散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

2月29日 リットン調査団 東京入り(1932)

2024-02-29 03:43:36 | 日記
2024年2月29日(木)

> 1932年(昭和7年)2月29日、満州事変の処理に関して現地調査を行うため、国際連盟が派遣したリットン調査団が東京に到着した。
 この調査団は、インドのベンガル州総督などを務めた英国人リットン卿を団長に、仏、米、独、伊のメンバーを含む5人で構成され、紛争当事国である日本と中国からは、それぞれ外交官が一名ずつオブザーバーとして加わっていた。
 日本は満州国設立を既成事実化するため、調査団が東京に到着した翌日3月1日に「満州国」建国を宣言している。
 一方、リットン調査団は東京で、日本政府、軍部関係者、実業界の代表者と接触した後、3月13日に中国の上海に到着。6月初旬まで満州で現地調査し、7月中旬から北京で報告書の作成を開始した。9月にこれを完成し、10月一日に日中両国に通達している。
 これは前年9月に起きた「柳条湖事件」を日本の正当な軍事行為とは認めず、したがって「満州国」建国を否認、満州を中国の主権範囲内とした上で、自治政府を作り非武装地帯にするという、やや折衷的な内容を含むものだった。
 日本政府はこの調査内容を不服とし、翌33年2月に国連総会で「満州国」の不承認が正式に決議されると、連盟脱退の挙に出るのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.65


柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査するリットン調査団

 歴史教科書などで見おぼえた写真である。調査団報告を上記は「やや折衷的」と評しているが、実際には日本の権益を認めて「名を捨て実をとる」道を提示しており、日本側とすれば上首尾だったとの指摘がある。欧州諸国にはこれなら日本も矛を収めるだろうとの観測があった由。
 この時期、イギリスとアメリカには温度差があり、自国の中国進出の出入り口を塞いでいる日本を全面排除したいアメリカに対し、イギリスの方はかなり妥協的だった。しかしこの後の日本は、妥協に至る選択肢を端からつぶしていってしまうこと周知の通り。
 19世紀のイギリスの悪辣さは歴史に冠たるものがあり、後発の日本帝国主義には「イギリスがしてきたことの何分の一かを日本がしてどこが悪い」ぐらいの気分があったかと想像する。しかし第一次世界大戦を経て、世界史の歩みは前世紀とは異なる段階へ進み入りつつあった。その理解が日本人に決定的に欠けていたと思われる。



 リットン卿、正式には第二代リットン伯爵ことヴィクター・アレグザンダー・ジョージ・ロバート・ブルワー=リットン Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd, Earl of Lytton(1876年8月9日 - 1947年10月25日)

 イートン・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業。海軍本部でキャリアを積んだ後、インド省政務次官、ベンガル総督、インド総督代理などを歴任。1927年から1928年にかけては国際連盟インド代表団の団長、1931年にはイギリス代表団の団長を務めており、いわばアジア通である。
 当時、東京日日新聞は「支那における馬賊の状態や日貨排斥、支那に確固たる中央政府なき実情等については、インド在任中にも同様の苦心をしたので、日本に対して同情的理解を有している」と解説したという。あながち外れてはいない観測で、報告書を見てリットンへの期待が裏切られたと感じたとすれば、その方が見当違いだったのである。
 リットン卿には二男子があったが、長男は1933年に航空機事故で死亡、次男は1943年に北アフリカ戦線のエル・アラメインで戦死した。エル・アラメインは智将ロンメルがはじめて敗北を喫し、大戦の転換点となった激戦地である。二子をともに失って卿が他界したため、爵位は卿の弟が継承することとなった。

Ω

2月28日 利休 秀吉の命により自刃(1591年)

2024-02-28 03:36:19 | 日記
2024年2月28日(水)

