散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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移民排斥法から伝統的青年ネットワークまで

2017-08-29 06:39:41 | 日記

2017年8月29日(火)

 まずは勝沼さんへ: 

 『バンクーバーの朝日』はどこかで予告編を見ました。白人投手が日系人バッターに故意にぶつけてあざ笑う場面とか、自動車に触れた日系使用人を白人女性が「触らないで、汚らしい!」と罵る場面などが紡がれており、それでイヤになるのが私の悪いところなのでしょうが、本編は見ていません・・・と書いたところでMAKI さんからコメントをいただきました。「初めまして」とは言わずにおきます、昨日もお疲れさまでした、よね?バンクーバー朝日が健在であること、そこにいる同じ顔の人々は日系人であって日本人ではないことなど、貴重な寸景です。

 話を戻せば、中国人排斥の方が歴史的には先ですね。低賃金でよく働く中国系移民は大陸横断鉄道の建設などに大いに貢献したものの、まさにそうした強みゆえに早晩アメリカ先着組にうとまれることになります。どこでも普遍的に見られる構図で、イスラエルの出エジプト(紀元前13世紀!)も同種の軋轢が背景にあったように 旧約聖書からは読めます。中国人の後にやってきたのが日系移民で、この人々はさらに勤勉で律儀だったために新たな火種になりつつあったところへ、日米関係の悪化から本格的な排斥・迫害へ発展したのですね。

 ついでながら先着者と新来者の間の軋轢は白人同士の間でもあることで、たとえばアメリカにおけるドイツ系移民がかなりつらい目に遭ったことは、スタインベックの『エデンの東』にも描かれていますし、映画化された際にも主人公らが破綻を迎える場面の伏線にも使われていました。アイルランド系やポーランド系は宗教的背景もあって大変だったでしょうが、ドイツ系移民は第一次世界大戦で米・独が戦ったことにより、ドイツ色を前面に出すことができなくなったのです。私の大好きなカート・ヴォネガットは、その苦々しさをエッセイに書き残していますね。

 日系人の活躍と受難について、シアトル開拓の物語は忘れることができません。詳細は以前書いたとおりです。

・ シアトルの日系人(2013.10.12) http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/19c48c70b1cbdbceaf1f1bb56dde344b

・ シアトルの日系人(補遺)(2013.10.12) http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/e6e67540a76c76d4e56173c6646848ed

 そこにも書いたとおり、日系人はアメリカ人であって日本人ではなく、日系人問題はアメリカの問題であって日本の問題ではないこと、特に注意を要すると思います。私たち日本人は、移民の受容/排斥について深刻に論じ決断するといった体験を未だにもっていません。この欠落が将来において大きな蹉跌につながらないとよいのですが。

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 タイミングというのは面白いもので、ちょうど今日(8月29日)の朝日新聞朝刊(11面)がKKKなどアメリカの白人至上主義の動向について伝えています。一読してちょっと驚きました。30年ほども前でしょうか、どこかの週刊誌が何かの思いつきで当時のKKK首領へのインタビュー記事を載せたことがあります。この時の論調は単純素朴かつ徹底的に不寛容なもので、「白人至上主義は黒人だけを標的にするのではない、日本人も思いあがらないことだ」というような恫喝で締めくくられ、週刊誌なら当然そうなるだろうという部分を割り引いても空恐ろしいものでした。

 いっぽう、今日の記事には「戦前の日本を尊敬」という小見出しが見えています。一部、転記します。

 「会場は白人ばかり。記者は好奇の目にさらされたが、日本から来たと自己紹介すると彼らの態度が変わった。敬礼する者もいる。
 KKKの名刺を差し出してきた若者が言った。『私は(戦前の)』帝国主義時代の日本を尊敬している。みんなも同じだ。どの民族にも固有の文化があり、尊重されるべきだ。日本は模範だ』
 白人の優越を信じているのかと質問すると、口々に否定した。『日本人にIQテストで勝てないのは自明だ』。一人が冗談っぽく答えると、隣の男性が真面目な顔で続けた。『私の本業は自動車の修理工だが、日本車の方が米国車よりも優秀だ。白人の方が優れていると言うつもりはない。ただ、それぞれの民族が固有の土地を持つべきだと言っているだけだ。』」

 これがどの程度全体の動向を反映しているのか分かりませんが、そういうことだとすれば話はなかなか厄介ですね。記事はマシュー・ハインバック(The Traditional Youth Network の創設者)のインタビューを次のように結んでいます。

