散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ポンコツとケットン

2023-12-30 07:52:57 | 日記
2023年12月30日(土)

 生来「書く」という作業が難しくて苦労してきたという学生が、粒々辛苦の末どうにか論文らしいものを仕上げてのけた。
 「こんなポンコツですが、ポンコツなりの快適を見つけていきたいと思います」という決別の辞である。

 ポンコツという言葉は懐かしい。今の若い人たちの語彙の内に、果たして生き残っているだろうか?ガラクタにハンマーを、生徒にゲンコツをかますのがあたりまえだった昭和の香り、ボロクソの価値下げの行間からかすかな愛惜が漏れてくる。
 いったいどこに語源があるかとググってみたら、こんな記事が出てきた。阿川弘之の『ぽんこつ』(1960)が始めだという。
 https://hugkum.sho.jp/293989/2


 阿川弘之といえば『機関車やえもん』(1959)



 「そんなに おこるな けっとん / わすれて おしまい けっとん」

 いくつになっても短気のおさまらないポンコツに、思案に困った配偶者が投げかける遅効・持効の呪文として、わが家の会話の必需品。これもオノマトペというのだろうか、神技と呼びたい。

 半藤一利が「阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきた」と評したとある。けっして忘れてしまう人ではなかったのだ。

Ω

二十四節気 冬至

2023-12-22 19:53:55 | 日記
2023年12月22日(金)

冬至 旧暦11月中気(新暦12月22日頃)
 冬が一年で最も短くなる日で、冬の季節の中間点です。
 昔からこの日は祝いの日とされ、現在でも柚子湯に入ったり、小豆粥や南瓜を食したりする風習が残っています。
 寒さが本格的となり、冬の本番となっていく時期です。年も押し詰まり、年末年始の行事も待ち構えています。
『和の暦手帖』P.94-5 

七十二候
 冬至初候 乃東生(なつかれくさしょうず)  新暦12月22日~26日
 冬至次候 麋角解(さわしかのつのおつる)  新暦12月27日~31日
 冬至末候 雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)新暦1月1日~4日

 冬至が祝いの日とされる理由が、かなり成長するまで分からなかった。迂闊なことで太陽、もとい、お天道様に相応の敬意を払うなら何の不思議もないことである。太陽の力が日に日に細って底を突いたのが、一転Ⅴ字回復に向かうめでたい日、これを踏まえて新年をこの時期に置く。
 教会歴ではクリスマスから新年に入るが、これも同じこと。ナザレのイエスの実際の誕生日は誰も知らない。誕生日そのものではなく、聖誕を記念して祝う日をどこに置くかとなったとき、誰かが「冬至の祭り」に重ねることを思いついた。太陽の新生を祝う代わりに、太陽を創った神のひとり子の降誕を祝うこととしたのである。
 さて、七十二候で断然おもしろいのは乃東生「なつくさしょうず」であろう。どこかで見たと記憶をくすぐられるのも道理、夏至初候に及東枯(なつかれくさかるる)とあった、そのちょうど裏である。

 「乃東は夏枯草のこと、草木が枯れ始めた中で、この草だけが芽を出しはじめます」(上掲書 P.94)
 「なつくさ」が夏至に枯れ、冬至に生ずる奇妙さよ、これは是非とも庭に迎えてみなければ!

http://www.sodatekata-box.jp/content/5994

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打たれ強さ

2023-12-19 07:02:39 | 日記
2023年12月19日(火)

 …河野には11期目がかかる。前期、前々期と最終予選決勝で敗れた。彼は初のリーグ入りまでも、四度にわたり決勝敗退を繰り返している。勝負弱いのではない。打たれ強いのだ。
第49期名人戦 最終予選決勝第3局 △張栩九段 対 河野臨九段
(松浦孝仁観戦記者)

Ω

文学への信頼

2023-12-13 07:30:09 | 読書メモ
12月13日(水)

