散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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希望と恥と

2020-10-25 07:19:51 | 日記
2020年10月25日(日)
 早朝の速報が、「核兵器禁止条約発効」を伝えた。
 発効条件となる50カ国の批准にあと一カ国と迫ったことが週末に伝えられ、時間の問題とも付言されていた。50カ国目はホンジュラスである。正確には2021年1月に発効することが確定したものであり、それまでの2ヶ月余に批准国はもういくつか増えることだろう。

 核兵器禁止条約(Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)発効確定。世界にとっては小さな前進の、日本にとっては小さからぬ恥の記念日。
 

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真理への畏敬:解題

2020-10-14 07:20:32 | 日記
2020年10月9日(金)
 「真理への畏敬」という言葉について補足しておきたい。この言葉は前項のガイダンスの主題とも言えるが、直接この言葉が使われてはいない。実は福田先生との、先立つやりとりの中でテーマとなったものである。
 同先生とのこれまでの経緯はなかなか面白いものだったが、本題から逸れるのでごく簡単に記す。先生のかつての指導教授が僕から言えば岳父にあたる。岳父は脳を専門とする解剖学者で電子顕微鏡研究を十八番にしており、僕も電顕を教わりにしばらく彼の研究室へ通った。このことが後の留学で大いに役立つのだが、これも今は触れない。
 ともかく岳父の研究室に日参した際に、そこで研鑽に励んでおられた福田先生と出会い、共通の友人も複数あったりしたところから親しくしていただいた。そんな伏線が、30年近くも経ってあらためて意味をもつことになった、ざっとそんな次第である。
 以下、メールのやりとりから抜粋する。

● 福田先生より:
 ご無沙汰しております。
 今年の解剖学会九州地方会では、H先生と行った41年前の研究結果を発表します。抄録と、当時の実験ノートからコピーさせてもらった記録を添付します。
 実はこの内容は、多くの研究者が未だによく理解していない事実と思われます。臨床においても、精神科医にとどまらず様々な科の医師が、睡眠障害などに対して日々投与している薬剤の局在 (電子顕微鏡で初めて捉えられる、neuropilの狭い細胞間隙と脳室との繋がり)の理解を助ける内容といえます。
 秋に延期した肉眼解剖学実習がもうすぐはじまります。脳実習は昨日終わりました。どちらも、実習では学生同士の作業の協力や discussion が不可欠なので密になることは避けられませんが、 攻めの姿勢で科学的に正しく防御する手段を講じて、例年に近い実習を進めていくことにしました。不織布マスクと手袋に加えて全員にフェイスシールド着用を義務付け、更衣室や洗い場は時間を区切って混雑を避ける、などです。
 東京は感染者の多さから、お仕事や生活におけるご苦労の大きさをお察しいたします。どうぞご自愛ください。

● 石丸返信:
 お便りをありがとうございます。
 41年前ということは、1979年当時の研究の成果ということになりましょうか。
 拝見して、この話題を意気軒昂に語る岳父の姿がありありと思い起こされました。これほど基本的な事実に関わる、臨床的にも重要な意義のある知見が、確固たる証拠の存在にも関わらず世に伝わらないのはナゼか、かねがね不思議でなりません。それだけに福田先生の発信はたいへん心強く、研究者の良心の証しとも感じる次第です。
 亡父と御縁のあった方々の中で、福田先生お一人がこうして父の遺産を確かに継承してくださることは、家族にとっても何よりの励ましとなることでしょう。
 コロナ禍の中、「攻めの姿勢で科学的に正しく防御する手段を講じ、例年に近い実習を進めて」いらっしゃるとのこと、満腔の敬意を表します。先生のその姿勢は、学生たちの心に末永く良い薫陶を残すに違いありません。
 いっそうの御活躍をお祈り申しあげます。

● 福田先生より再信:
 41年前というのは私の勘違いでした。
 実験ノートに1979年と書いてありますので、トレーサー注入実験をH先生が行ったのが41年前です。私の最初の論文(1987年)をまとめるにあたり、79年の実験で作っておいた標本が大事な論点の証明に使えるのではないかと御教示いただき、残っていたエポンブロックをいただいて電顕で観察しました。期待通りの結果が得られ、論文の図に加えました。
 なお、この最初の研究はまだ学部学生の時に、H先生の研究室でお世話になって行ったものです。1987年は私の医学部卒業の年にあたります。
 当時の医学部学生生活は、昨今とはちがってのんびりしたものでしたね。