 「海外からも連携を求められ、日本からも招待されている。どの民族にも固有の場所があるべきだと訴える、グローバル化に抵抗する世界各地の民族主義者と協調したい」・・・論点を巧みにずらしていくことによって、この主張は全世界に億単位の賛同者を得ることもできるでしょう。微温的でカビの温床となる「中間」を押しつぶすために、この種の勢力とISが手を結ぶといった悪魔的な図式すら、あながち妄想とも言えなくなります。

 トランプ氏が開けた蓋は、彼が失脚してももう閉じないかもしれません。

***** コメント再記 *****

「今だからこそ移民について考える」

 今日8/28がジェームズ・ウォン・ハウの誕生日のようですね。

 グーグルが今ジェームズ・ウォン・ハウに脚光を当てたのは、彼が優れた映画人であるというだけでなく、人種差別と戦いながらそのキャリアを築いたことにあるようです。中国人排斥法なんて知りませんでした。

 そういえば、先生は『バンクーバーの朝日』という邦画はご覧になりましたでしょうか? 100年前にカナダにあった日系移民野球チーム、バンクーバー朝日を描いたものです。

 たった100年前に日本からも多くの人が移民として世界中へ旅立っていたという事実は今のような時だからこそ意識すべきことだと思います。

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「無題」

 確かにちょっと似てますね(笑)

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「バンクーバー朝日」

 バンクーバー朝日は今も活動しています!

 今年来日し、横浜スタジアムで愚息のチームと親善試合をしました。今も日系の選手が沢山いらっしゃいました。

 普通に日本語で話しかけて「?」となってしまい、「そうでした、カナダの方でした」と慌てたり、意外な選手から日本語で話しかけられびっくりしたり、と、とても楽しかったです。

 数年に一度来日し、観光と野球を楽しんでいるようです。

Ω


ヘタクソな写真で追う先週の土曜日

2017-08-28 18:19:34 | 日記

2017年8月28日(月)

 表題通りの内容、出不精の僕には珍しく炎天下を東奔西走(右往左往?)した証拠写真s。

  

 朝の出がけ、御近所のこれはタチアオイかな。通行人の目の保養になること感謝。

 

  

 全身黒ずくめのトカゲ、本名は何というの?ペアの一方が素早く右上へ逃げた。駒場野公園入口にて。

 

 

 午前中で仕事を終え、待ち合わせて文化村へ。ベルギーには昔からヘンな画家がいた、その末のアンソールとマグリット。
 実は信心深かったヒエロニムス・ボス、活躍の時期が奇しくも宗教改革直前である。1516年没はできすぎの偶然。

 

 

 銀座へ移動して、中学以来の旧友S画伯の新作を見る。数年前から赤が増えてきた。
 還暦を迎えて朱夏いよいよ盛なりや。

 

 

 ほったらかしのニラの叢が、今年もけなげに穂を出した。残暑の風に揺れて秋を呼ぶ夕方の風景。

Ω

 

 


東洋人万歳!

2017-08-28 11:38:43 | 日記

2017年8月28日(月)

 検索したいことがあって google の画面を開いたら、自分みたいなのが出てきてちょっと驚いた。ユーザーのポートレイトを微妙に細工して画面に出すぐらい、今どきは朝飯前ですらないだろう。でも幸い違ったみたい、以下いずれも Wikipedia からのコピペ。勝沼さんなら一言あるかな。

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 ジェームズ・ウォン・ハウ(James Wong Howe, 黃宗霑, 1899年8月28日 - 1976年7月12日)は中国で生まれ、ハリウッドで活躍した撮影監督。サイレント時代から活躍し、130本以上の映画撮影を手がけた。1955年の『バラの刺青』と1962年の『ハッド』でアカデミー撮影賞を受賞。

 台山市に生まれるが、生まれた年に父親がアメリカに働きに行き、5歳で家族と共に移住した。ワシントンD.C.で育つ。若い頃はボクサー志望であったが、ロサンゼルスに移った後にさまざまな仕事に就き、ある映画スタジオに働き口を見つけ、セシル・B・デミル監督の元で働くようになり、ヘンリー・小谷から撮影の全てを学んだ。

(以下略、作品の中ではっきり見た記憶があるのは『ピクニック』ぐらいかな)