 「いよいよ眼前を横切る時、茅乃が腰から離した片手を遠慮がちに振った。すると新平太はぱあと、陽だまりを閉じ込めたような笑みを浮かべる。」
今村翔吾『人よ、花よ』470

 「あの頃、文学というのは、永遠だとおもっていた。作家も批評家もそうだったと思う。一千年先を考えた上で、いま何を書くかということを考えていたんですね。」
柄谷行人回想録『私の謎』世代こえた交流(上)

 二つとも今日の朝日新聞朝刊から。
 夕方になって読みかけにしていた『タルチュフ』(モリエール/鈴木力衛、岩波文庫)を読み終えたところ、その解説に以下のようにある。

 「フランスの古典作家の理想は、特定の個人を描くこと(で)はなく、時代を超え、国境を越えた人間の型を描く点にあった。」(P.115)
 鉛筆で傍線が付してあるから、文庫本を買い込んだ2005年当時に既に一度、読んで感心したはずであるが、記憶には全くない。
 今日という日は、このこと ~ 一千年の相貌の中で書き考えることを、繰り返し教えられる日であるらしい。

 ところで、「モリエールはこの『タルチュフ』において、『ドン・ジュアン』や『守銭奴』の場合とおなじく、そのような普遍的な人間像を描くのにみごとに成功したと言えよう」とあることについては、異論というのではないが一理屈こねてみたい気がする。
 普遍的な人間像として描かれていると解説が主張するのは、表題の示すタルチュフというペテン師のことだろうと思われるが、この御仁は根っから嘘つきの呆れ果てた偽信心家で、いつの時代にもこういう悪党が必ずいるということ以上にとるものがあまりない。
 それより面白いのは脇役の方である。たとえばタルチュフのペテンにまんまとだまくらかされて相手に心酔するオルゴンというお人好し、こちらは周りがどう諫めても耳を貸さず、あやうく息子を勘当し娘と全財産を進呈する寸前まで至ったのに、妻の機知でタルチュフの化けの皮が剝がされるや、一転極端な激しさで相手を呪い世界を呪い始める。以下はオルゴンと、それを諫める年下の義兄のやりとりである。

 オルゴン「くそ、聖人君子なんて、もうまっぴらだ。これからはそんなやつらの名前を聞いただけで、背筋が寒くなるわ。こちらも悪魔より悪い人間になって、恩返ししてやるんだ。」
 クレアント「いけませんよ、お義兄さん、そんなに逆上なすっては!何事につけ、あなたはおだやかにやれないんですね。いつだって極端から極端に走るんです。お義兄さんは自分の間違いを悟り、偽の信仰に騙されていたことに気がつかれた。だからといって、それを改めるために、さらに大きな過ちを犯すことはないじゃありませんか。たったひとりのろくでなしの裏切者と、すべての聖人君子をごっちゃにすることはないじゃありませんか。(中略)中庸の道をえらばなければなりません。インチキな宗教に引っかからないよう、できるものなら用心してください。しかし、正しい信仰を罵倒してはいけません。どちらかの極端に走らざるをえないのなら、偽信心に引っかかった方がまだしも罪が軽いっていうもんです。」
上掲書 P. 88-89

 極端から極端に振れる熱情家と、中庸をもって徳とする常識人とのやりとりは、今日いたるところで聞かれる会話と少しも変わりがない。クレアントは作中一貫して健全な常識とまっとうな信仰の代表者として描かれており、だからこそタルチュフの偽信心に対して、常に安定した抵抗力を発揮する。