 その際の電顕観察を通して、今回の抄録に書いたような事実を確認し、髄液についての考え方を深めることができました。その内容について、毎年の医学部学生への講義では伝えてきましたが、どうやら研究者の間でもあまり認識されていないことのようなので、学会発表することにした次第です。
 真実を追究するH先生の研究姿勢からは大いに薫陶を受け、今に至っております。
 「ものをして語らしめる」という言葉を常々おっしゃっていたことをよく覚えております。科学者にとって、真実とは何かということを教えていただきました。

 キリスト教徒としての流派は異なるのかもしれませんが、矢内原忠雄の流れになる故大塚久雄(東京大学西洋経済史、岩波新書の『社会科学の方法』『社会科学における人間』の著者) による『生活の貧しさとこころの貧しさ』という本に、若い頃影響をうけました。国際基督教大学などの場での講演集ですが、その中でも印象に残ったのは「真理への畏敬」という言葉でした。
 聖書の中のある逸話に基づいたお考えですが、どんなに自分には不都合なことであっても、正しいものは正しいものとして、その前には黙って頭をさげる態度、真実を尊ぶことの大切さを述べたもので、当時大問題であった学生運動を憂慮し、運動主体側と大学当局との間の対話に、そう言った要素が欠けていることが対立を激化させているのではないかと論じた内容でした。
 それ自体と趣旨は異なりますが、私としては真理への畏敬という内容と、H先生の学問への真摯な姿勢に、非常に近いものを感じました。
 西洋で発達した科学の根底には、キリスト教の考え方が通奏低音のようにあるのかもしれないなどと素人考えで思っています。

 解剖学実習の最終日には、実習を通して、ご遺体の中の構造の詳細が、一人一人教科書とは必ず異なっていることを経験した学生に向けて、目の前のご遺体にこそ真実があること、これは将来自分が担当する患者さんについても同様で、たとえ教科書どおりではなくても目の前の患者さんの症状のなかにこそ真実があるのであって、教科書の記載や理論や自分の思い込みを優先してはならないということを、「真理への畏敬」ということばで説明しています。
 H先生に教えていただいた、すべての真実が電顕写真の中に見えている
ということを、形を変えて伝えさせていただいています。

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真理への畏敬 ~ ある実習ガイダンス

2020-10-08 07:06:10 | 日記
2020年10月8日(木)
 いよいよ本題。
 お許しをいただき、全文を転載する。

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 2019年度肉眼解剖学実習ガイダンス
「医師として患者さんに向き合う目での解剖学実習」
熊本大学形態構築学 福田孝一

1 何のための解剖学実習か?
 医学部の学生にとって、解剖学を学ぶことは絶対必要です。その第一の理由は簡単なことで、人体の構造を知らないと、卒業までに学ぶ医学のさまざまな分野の内容を正しく理解することが(困難というよりも)不可能だからです。本来構造と機能は不可分であり、生理機能と病的過程のいずれにおいても、構造と機能の両者を知り、総合的に捉えることで初めて、医学を修めることが可能となります。解剖学が伝統的に基礎医学教育の最初に位置づけられてきた理由もここにあります。
 これと同じくらい大切な第二の理由は、皆さんと私達教員がともに社会に対して負う責任です。平たく言うと、解剖を知らない者が医者になっては困るということです。今はピンとこないかもしれませんが、医師免許証を手に、内頚静脈穿刺やクモ膜下腔穿刺の太い針を患者さんに突きたてるとき、解剖学の意義をたちどころに実感するでしょう。あるいは夜間、院内に医師が自分一人の状況で患者さんの呼吸状態が悪化し、今あなたが喉頭展開し気管挿管をしなければ確実に命が危ない状況を前にして、実習で喉頭周囲の立体構造をじっくり見なかったことを悔やんでも、時すでに遅しです。このようなことはまた、外科的手技にとどまるものでもありません。例えば内科的疾患による重症患者で、病態が確定出来ないまま急速に悪化している状況や、実行した治療に対する予想外の反応に直面した時、構造を知っている者はより深い洞察をもって難局に対応できるでしょう。病気は模式図や概念の中ではなく、特定の解剖学的構造という「現場」で起きていることをリアルに想像する(できる)ことは大変重要です。
 医学部卒業生の圧倒的多数の学生が、将来さまざまな診療行為に携わるわけであり、他方大学教育では実力を備えた医師を育ててほしいという国民的要請があるわけですから、医師としての実力を高めるという観点が、医学科学生に対する解剖学教育において重要であることはいうまでもありません。
 ただし今述べていることは、役に立つ解剖だけを手っ取り早く学ぶということではありません。そのような教育は、今の医学のレベルで止まることを意味します。役に立つか否かに関係なく、解剖学のオーソドックスで根幹的な内容をきちんと身につけるということがあくまで基本です。それは、将来開発される新しい医療に対応できるというだけでなく、やがて皆さん自身が新しい医療を創造する担い手になることを私は願っており、その際に斬新な発想で新しい治療法を生み出すためには、人体構造を系統的に理解していることが大きな助けとなるでしょう。この目標をはっきりと意識して、解剖学に意欲的に取り組んでいただきたいと思います。