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 ヘンリー・小谷(へんりー・こたに、本名・小谷倉市、1887年4月25日 - 1972年4月8日)は、大正・昭和期の映画監督。日本映画初期に、アメリカから最新技術を紹介、実践し、開拓者・指導者としても大きな役割を果たした。

 広島県仁保島村(現広島市南区仁保町)生まれ。幼少時に両親とアメリカへ渡り、ハワイ、サンフランシスコと移住。ハイスクール卒業後、「オークランド・ヒルズ・カレッジ」に入るが1911年中退。ハイスクール在学中の1907年からサンフランシスコの「アルカザー劇場」で働き、1913年に「トーマス・H・インス撮影所」へ入り『火の海(神々の怒り)』(1914年、レジナルド・バーカー監督)など俳優として映画、舞台に出演する。ここには青木鶴子、トーマス・栗原、早川雪洲もいた。1917年、「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー(後のパラマウント)撮影所」に移りカメラマンとなる。(以下略)

Ω


来信その3: ある軍録

2017-08-21 08:00:53 | 日記

2017年8月19日(土)にさらに戻って

 愛知県在住の修士OBでSさんという人がある。放送大学の修士課程で最初に出会ったメンバーの一人で、病院の放射線技師として働いておられ、患者の放射線被曝を低減する方策を検討して論文をまとめた。僕が母校附属病院でMRI検査を受けた際、検査側のモラルや配慮の欠如にアタマに来てブログで書きなぐったときには、「これは酷すぎる一例であって、全国一般の技師や検査者の誠実な努力を反映していない」という趣旨のコメントを送ってくれた。(おかげでわが母校の残念な状況が、よりいっそう浮き彫りになったのでもあるけれど。詳細は下記。)

・ 母校の附属病院に幻滅 http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/d/20140909

・ 2チャレンジルールなど ~ 良心的な技師らのあたりまえの日常 http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/dc03648b401313b414d829ea2eecd070

 このSさんから、夏休み中に久々の来信あり。一読沈思。了解を得てここに転載する。

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【本文】

 残暑お見舞い申し上げます

 夏の疲れが出る頃ですが、お元気でお過ごしでしょうか。

 8/14の「サイパン島」についてのブログを拝読しました。私の祖父もサイパンで戦死しております。15年ほど前、家内とサイパンに行ったたときにガラパン付近で激しいスコールにあい、祖父の涙ではあるまいかと感じたことを思い出します。

 放送大学院ゼミ生時代に石丸先生に教えていただいたように、祖父の軍歴を取得することができましたので、少し書かせていただきました。ことがことだけに文が乱れ、個人的な感情が入っておりますがお許しください。

 当方は先日、バイクで捕鯨の町、太地町と本州最南端の潮岬を訪れ、近大マグロを食してまいりました。秋風を感じる頃はまだ少し先になりそうです。石丸先生もどうかご自愛下さい。

 平成二十九年 晩夏

【添付文書(抜粋)】

 H27、故人との間柄を証明する戸籍を県に提出し、父方の祖父の軍歴をやっと手に入れました。足かけ10年に及ぶ軍歴の初め近く、二・二六事件(S11.2.26)には近衛兵として軍務に服していたことも、ここからわかります。祖父は大正4年生まれ、入営は満19歳7か月、戦没は満29歳の誕生日を迎えた6日後でした。

 S10.12.1近衛歩兵第4連隊に入営(歩兵2等兵)。

 S11.10.21.歩兵上等兵。S12.5.31帰休除隊(下士官適任証書附与)。S12.11.30.現役満期。

 S.13.9.14臨時招集、近衛第2連隊応召。S13.9.28~S14.6.26支那事変に従事。(中略)

 勅令第580号によりS18.3.14臨時応召、歩兵第135連隊入隊。S19.5.14館山港、出帆。

 S19.5.19サイパン島上陸。

 S19.6.1軍曹。S.19.7.18マリアナ島に於いて戦死。

 我が家では今も、戦争は忘れがたい心の傷です。私の父も祖父が戦死したために苦労し、貧しかったことをよく話してくれます。父の小学校時代に、こんな逸話があったそうです。

 戦死した祖父に代わり、祖父の弟(つまり父の叔父)が運動会の親子行事に出たところ、競争で一番になったのです。これに対して、「代理出走ではないか」と今でいうクレームがつきました。すると、祖父の弟 ~ 自身も旧軍人 ~ がマイクを取って壇上に上がり、「この子の父は戦争で死んだのだ。戦死者に成り代わって走ることが『反則』なのか」と言い放ったところ、場内が静まり返ったとのことでした。

