか、「魂」「精神」の意に転じた。

 そういう次第だから、schizophrenia を精神分裂病と訳したのは直訳としては正しい(少なくとも間違ってはいない)が、ここに陥穽がある。欧米語で schizophrenia と言っても大多数の人間は背景にどんな意味がこめられているか知る由もないが、日本語で「精神分裂病」と言ったらあからさまな意味しかない、誰でも青くなって震え上がる。直訳としては正しいが、言葉の機能は大化けしてしており、その意味では大誤訳なのである。この語が公式に使用されたことで患者・家族の不幸が著しく増幅された。2002年の病名改正は至当ながら遅きに失したものだった。

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 ついでのことに有名な「ヒステリー」。この語はギリシア語の子宮に由来する。「女性の体内で子宮が暴れている」との解釈から当該現象を「ヒステリー hysteria」と呼んだとされる。

 初めて聞いた時はとんでもないと感じたし、事実とんでもない話だが、上述の一連の事情を知ってみると「とんでもなさ」がいくらか違って感じられる。特定の内臓が機能変調をきたす時、これに照応した特定の精神症状が起きるという図式は、ヒポクラテス時代にはむしろ平凡な発想だった。「子宮-ヒステリー」ではその照応のあり方がいかにも荒唐無稽なのだが、荒唐無稽という点では脾臓の機能変調と鬱病の照応だって同じことである。ヒステリーがきわだって荒唐無稽なわけではなく、実証的な根拠を欠いた古代の病因論全体が残念な結果を今日まで遺しているのだ。

 その種の誤謬を理由に言葉のアラを探していったら、夥しい数の術語が使用不能になるだろうが、「ヒステリー」は女性・母性に失礼過ぎるという点で、使用停止に一理二理あろう。だいいちこの現象は女性に多いけれど男性にも立派に存在する。問題はDSMが名称変更では飽き足らず、「ヒステリー」に相当する括りを捨てて個別の症状に解体してしまったことだ。その過程で使用する用語も散文的・説明的なものに変えられているが、ため息の山を築くだけなのでいちいち書かない。

 DSMとICDは概ねよく歩調を揃えてきたが、DSM-Ⅳの「打ち過ぎ」以来不協和音が聞こえ始めており、これなどその一例である。DSM-Ⅳ、DSM-5の解体路線に対して、ICD-10は解離性[転換性]障害という苦心のにじむ名称で踏みとどまった。解説文にも現象の一体性に対する配慮が滲み、僕などにはよほど実態に即したもののように思われる。ICD-11は2018年5月のWHO総会で最終成果物の採択が予定されており、どんなものが出てくるか期待と不安こもごもといったところ。

     

Ω


σπλαγχνιζομαι の用例一覧

2017-09-28 11:14:53 | 日記

2017年9月28日(木)

 Fさんに触発され、福音書における σπλαγχνιζομαι の用例を調べてみた。 σπλαγχνιζομαι ~ 無理矢理カタカナ表記すれば、スプラグクニゾマイとでも書くのかな、舌噛ムゾオマイ・・・辞書を見れば、

 憐れむ、同情する to be moved with compassion

 という解説が当ててある。やっぱり compassion か。

 用例は福音書ばかりで合計12箇所、マタイ5箇所、マルコ4箇所、ルカ3箇所、ヨハネには使われていないのが興味深い。マタイとマルコの用例のざっと半分は互いの並行箇所である。面白いのはルカによる福音書で、マタイ・マルコの用例との並行箇所ではこの言葉を一度も使っていないのだ。全てルカ固有資料の部分、しかもその3箇所というのが「やもめの一人息子をよみがえらせる」くだり、「善きサマリア人の譬え」、「放蕩息子の譬え」と来ている。ルカの最もルカらしい場面ばかりではないか。

 そのルカから、まず見てみる。

 ルカ 7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。

 ルカ 10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い・・・

 ルカ 15:20 父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 7:13は、やもめが一人息子に死なれて葬式を出す場面、まさに腸のちぎれるような慟哭がありイエスはそれに共感する。とても心穏やかに読める箇所ではない。これを標準に 10:33 、15:20 を読む時、それぞれの場面の感情の温度が一変する。15:20 は死んだと思い込んでいた息子が帰ってきた時の父親の心情だからまだしも分かるとして、行き倒れの異邦人に対して「腸のちぎれるような」憐れみを抱いたサマリア人の共感能力は尋常なものではない。この逸話は一般に「善きサマリア人 a good Samaritan の譬え」と称されるが、すましかえった善さではない、「深い深い憐れみの心をもったサマリア人」とでも呼ばなければ真意が伝わらないようだ。