> 1591年(天正19年)2月28日、 69歳になる茶人、千利休は豊臣秀吉によって切腹を命じられ、茶室普審庵において自刃した。介錯は蒔田淡路守が務め、その首は秀吉のいる聚楽第に届けられたが、秀吉は実検することなく、一条戻り橋で晒し首とされた。
 千利休は、現在も続く茶道の家元、千家の祖である。また、茶道という日本固有の芸術を生み出した侘び茶の探求者である。
 もともとは堺の商家のだが、堺を直轄した織田信長に茶頭として仕え、信長亡き後は秀吉に仕えた。当時の「茶」は、要人たちの社交手段としてたいへん重要なものであった。利休は、茶会というイベントのブレーンとして秀吉に重用され、1585年の禁中茶会、 1587年の北野大茶会などの豪華な茶会で秀吉の文化人としての地位を高めた。しかし、この時期、利休自身は豪華さとはかけ離れた、すべての無駄をそぎ落とすことによって生まれる侘び茶の世界を追求していた。
 利休が切腹を命じられたのは、大徳寺の山門に利休の木像が置かれたことが増上慢であるとされたためだ。しかし、政治的に他の理由があると解く諸説がある。利休の首は、己の木像に踏みつけられる形で晒されたという。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.64


絹本著色千利休像(長谷川等伯画、春屋宗園賛、不審菴蔵、重要文化財)

 千利休:大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
 「利休」の名は晩年での名乗り、茶人としての人生のほとんどは宗易で通した。号の由来は「名利、既に休す」かとされたが、現在では「利心、休せよ」の意と考えられている。「才能におぼれず、老古錐(使い古して先の丸くなった錐)の境地を目指せ」との意味だという。
 秀吉とは折り合うべくもない世界観であろう。
 
 利休が秀吉の怒りを買った事情について、Wikipedia は諸説をあわせて12項目ほども丁寧に紹介している。
  1. 茶器類を法外な高額で売り、私腹を肥やした「売僧の行い」の疑いを持たれた。
  2. 二条天皇陵の石を勝手に持ち出し、手水鉢や庭石などに使った。
  3. 茶道に対する考え方で秀吉と対立した。
  4. 春屋に依頼された大徳寺の山門の供養の偈(「千門萬戶一時開」)が、利休の影響力の大なることを見せつけるものと受けとられた。
  5. 茶会のあるごとに利休との器の違いを見せつけられて恥をかかされ、秀吉の恨みが募っていた。
  6. 利休のつくった信楽焼の茶碗を処分するよう秀吉が命じたのを、利休が拒否した。
  7. 秀吉が利休の娘を妾に望んだが、利休が拒否した。
  8. 豊臣秀長死後の政争に利休が巻き込まれた。
  9. 秀吉の朝鮮出兵を利休が批判した。
  10. 権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決。
  11. 堺の権益を守ろうとしたために疎まれた。
  12. 利休が修行していた南宗寺は徳川家康とつながりがあり、利休が家康の間者として茶湯の中に毒を入れ、茶室で秀吉を暗殺しようとした。

 似たような話も重複もありで、概ね同工異曲といったところ。政治権力者として他の比肩を許さない秀吉が、精神世界においてまで無双の独裁者たらんとし、しかもそこでは到底利休に勝てようもなく、相手もそのことを知悉しているのが我慢ならなかったのであろう。嫉妬といえば一言ですむことかもしれない。「男同士の嫉妬ほど怖いものはない」とわが母の訓えにもある。
 利休は大男だったらしく、現存している愛用の甲冑から推測して身長180㎝ほどもあったかといわれる。一方、秀吉は小男だった。
 それはさておき、カトリックのミサと茶の作法の双方にいくらかでも心得のある者なら、所作の一部がよく似ていることに必ず気づくはずである。ごく普通に考えて、聖杯を扱う司祭の所作が茶人にヒントを与えたものであろう。実際、秀吉が伴天連追放に乗り出すまでは大名の中にキリシタンは珍しくもなく、茶はすべての武人のたしなみであったから、現在のイメージで考えるより両者はずっと近く、重なりも多かったのである。
 利休キリシタン説を主張する者もあり、これは直接の証拠が何もないから採り得ないとしても、従容たる死をもって精神世界の勝者たるを示した静かな益荒男が、キリシタンとその教えに対してどのような内心の姿勢であったか、少なからず興味がもたれる。
 
