散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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4月30日 ジェファソン大統領がルイジアナを購入(1803年)

2024-04-30 03:31:05 | 日記
2024年4月30日(火)

> 1803年4月30日、第3代アメリカ大統領トマス・ジェファソンは、ナポレオン統治下のフランスの領有していたルイジアナをわずか1500万ドルで購入、アメリカの領土は一挙に二倍になった。購入されたルイジアナは約210万平方キロの広さで、これによって西部開拓が軌道に乗った。
 ジェファソンは、「すべての人間は平等につくられている」という文句で有名な、アメリカ独立宣言を起草した人物である。独立宣言は1776年7月4日に公布されたが、この時ジェファソンは33歳だった。大統領に就任した時は57歳で、「賢明でつつましい政府」を訴え、貴族的なスタイルを廃止し、儀礼を簡素化した。
 ジェファソンは独立宣言の中で人間の平等を謳っているが、奴隷制度に対しては明確な態度をとらなかった。その理由として考えられるのは、ジェファソンは婦人が亡くなったのち、混血の黒人奴隷サリー・ヘミングスとの間に子供をもうけ、これがスキャンダルになっていたからである。ジェファソンはこの問題に関する新聞報道に怒り、その後大変な新聞嫌いになった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.126


 ルイジアナ購入(Louisiana Purchase)というこの事件は、歴史上の珍事とも言うべきものである。下って1867年に合衆国は帝政ロシアからアラスカを購入し、「巨大な保冷庫」などと揶揄されたその土地から、やがて金鉱や油田が発見された。つきまくって笑いが止まらない感じだが、それというのも、金詰まりになると領土を私財感覚で売却する君主制の悪しき面が、新興の共和制国家に巨利をもたらしたのである。
 購入されたルイジアナへの玄関口であるミズーリ州セントルイスに三年滞在したおかげで、知り得たことがいろいろある。ルイジアナもセントルイスも、「ルイ」というフランスの王名にちなむ名を持つことに留意したい。ルイジアナ購入のきっかけになったのは、ジェファソンがナポレオンにヌーベル・オルレアン購入をもちかけたことで、ヌーベル・オルレアンの英名がニュー・オーリンズであることも見ての通り。イギリス植民地から出発した合衆国は、先着のフランスやスペインから広大な土地を譲り受けつつ、西漸して太平洋に至った。
 ルイジアナ購入について言えば、思いがけない安い買い物をしてはみたものの、そこに何があるのかよくわかっていなかった。それを明らかにするため派遣されたのがルイス・クラーク探検隊で、セントルイスからマーク・トウェインゆかりのハンニバルに向かう好みの道沿いに、クラークの名にちなんだ小さな町がある。そこである時、見たものが…
 と、書き始めるときりがなく、上掲文の関心はルイジアナ購入よりもジェファソンに向かっていることでもあり、今はここまでで切り上げておく。

 
      Thomas Jefferson
1743年4月2日〈ユリウス暦〉/4月13日〈グレゴリオ暦〉 - 1826年7月4日) 

Ω

4月29日 高杉晋作が上海に向け長崎を出航(1862年)

2024-04-29 03:36:49 | 日記
2024年4月29日(月)

> 1862年(文久二年)4月29日の夕方、長州藩士、高杉晋作を乗せた帆船「千歳丸」が上海に向け長崎港を出航した。高杉22歳の時である。
 この帆船はイギリス人の持ち船を、幕府が買い上げ幕艦としたもので、高杉は長州代表として使節の随行を許されたのだった。この使節団の目的は、上海に通商ルートを開くことと、太平天国の乱に揺れる上海の実情を視察することだった。
 この頃、上海には広大な英、仏、米の租界が作られ、事実上欧米各国の支配下にあった。その上海に迫る太平天国軍(反清国「革命軍」)に対抗するため、清国はイギリスに防衛を依頼していた。
 高杉は、清国の軍備が西洋諸国のそれと比べ、はるかに劣る様を実見し、カルチャーショックを受ける。こうして、帰国した高杉は、幕府に対し公武合体策を放棄して富国強兵策をとるよう進言する。しかし、幕府に受け入れられず、高杉は攘夷運動を形で示すため、同年末には江戸御殿山のイギリス公使館焼き打ちの挙に出るのである。
 ところで、高杉は上海で米国製のピストルを二丁購入している。後に、坂本龍馬が寺田屋で襲撃された際に発砲した七連発のピストルは、高杉が上海土産として龍馬に贈ったものだと言われている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.125

  
高杉 晋作 天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉
坂本 龍馬 天保6年11月15日〈1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉
いずれも Wikipediaから

 高杉の辞世に下記両説あり、人のつくりをよく表している。あの時代状況の中で「おもしろきこともなし」と嘯いているのが、いかにもこの男らしい。

おもしろきこともなき世をおもしろく
おもしろきこともなき世におもしろく

Ω

4月28日 ヘイエルダールがコンティキ号でペルーを出発(1947年)