 戻ってマタイ。

 マタイ 9:36 イエスはまた、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

 マタイ 14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

 マタイ 15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」(マルコ 8:2 の並行箇所)

 マタイ 18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 マタイ 20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

 ちょっと面白いのは18:27 で、この話の後続部分で「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」とあるところ(18:33)は、σπλαγχνιζομαι ではなく ελεεω なのである。日本語訳はすべて「憐れむ」で通しており、それで何かが決定的に失われる訳ではないが、かすかな物足りなさを禁じ得ない。文語訳聖書は27節を「あはれみ」とひらがな表記し、33節では「憫み」と漢字を当てている。それ自体が原語のニュアンスを直接表すものではないが、注意深い読者は何らかの違いがあることを察して調べるかもしれない。それを期待して漢字を当てたり当てなかったりしたのだとすれば、これまた細やかな仕掛けである。

 そしてマルコ。

 マルコ 1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると・・・

 マルコ 6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(マタイ 9:36 and/or 14:14の並行箇所)

 マルコ 8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」(マタイ 15:32 の並行箇所)

 マルコ 9:22 「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

 マルコはマタイの原資料と考えられているから、6:34 を採用するにあたってマタイは 9:36 と14:14 の二箇所に分け、重複採用したのかもしれない。群衆に対するイエスの共感が倍加強調される形である。いっぽう、9:22 については並行箇所である マタイ 17:15 はελεεω、同じくルカ 9:38 は「見てやってください」という意味の表現になっている。群衆に対するそれとは逆に、個別の癒しに対するイエスのコミットメントがマタイで薄められているとすれば、これまたマタイの狙いからして分かるような気がする。

 以上、Fさんへの御礼代わりに調べてみた。

 僕は昔から断然マルコが好きだったが、時が経つにつれルカに惹かれるようになった。いちばんのきっかけは、もちろん24章である。

Ω

 


compassion 再発見

2017-09-27 20:46:44 | 日記

2017年9月27日(水)

 一泊研修会の事前準備、今回は準備スタッフが全員の本音を聴取し、忌憚のないところが多数出てきていた。それを包まず話し合いましょうという当日の趣旨なので、悪くすると空中分解する懸念があったが結果は逆に良い方に転んだ。確かな予測があったわけではないけれど、何とかなるだろうとさほど悩みもしなかったのには、それなりの理由があった。

 一日目の仕込み作業で諸々の基本事項を確認する中に、例によって同情~共感の一連の概念について整理しようとして、思わぬ混乱出来。皆の力を借りて混乱を抜け出すプロセスで、思いがけず多くのことを教わった。

 empathy(英語の造語)、compassion(もともとラテン語)、sympathy(もともとギリシア語)と遡る、その先にもう一つヘブル語の古層を想定することができる。いずれにせよ、古層へ遡る/降っていくにつれて身体との関わりが強くなり、新しい概念ほど身体との乖離が目立ってくるとY牧師の指摘。

 ついでに新約聖書のギリシア語で「憐れむ」にあたる言葉を見てみると、一つは「キリエ・エレイソン」のフレーズで知られる ελεεω だが、もう一つ σπλαγχνιζομαι という動詞があり、これは語源的に「腸(はらわた)」とつながっている。「煮えくりかえるような」「ちぎれるような」と日本語にもある通り断腸の慟哭とでもいったもので、鮮烈な表現であるだけに用例が少ない。これなども強い身体性を備えた言葉であり、イエスはしばしばこのような腹からの憐れみに突き動かされつつ、癒しと宣教にあたった。

 なるほどそうかと感心していたら、休憩の際にFさんが σπλαγχνιζομαι の用例について、記憶を頼りにいくつかの箇所を指摘された。準備なしに想起できるのは、日頃よほど本気で読み込んでいる証拠である。

 そのFさんから compassion の位置づけについて質問あり、訊かれて欠けに気がついた。年来 sympathy と empathy については考えるところがあったが、compassion については sympathy(希)の羅語版というぐらいでさほど注意を払っていなかった。しかし両者には微妙なニュアンスの違いがある。あるいは微妙にニュアンスを違えて使うことに意義がありそうだ。何といっても compassion は com-passion なんだから、 passion(苦難・受難)を共にするという意味をこめることができるだろう。そこで「共苦」という訳語が案出されることにもなる。