○ 利休遺偈
  人生七十 力囲希咄   (じんせいしちじゅう りきいきとつ)
  吾這寶剣 祖佛共殺   (わがこのほうけん そぶつともにころす)
  提る我得具足の一太刀  (ひっさぐる わがえぐそくの ひとつたち)
  今此時ぞ天に抛     (いまこのときぞ てんになげうつ)
久須見疎安『茶話指月集』(元禄14年(1701年)
 
Ω

2月27日 徳川光圀『大日本史』の編纂に着手(1657年)

2024-02-27 03:07:41 | 日記
2024年2月27日(火)

> 1657年(明暦3年)2月27日、水戸第二代藩主、徳川光圀は駒込の別邸(現東京大学農学部)内に史局を開設し、『大日本史』の編纂という大事業に取りかかった。
 徳川光圀といえば、何といっても『水戸黄門漫遊記』が有名だが、これは全くの後世の創作であり、天下の副将軍だった事実もない。
 ただ、光圀は幼少の頃から非常に利発で、そのため、第三子であったにもかかわらず、二人の兄を飛び越えて、家督を相続している。これに関し、次のようなエピソードが残っている。父、徳川頼房の跡取りを決めるため、頼房の側近の中山新吉が三人の息子の品定めに来た時のことだ。六歳の光圀は「爺、遠路大義である。これを遣わす」と言って、膳の鮑を皿ごと取って差し出した。中山は、その堂々たる態度に感銘を受け、光圀こそ家督を継ぐにふさわしい大器であると感じたというのである。
 こうして光圀は水戸藩を継ぐが、兄の立場を慮り、第三代は長兄の子に継がせることを誓う。そして、自らは『大日本史』の編纂に生涯をかけたのである。歴史編纂を思い立ったのは、十八歳の時に『史記』の「伯夷伝」を読んで感動し、修史の志を立てたのがきっかけだと、「大日本史叙」には書かれている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.63

徳川 光圀
寛永5年6月10日〈1628年7月11日〉 - 元禄13年12月6日〈1701年1月14日〉
 
 水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男、徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
 名君の誉れ高い光圀であるが、「少年時代の光国(はじめはこの字をあてていた)の素行はいわゆる不良」とある。いったいこれで何人目だろうか。
 「派手な格好で不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いをあり、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたりもし、さらには辻斬りを行うなど」とは、念の行ったことである。もっとも「兄を差し置いて世子とされたことが少年の気持ちに複雑なものを抱かせ云々」と注釈にあるのは、分からないではないことだ。
 織田信長の奇行は平手政秀の諌死を招くことになった。光国の方は上述の通り、『史記』の「伯夷伝」に出会って学問に目覚め、生活も改まったたというが、少々出来過ぎているようにも思われる。
 伯夷は孤竹国の王子であったが、弟の叔斉と互いに王位を譲り合い、結局二人して出奔することになった。周の西伯の徳を慕って身を寄せようとしたが、西伯没するや跡を継いだ武王が、暴君で知られた殷の紂王を討たんとするのを知り、諌言したものの容れられず首陽山にこもる。周の食物を口にするのを潔しとせず、薇(ぜんまい)を採って食し、遂に餓死するに至った。
 高校の漢文教科書に載っていた「伯夷伝」クライマックスを書き下し文で。

 彼の西山に登り 其の薇を采る
 暴を以て暴に易へ 其の非を知ず
 神農・虞・夏 忽焉として没す 我安くにか適帰せん
 于嗟(ああ)徂(ゆ)かん 命の衰ヘたるかなと
 遂に首陽山に餓死す 
 此に由りて之を観れば 怨みたるか非ざるか

 これに続いて、「善人がしばしば非業の死を遂げ、悪人がしばしば天寿を全うする」現実の指摘を経て、「余甚だ惑へり、所謂天道は是か非か」という近代感覚にも通じる司馬遷の問が語られるのだが、この一連の物語のどのあたりが迷える不良世子の心に訴えたのか、にわかには判然としない。
 