 「太平洋の防波堤」として戦い、貴い犠牲となって現在の日本の礎を築いた祖父に感謝するとともに、今は非常に複雑な気持ちです。これまで避けてきたのですが、どうしてもサイパン戦のことが知りたくて今年の6月頃から調べはじめました。すると、平櫛孝参謀の「サイパン肉弾戦」の中に、7月7日未明の万歳突撃の記載がありました。

 「洞窟を出て間もなく、司令部付のS軍曹が・・・月光に照らされて冷たく横たわっていた」

 背筋が凍る思いがいたしました。「S軍曹」が祖父ではないかと。

 「サイパン肉弾戦」によれば歩兵第135連隊は司令部直属の部隊となり、タポチョ山の戦いまで温存されていた部隊であったようなのです。

 今年の盆の墓参りの際、先祖の墓とは別に立つ祖父の墓(サイパンの砂しか入っておりませんが)に、「昭和19年6月28日マリヤナ島に於いて戦死」と刻まれた字を見て、祖父の最期の日を思いつつ妻と娘の3人で手をあわせてまいりました。

 生前の祖母が、空襲のこと、B29を照らした探照灯のこと等を孫の私によく話してくれました。ただ、祖父の最後の出征となった日に、祖母は自宅で見送っただけで駅までは行かなかったこと、これはただ一度しか語られなかったのに、今も私の心に印象深く残っています。

 いつまでもそんなことを気にして愚かなことと言われるかもしれませんが、私はそれで良いと思っております。命を懸けて戦場で戦ってくれた祖父を誇りに思っております。戦争を美化するのではありません。愚かしい戦争であっても、あるいはそうであるからこそ、貴い命を捧げて戦ってくれた祖父が忘れがたいのです。

 遺族には戦争を美化するのとは違った思いが受け継がれていることを、知ってほしいと思います。

Ω


来信その2: 古文書に惹かれる理由 / たまにTVをつけてHNさんが感じること

2017-08-21 08:00:02 | 日記

2017年8月20日(日)に戻って

 HNさんより追加情報あり。HNさんはメールの文などもしっかりしていて、話すように書きながら腰が崩れない。個人情報が出ないようにだけ気をつけながら、大いに転載させていただく。メディアの影響力や、発達障害と称される事態が人々の間にかなり大きなパーセンテージで存在していることの意味についても考えさせられる。

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 古文書&犯罪という分野は結構マニアックで、興味を持たれることの方が少々不思議ではあります!こんな生々しい犯罪記録ばかり延々と読んで何が面白いんだろうと自分でも自虐的に思いますが、講座も常に15人から20人ほどの受講者がいますので私の考えている以上にはまる分野かもしれませんね。

 考えてみますと私がこういう分野に興味を持ったのは自分の出自に関係しているかもしれません。私は旧姓XXと言います。

http://nisida3388.blog.fc2.com/blog-entry-30.html

 長い文章で恐縮なのですが、この福岡藩贋札事件に出てくるXXYYという人物が私の祖先にあたります。育った家には、何やら古めかしい物品が身辺に多数あり、そういう環境のおかげで古文書に導かれたのかもしれないと思います。

 古文書講座もいろいろな分野のものがあるようですので、先生のご興味のある文書との出会いがあることをお祈りします。
 
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 ところで私もこの時期、戦争や核廃絶の問題に自分なりに深く想いをいたします。私たちは知らず知らずに戦争への道を歩みだしてはいないだろうか?と危惧します。

 私の子供たちは発達障害があり、聴覚過敏のためもありテレビをめったにつけません。けれども、たまさかテレビを見たときに制作側の価値観の押し付けを強く感じることがあります。例えば「日本頑張れ!」と連呼するスポーツ番組を見たときは、とても違和感を感じるのです。そして自分の考えはメディアに扇動された結果ではないだろうかと、自分が揺らいでしまう思いに襲われます。

 これは自分の子供が普通と違った世界と価値観の中で生きているので、ことさらに感じることかもしれません。(何をもって「普通と違う」というかはさておきです。)発達障害の人達はあまり他人に影響されることなく、より自分の感性に従って生きているように思えます。

 それがつらいところではありますが。

Ω