2024-04-28 03:22:11 | 日記
2024年4月28日(日)

> 1947年4月28日、ノルウェーの人類学者、トール・ヘイエルダールは、古代インカの技法で作った筏、コンティキ号で、ペルーからポリネシアへ向けて出発した。
 へイエルダールはポリネシアの石像とインカ遺跡が類似していることから、ポリネシア人の起源は南アメリカの古代インカ人だと考え、彼らの持っていた技術で太平洋を渡れることを証明するために、自ら筏でポリネシアを目指したのである。筏はバルサ材という非常に軽い材質の木を用い、釘や金物を使わずに作られた。インディオの伝説の通りに作られたのである。
 出港を見送った人の多くが、筏はすぐに沈んでしまうだろうと予測したが、大方の予想を裏切って、彼らはほぼ三ヶ月後の七月初めにポリネシアの一角、ツアモツ諸島にたどり着いた。この時の冒険の記録『コンティキ号漂流記』は、冒険談の傑作として67言語に翻訳され、世界中で愛読されている。
 冒険は成功したのだが、その後、遺伝子情報や詳しい人類学的な分析によって、ポリネシア人は古代インカ人でなく、アジア起源であることが判明した。へイエルダールはその後も古代エジプトの技法で葦船を作るなど、実践的な研究者であり続けた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.124

Thor Heyerdahl 
1914年10月6日 - 2002年4月18日

 南米からポリネシアまでの漂流、そう聞いて真っ先に連想したのがナンセンの北極点漂流計画だ。そしてナンセンもヘイエルダールもノルウェー人である。流れのままにどこでも、どこまでも進んでいく、おおらかで自由な北の人々よ!

 ヴァイキングの末裔、ノルウェー人とはどんな人々なのだろうか。他に思い浮かぶのはロアルド・ダール、アムンゼン、イプセンにグリーク、ムンクもそうだ。
 やや古い話だが、ノルウェーは中世のペストで人口の6割が死亡するという惨禍をくぐり抜けている。その結果として支配階級が極端に弱体化し、市民層の活躍しやすい条件があったと政治思想史で教わった。
 初めはデンマーク、次いでスウェーデンと同君連合を結んだ経緯には、そうした支配層の薄さも関わっていただろうか。

 ロイ・アンドリューが日本を訪れた際、捕鯨のために来日していたノルウェー人と交流したという話があった。
 これを読んだときはやや突飛に感じたが、考えてみればノルウェー人は昔から世界の至るところに海の人として進出している。17-8世紀のオランダ海上帝国を支えたのはノルウェー移民たちだった。日本に来るとて海の先、何の躊躇もありはしなかったろう。
 陸は隔て、海は結ぶ。瀬戸内の人々はその昔、どこの浜辺からやって来たのだろうか。

Ω

4月27日 マゼラン、世界一周を目前にして客死(1521年)

2024-04-27 03:02:02 | 日記
2024年4月27日(土)

> 1521年4月27日、マゼランはフィリピンで原住民とのトラブルにより命を落とした。西回りでの世界一周を目前にしての客死であった。
 マゼランがスペイン南部の港から、五隻の船を率いて出港したのは、二年前の1519年9月だった。この航海の目的は、新大陸を越えて西廻りでの世界一周であり、総員277名の大艦隊であった。
 フェルディナンド・マゼランはポルトガルの下級貴族だったが、ポルトガル王に願い出た東洋への探索戦団の派遣が聞き入れられず、やむなく故郷を捨ててスペイン王に仕官した。マゼランの「新大陸を越えて香料諸島に行きつくための航路を発見する」という計画は、若きスペイン王を熱狂させ、マゼランは艦隊を率いて船出するのである。
 この航海はしかし、苦難の連続であった。よそ者であるマゼラン船長に忠誠を誓う者はほとんどおらず、航海中たびたび反乱が起こった。ようやく行き着いた新大陸南アメリカで、南端を迂回するための航路探索に十ヶ月を要した。11月28日、やっとマゼラン海峡を抜けて新たに開けた海を「太平洋」と名づける。そして翌年3月28日フィリピンに到着し、マレー語が話されていたことから、かつて東回りで到達していた地域に入ったことに気づいた。世界一周はまさに目前だったのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.123