 それはさておき、改心のきっかけとなった『史記』が『大日本史』のモデルでもあることを初めて知った。幕府が1662年(寛文2年)に『本朝通鑑』の編纂を開始したが、これは編年体である。歴史に目覚めた光圀はその向こうを張って、紀伝体の史書編纂を思い立ったのだ。できあがったものは本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女・群臣)170巻、図表154巻、全397巻226冊という大部に及び、神武天皇から後小松天皇までの百代の帝王の治世をカバーする。記事は出典を明らかにし、考証にも気を配った質の高いものであるという。明暦3年(1657年)に着手され、いちおうの完成を見たのはは光圀晩年の元禄10年(1697年)だった。『大日本史』と命名されたのは、光圀没後の正徳5年(1715年)である。
 編纂作業が進む中で、光圀は明の遺臣・朱舜水に出会い、大いに影響を受けたとされる。とりわけ『大日本史』の一つの特徴とされる南朝正統論については、朱舜水に励まされたものらしい。漢民族の王朝である明が1644年に満州族の清に滅ぼされた。日本人を母とする鄭成功(1624-1662)は台湾に依って抵抗を続け、多くの明人が日本に渡来した時代である。朱舜水も、そもそもは鄭成功からの請援使として日本に派遣されているから、南朝に肩入れする心理は理解しやすい。
 その後、明の復興を諦めて日本に定住し、81歳で江戸で没した。わが国と中国とのつながりの深さや、「鎖国」というシステムが実際にはかなり選択的であったことを示すものでもある。

朱 舜水
万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日)
漢土西看白日昏
傷心胡虜拠中原
衣冠誰有先朝制
東海翻然認故園 

 朱舜水が徳川光圀にもたらしたものは、南朝正統論の他にもある。中華麺である。光圀先生すっかりこれが気に入って、麺の作り方や味つけの仕方まで教えてもらい、自分の特技としてしきりに調理したらしい。だしは長崎経由で輸入される中国の乾燥豚肉からとり、薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミの五辛を使うという凝りようで、要するにラーメンである。この料理に後楽うどんという名をつけ、客人や家臣らにふるまったとの記録も残っているそうな。
 食べてみたかったな、これは。

Ω

2月26日 ショパンがパリでデビュー演奏会を開く(1832)

2024-02-26 03:31:39 | 日記
2024年2月26日(月)
 二・二六事件じゃないんですね…

> 1832年2月26日、ショパンはパリのプレイエルホールでデビューコンサートを開いた。それからほぼ16年後の1848年2月に、ショパンは同じホールでパリ最後のコンサートも開いている。
 フレデリック・ショパンは1810年ポーランドに生まれた作曲家・ピアニストである。 20歳の時、演奏旅行中に革命が起こり、故国ポーランドに戻れなくなって各地を転々とした。 1832年のコンサートは、こうしてやってきたパリで、社交界デビューのために開いたものだ。貴族や富豪の子女のピアノ教師を務めるのは、当時の演奏家の大きな収入源だった。生活の安定を得たショパンは、望郷の思いを抱えつつ、この後の人生の大部分をパリで過ごすことになる。
 数年後、ショパンは結核にかかる。彼はこの病に生涯苦しみ、そのためか大きなリサイタルは30回ほどしか開かなかった。作曲家リストの紹介で女流文学者ジョルジュ・サンドと出会ったのもパリだった。彼らは九年間にわたる交際を続け、その間にショパンは多くの美しい曲を残した。サンドは献身的にショパンを支えるが、やがて訪れた破局はショパンを打ちのめす。スポンサーも失い、貧窮してリサイタルを開かざるを得なくなったショパンの、パリでの最後のリサイタルが開かれたのは、 二月革命前夜のことだった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.62


フレデリック・フランソワ・ショパン
Frédéric François Chopin(仏) 、Fryderyk Franciszek Chopin(波)
生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もあり) - 1849年10月17日)