2.実習の意義と進め方
 解剖学教育の中心をなす実習の意義は、コンピューター教材がどれほど発達しても変わることはありません。もちろん限られた時間の中で効率よく学習を進めるためには、各種機器の利用も有用ですが、ご遺体に直接触れて「本物」から学ぶことを、模型やシミュレーションで置き換えることは不可能です。時折実習不要論を耳にしますが、医学部を卒業した者は誰もが解剖実習を通じて無意識のうちに人体構造についての理解を身につけているが故に、実習を伴わない学習では人体構造の理解がいかに困難かということ自体を実感できないという点に注意が必要です(私はこの困難さについて、看護学生への講義を行うまで全く気がつきませんでした)。やはり自ら手を動かし、己の目でとらえ、熟考を重ねる実習が不可欠です。そして本物を、時間をかけて学べるという恵まれた環境を最大限に活かすことが皆さんの責務です。なぜならこの実習は、自分の体を熊本大学医学部の学生教育に役立ててほしいと願う、熊本白菊会の会員の方々とご遺族の尊いお気持ちによって初めて与えられた、言葉では尽くせない有り難い機会だからです。絶えずそのことを心にとめ、自分を奮い立たせてください。
 実習により得られる大事なことの一つは、人の内部構造がいかに個人により異なっているかということです。解剖を進めていくうちに、detailはご遺体ごとにさまざまであり、テキストの絵と必ず違っている点があることに気づいてほしいと思います。書物ではなくご遺体に真実があることを忘れてはなりません。このことは、将来患者さんに向き合う時にも非常に大切なことです。たとえ患者さんの表現はあいまいであったり不正確でも、病気を抱えている存在としてそこに真実があるのであり、医師の頭の中の思い込みや書物の記載、理論を優先させて目の前の真実に目をつぶることは誤診や間違った治療行為につながります。
 この、ありのままを正しくとらえることの意義はいくら強調してもしすぎることはなく、これこそが解剖学実習のもっとも大事なことといってもよいでしょう。しかし、実はありのままを正しく見ることは簡単ではなく、実習はまたとないトレーニングの機会と言えます。みなさんが45回に及ぶ実習を一生懸命やり遂げたとき、構造を見続け考え続けたことが必ず大きな力となって皆さんの中に育っていることでしょう。
 見るということについて、一つ注意があります。毎日の実習では剖出作業に追われ、しばしば探している構造物の有無しか眼中になくなり、全体との関係を見失います。いわゆる「木を見て森を見ず」の状態です。局所しか見ない医師の危うさは皆さんも想像できるでしょう。実習中に陥りがちなこのような状態は、意識して修正する必要があります。そこで、手を休め人体内部の構造を原位置でじっくり観察する時間を毎回設ける予定です。同時に自分の担当部位以外をしっかりと見る時間にもします。この俯瞰的観察により、患者さんの皮膚の下に隠れた臓器や血管・神経等の存在をありありとイメージできる力を養うよう努めて下さい。常に局所と全体を関連づけて眺め、考える習慣は、医師として必須です。
 以上述べたことの総括が、表題に挙げた「医師として患者さんに向き合う目での解剖学実習」ということになります。

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