 クレアント「あなたの言い訳はこじつけばかりですよ。なにも神の思し召しを引き合いに出すことはないでしょう?罪人を罰するのに、神がわれわれの力を借りなければならない、というんですか?天罰を下すのは神の御心にまかせ、侮辱を赦せという神のお指図だけを考えればいいはずです。至上の命令に服するとき、人間の判断などを考慮に入れる必要はありません。つねに神の命ずるところを行い、ほかのことに心を乱さないようにしようじゃありませんか。」
同 P.69
 稀代のペテン師であるタルチュフよりも、これに振り回される平凡なオルゴンとクレアントにこそ、「普遍的な人間の型」が感じられて面白い。
 もう一つ例をあげるなら、オルゴンの娘マリアーヌと恋人ヴァレール、彼らの仲を取り持とうとする小間使いドリーヌの会話である。マリアーヌは父オルゴンの命でタルチュフに嫁がされようとしており、そんなことになったら自ら命を絶つとまで思い詰めているのに、父親に面と向かって「イヤ」ということができないのである。時は16世紀で親の権威がきわめて強かったのは間違いないが、娘の側に意思表示が認められなかった訳でもないらしいのは、
 「父親って、子どもの目から見ると、それはそれはこわいものよ」
というマリアーヌの言葉が逆に裏書きする。反論する権利がないのではなく、心理的に怖いというのが彼女の主張である。そのマリアーヌの代わりに、たびたび殴られそうになりながら抗弁を繰り返すのが気丈なドリーヌで、小間使いの忠誠を見ていながら苦労知らずのお嬢さんは、
 「お父さまからあたしをもらい受けるのは、あのかた(ヴァレール)の役目じゃないの?」
 とどこまでも受け身の座から動かない。
同 P.35
 当然ながら、恋人たちの間には互いに相手の本気を疑ってみせる駆け引きが始まり、売り言葉を買ってはまた売る泥沼のやりとりで収拾がつかなくなるのも、今しもあらゆる国と地域で繰り返される「普遍的な」図式ではないか。古めかしさというものがモリエールの行間には驚くほど少ない。

 五百年や千年で人の心の変わりはしないことは、モリエールに依らずとも本朝文学の中にふんだんに例がある。珍しくもあり羨ましくもあるのは、そうした心の機微をはっきり言葉に表し、言葉をぶつけあって人生の筋立てを展開していく伝統と文化のことだ。
 「本当に大事なものは目に見えない」とフランスのキツネが王子様に言う。
 「本当に大事なことは言葉では言えない」と日本のキツネが横を向いて呟く。
 この違いは小さいとは言えない。

Ω

 

二十四節気 大雪(たいせつ)

2023-12-07 12:06:07 | 日記
2023年12月7日(木)

大雪 旧暦11月節気(新暦12月7日頃)
 「すでに山の峰が積雪に覆われている季節」の意から「大雪」とされています。
 街にも冷たい北風が吹き、本格的な冬の到来を感じさせる頃です。年によっては日本海側が大雪に見舞われることも。
 冬の旬魚、鰤や鰰(はたはた)の漁が盛んになる時期でもあります。 師走のせわしさが日に日に増してきます。
『和の暦手帖』P.92-3

七十二候
 大雪初候 閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)新暦12月7日~11日
 大雪次候 熊蟄穴 (くまあなにこもる)  新暦12月12日~15日
 大雪末候 鱖魚群 (さけのうおむらがる) 新暦12月16日~21日

 天地の気が「閉塞する」のが冬というわけだが、今年は気が開きっぱなしで熊も跋扈を止めない。鮭の戻りは年々減っている。
 ハタハタの漁獲量も上に同じだが、これを論じた下記の記事に考えさせられる。
 「(ハタハタの水揚げが)減少したのは、中国漁船のせいではありません。また、近年問題になっている海水温上昇のせいでもないことは、既に30年以上前から減少が始まっていたことから分かります。
 資源が潤沢であれば良いのですが、産卵期に減り続けるハタハタを獲り過ぎているのが現実です。おまけに小さな一年魚も容赦なく獲っています。成長乱獲と加入乱獲の挟み撃ちで、資源が崩壊していくのは当然です。」

 要するに水産資源管理の思想も運用も、欠落に近いほど不足しているというのが論者のポイントである。
 銘記すべし。



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