 『別れの曲』という古い映画がある。
 1934年にドイツ語で制作された "Abschiedswalzer" という作品だが、"La chanson de l'adieu” と題するフランス語版が続けて制作され、後者が1935年に日本で上映された。1980年代にNHKが「世界名画劇場」でドイツ語版を放映したところ、「昔見たもの(=フランス語版)と違う」との問い合わせが多数寄せられたとWikipediaが紹介している。
 ドイツ語版とフランス語版といえば『わが青春のマリアンヌ』が思い出される。こちらは戦後の作品だが、どこか似た香りがする。『マリアンヌ』は1970年代にやはりNHKでフランス語版が放映された。その思い出があって数年前に購入したDVDがドイツ語版で、最初は事情が分からずキツネにつままれる思いをした。独仏両語で二重に作られるということが、昔はよくあったのだろうか。

 『別れの曲』のドイツ語版はビデオ録画して何度か見直し、まだ捨てずどこかにある。作中でパリに出てきたショパンの才能をいち早くリストが見出し、若者を世に出すために一計を案じる場面がある。リストがコンサートを開催し、聴衆が会場を埋めた。演奏が始まってしばらくすると室内の灯りがすっかり落とされ、暗闇の中に響くピアノの音色が聴衆を魅了していく。やがて灯りが点いて見れば、いつの間にかリストと入れ替わってショパンが演奏しているのである。高名なリストに匹敵する天才ピアニストの登場を、一瞬にしてパリの社交界が知るという次第だが、これに類する事実があったのかどうか。

 ジョルジュ・サンドは恋多き女性で、しかも大物食いだった。交遊歴の中には、詩人のド・ミュッセや他ならぬフランツ・リストの名が見えている。ショパンと別れた後は政治への傾斜を強め、マルクスやバクーニンとも交流があった由。二月革命後は隠棲して文学に没頭し、ユーゴ―、フローベール、ゴーティエ、ゴンクール兄弟らと友情を結んだとある。旺盛な生命力と多彩な才能を、形而上にも形而下にも生涯にわたって発揮し続けたのであろう。
 ショパンは結局捨てられたというのだが、これほどの人物が女盛りの九年間を彼一人に捧げたとすれば、それ自体奇跡というべきかもしれない。
 「もしショパンがG.S. (ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら、ケルビーニの歳まで生きただろうに」という知人の言葉が知られているそうだが、その場合ショパンが同じ期間に同様の名曲群を遺せたかどうかはわからない話である。
 盛大をきわめたショパンの葬儀に、ジョルジュ・サンドは姿を見せていない。死者に興味はなかったであろう。
 (ルイージ・ケルビーニはイタリア出身のフランスの作曲家:1760-1842)
 

ジョルジュ・サンド George Sand
(1804年7月1日 – 1876年6月8日)

Ω

2月25日 コラソン・アキノがフィリピン大統領となる(1986年)

2024-02-25 03:26:00 | 日記
2024年2月25日(日)

> 1986年2月25日、コラソン・アキノが臨時政府を樹立し、フィリピン大統領となった。彼女は、二年半前に暗殺されたアキノ上院議員の未亡人である。
 20年あまりにわたって独裁を続けたマルコス大統領は家族と共に亡命し、混迷を見守っていたアメリカ、日本などが新政権を承認した。この様子は各国の報道機関によって中継され、テレビを通して民衆の喜びと熱気の伝わる報道となった。
 コラソンの夫、ベニグノ・アキノはマルコス大統領の政敵として大統領選に出馬することが期待されていたが、1977年に銃殺刑の宣告を受けアメリカに亡命していた。1983年、野党勢力の結集を目指してフィリピンに帰国。到着した飛行機から降りたところを殺害された。事件の真相究明委員会が組織されたが国民の信用を得られず、元高裁判事を中心とした民間人による委員会が発足し、以後この事件への政府の関与などを解明した。
 コラソンは1986年2月7日の大統領選挙に夫の遺志をついで立候補したが、選挙は公正には行われず、公式の選挙管理委員会と民間の監視団体が選挙結果をめぐって対立する異常事態になった。結局マルコスの側近ラモス参謀総長代行とエンリレ国防相がアキノ側につき、この日マルコス政権は終焉を迎えたのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.61