 それで思い出したが、「共感都市論」と訳される Kellhear の著書とアイデアは原語で "Compassionate Cities" であったはず。となると、共に目ざすゴールは compassion にこそあるとも言えそうである。あらためて整理すれば、

 sympathy 同情

 compassion 同情、共苦、共感(一般的な意味での)

 empathy 共感(共感的理解などと言う時の、心理学用語としての)

 こういうラインアップになるのかな。

 もう一つ、「還暦のホラ話」と自ら称してF牧師が大いに幻を語られた。これぞ研修会の醍醐味、何たって「幻なき民は滅ぶ」のだからね。この度の幻の標題は「魂のケアの共同体」というのである。ケアも共同体も英語の頭文字は c で、今回よくせき c がブームである。

 薄曇りの葉山で compassion と community を再発見し、帰ったらねぎらいのお菓子が届いていた。これはもうプロの技である。

 

 Ω


韻のことなど

2017-09-27 11:02:34 | 日記

2017年9月27日(水)

 いったん戻って、先に転記した『雑詩』のこと。脚韻が素朴でたいへん見やすい。

   人生無根蒂 飄如陌上塵

   分散逐風轉 此已非常身

   落地爲兄弟 何必骨肉親

   得歡當作樂 斗酒聚比鄰

   盛年不重來 一日難再晨

   及時當勉勵 歳月不待人

 塵・身・親・鄰・晨・人で、日本語の音読みから容易に逆推できる。絶句や律詩のようなスキップルールもなく、そのあたりが「雑詩」たる所以でもあろうか。四声についてはどうなのだろうかと気になって調べると・・・

   塵(Chén)身(Shēn)親(Qīn)鄰(Lín)晨(Chén)人(Rén

 身と親は一声、他の4つは二声のようだから、そこまで揃えずとも良いのかな。そもそも -en と -in が混じってるのはどうなのかなど、生兵法が早速躓いている。

 「韻」は日本語ではあまり注目されないところで、アメリカ時代に学齢前の簡単な知的能力チェックを受けた長男が、他のことは全て花丸なのに rhyme (押韻)だけクエスチョンを付けられた。家庭で教えたり遊んだりしないから当然のことで、長男は何を聞かれてるのか意味が分からなかったらしい。逆に英語圏の子どもたちは教える(教わる)までもなくいつの間にか rhyme のセンスを身につけている。ビートルズの歌詞だって至るところ押韻だらけだ。("And I've been working like a dog./I should be sleeping like a log." dog と log 〜 「ア・ハードデイズ・ナイト」"She asked me to stay and she told me to sit anywhere, so I looked around and I noticed there wasn't a chair." any-where と chair 〜 「ノルウェーの森」)たぶん、英語だけではないのだろう。ドイツ語などは活用語尾の煩雑な規則性のおかげで逆に脚韻が踏みやすく、ズルいなと感じたものだった。活用語尾を大胆に切り捨てた英語ゆえ、逆に押韻のセンスが磨かれたということもあるだろうか。

 日本語の場合、文学の表看板や教科書では韻についてあまり語られないが、日本語が押韻に馴染まないかというと、そんなことは断じてない。「優しい yasashii」と「悲しい kanashii」、「怒る ikaru」と「叱る shikaru」、「葉っぱ happa」と「ラッパ rappa」と「河童 kappa」、同じ要領で母音による押韻の例なら無尽蔵に作り出せる。母音が5つだけに限られるうえ、母音の出現頻度が高いから、母音の語呂合わせには絶好の言語のはずなのだ。現に詩人は大いに活用しており、サブカルチャーの担い手らも然り。この手の遊びを、子どもたちにうんとやらせたら良いのではないか。河童が葉っぱを傘にしてラッパを吹いてると思えば、それだけで鳥獣戯画の一場面ができるあがる。

 頭韻は、これもあるよ、僕も使ったと威張っておこう。

 「明け烏勝ちて帰れと子らに啼く」 〜 「カラス」「勝ちて」「子ら」、語頭K音の連続に力を込めたのである。

Ω


ここはここ

2017-09-27 09:58:01 | 日記

2017年9月26日(火)

 

 

 葉山町湘南国際村の某施設にて、CMCC夏の一泊研修会開催。宿から西向きの展望である。

 視野前方の急坂に沿って風が吹き上げ、時折これに乗ってトンビが目の高さに舞い上がってくる。晴れた日には相模湾越しに、横たう伊豆半島とその向こうの富士山が遠望できる仕掛けだが、残念ながら二日とも薄曇りで想像の目をこらすほかはない。

 研修会は場の力に支えられ、とても実りあるものになった。この件あらためて。

Ω