 あれを「暗殺」と呼ぶものだろうか。コトバンクには暗殺の定義として「政治的に影響力をもつ人間を、政治的、思想的立場の相違に基づく動機によって、非合法的かつ秘密裏に殺害すること」とある。
 ニノイことベニグノ・アキノの殺害は半ば公然と行われた。飛行機内の様子が同乗する各国の取材陣によってテレビカメラで撮影されており、世界中がそれを見、僕らも見ることになった。
 死刑囚として収監中にカトリシズムやマハトマ・ガンディー、マーティン・ルーサー・キングの著書などから影響を受け、自身も非暴力による政権批判を身上とするようになった。そのニノイが飛行機経由地の台北のホテルでTBSのインタビューに応じ「明日は殺されるかもしれない、事件は空港で一瞬のうちに終わる」と語ったが、どの程度の確度でそれを予測していたのだろうか。
 着陸した搭乗機に3人の兵士が乗り込み、ニノイ一人を機外へ連行した。ニノイは同行の記者に「必ず何かが起こるから、カメラを回し続けておいてくれ」と言い遺し、これが最期の言葉になった。タラップを降りて10秒の後に頭部を撃たれて即死する。彼自身の予告した通りだった。
 日本人カメラマンらはドア付近で足止めされ、発砲の瞬間を撮影することができなかったが、「撃て、撃て」という兵士の声が映像に残された。別の日本人ジャーナリストは、ニノイを連行した兵士が撃つのを見たと主張した。それらはすべて黙殺され、フィリピン政府は軍と無関係の共産党系ゲリラの単独犯行であると発表した。
 これを「暗殺」と呼ぶものかどうか。

“ニノイ” ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア 
Benigno Simeon "Ninoy" Aquino, Jr., 
(1932年11月27日 - 1983年8月21日)

 この時、独裁者フェルディナンド・マルコスは10日前に受けた腎移植手術の経過が思わしくなく入院中であったが、だから事件に関与していないとは誰も考えなかった。事件を機に、それまで散発的であった反マルコス運動が、フィリピン全土を覆う大衆蜂起の様相を呈するようになる。この間、TBS制作のニュース番組が海賊版として各地で上映されたことは、運動の盛り上がりにあずかって力があったという。


マリア・コラソン・スムロン・コファンコ・アキノ
María Corazón Sumulong Cojuangco Aquino
(1933年1月25日 - 2009年8月1日)

 コラソン・アキノは当初、大統領選出馬に消極的であったが、100万人に及ぶ署名が集まり説得されて心を決めた。インディラ・ガンジーが父ジャワハルラル・ネルーの病死後、支援者たちに要請されてインド首相となったことを思い出す。
 就任後のインディラ・ガンジーは大いに政治的手腕を発揮し、ネルーの娘としてのお飾り的な役割を期待した支援者たちを驚かせた。コラソン・アキノの場合も、その活躍ぶりは人々の予想を良い意味で裏切ったに違いない。農地改革の実現、地方分権の推進、さらには米軍撤退まで、汚職にまみれて深刻な機能不全に陥っていたマルコス時代と決別し、フィリピンの面目を一新した手腕には、泉下の亡夫も舌を巻いたことだろう。彼らの長男、ベニグノ・アキノ3世が第15代大統領となったことも、ネルー/ガンディー家と重なるものがある。
 
 暗殺とは、政治的に影響力をもつ人間を、政治的、思想的立場の相違に基づく動機によって、非合法的かつ秘密裏に殺害すること。
 アレクセイ・ナワリヌイの死こそ、まさしくこの定義に合致すると思われる。「思われる」としか言えないのは、秘密裏に行われる「暗殺」に必然的につきまとう不可視性の故である。確実であっても厳密に立証することがすぐにはできない。
 妻と娘は危険を顧みずバイデンに面会した。母親は息子の遺体を質にとられ、公権力に恫喝される様を語っている。
 明けない夜はないという約束が真実でありますように。

Ω