 
Ferdinand Magellan
1480年? - 1521年4月27日

 旅先とりわけ外国で死ぬことを「客死」という。そういう意味でマゼランの最期は客死に違いないが、やはり少々違和感がある。実際には現地人との武闘の末に討ち果たされたもので、ヨーロッパ型の本格的な国家組織ではないとしても、相手はそれなりの領邦君主だった。「客死」といい「原住民」という言葉といい、このくだりは少々相手方の民度を過小評価する印象を与える。後でも述べるように、この件ではマゼランの側にエスノセントリックな傲りがあった。それで墓穴を掘ったりしなければ余裕綽々、故郷に錦を飾れたはずである。
 もっとも、スペインはマゼランの「故郷」ではない。コロンブスもマゼランもスペインでは外国人だった。コロンブスはジェノヴァ出身、西へ向かう彼の壮図を初めはポルトガルに売り込んだが、ポルトガル宮廷は喜望峰発見寸前まで来ていたアフリカ航路からの東回りに期待をかけており、不首尾に終わった。スペインでも交渉は難航したが、カスティーリャのイサベル1世が強い関心を示したところから道が開けていく。
 約30年後、こちらはポルトガル出身のマゼランに大望を託した「若きスペイン王」は、カルロス1世(1500-1558年、在位:1516年 - 1556年)こと最後の神聖ローマ皇帝カール5世。その母方の祖父母がフェルディナンド2世(カトリック両王)とイザベル1世であり、息子がフェリペ2世というつながりである。

 マゼラン到達時、フィリピンでマレー語が通じたというのが面白い。これはちょっとした僥倖で、マゼラン一行の中にエンリケと呼ばれるマレー人の奴隷があり、このエンリケが試しにマレー語で呼びかけたところ、マレー語で答えが返ってきたというのである。一帯の住民が皆マレー語を話していたわけではないのだが、マレー語話者の活動圏がフィリピンまで及んでいたことの例証ではある。それだけでマゼランには十分で、この時マゼランは世界周航の大業が事実上成功したことを確信し得たはずである。
 その後、マゼランはフィリピンの島嶼に割拠する王たちと交流し、初め大いに親睦の実を挙げた。セブ島ではミサに触れてキリスト教に改宗する者が多くあり、このあたりから悪魔が囁き始める。早々に目的の香料諸島へ向かえば良いものを、セブ島での成功に気をよくしたものか宣教師でもないのに布教に熱中し、そのやり方も次第に強硬、武力をちらつかせるようになった。遂には改宗と服従を強要してセブ島対岸の小島マクタン島で町を焼く暴挙に及び、当然ながら地元民の反感が燃えあがる。こうして起きた武力闘争の末、ラプ=ラプと呼ばれる王の軍に討たれたという次第。自業自得とはこのことである。
 その仔細を、実は9年近く前に当ブログで紹介した。請、下記御笑覧。

『マゼランとラプ=ラプ』

Ω

4月26日 フランコ将軍の要請でゲルニカが爆撃される(1937)

2024-04-26 03:57:50 | 日記
2024年4月26日(金)

> 1937年4月26日の午後4時半から4時間にわたり、ドイツ空軍がスペイン北部にあるバスク地方の街ゲルニカの爆撃を行った。中央市場に人が集まる時間帯を狙った爆撃により、街の主要部は破壊され、住民7000人のうち1600人が死亡したと言われている。これは人類史上初の民間人に対する無差別爆撃だった。この祖国の惨事の報をパリで聞いたピカソが、ナチスの暴虐に抗議して「ゲルニカ」をひと月ほどで描いたことは有名である。
 この爆撃は、スペイン内戦の反乱軍を指揮するフランコ将軍の要請により、ナチスの「コンドル軍団」が行ったものだった。当時のスペインは共和政府と反乱軍によって二分されていたが、この後フランコは1939年にマドリードを占領して内戦を終了させ、自ら国家主席となる。
 この空爆は、ナチスにとって来たるべき大戦に備えた爆撃演習を兼ねていたとも言われている。民族意識が強く、人民戦線側に立つ傾向にあったバスク人の町が、攻撃の対象として選ばれたのだった。第二次大戦後、独裁体制を敷いたフランコは、バスクの自治権を認めず、バスク語の使用を禁じ、バスク人としての名前を名乗ることさえ認めなかった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.122

  
Pablo Ruiz Picasso
1881年10月25日 - 1973年4月8日

 この話は残念ながらここで終えることができない。
 人類史上初の民間人に対する無差別爆撃がゲルニカにおけるナチス・ドイツの暴虐だったとすれば、人類史上二番目のそれは大日本帝国陸海軍航空部隊が中華民国の当時の首都、重慶に対して行ったものだった。しかも重慶への爆撃は、1938年12月から1941年9月にかけて反復して行われた。この事実に関して、悲しいかな日本人は余りにも無知である。
 東京裁判は重慶爆撃を裁かなかった。これを裁くなら、アメリカ軍による東京・大阪・名古屋はじめ日本全国の都市に対する無差別爆撃と、広島・長崎への原爆投下を不問に付すことが、少なくとも法理としてはできなくなる。
 だから…
 右翼的な主張とはまったく別の意味で、東京裁判史観から脱却しなければならない。ニュルンベルク法廷を自らの手で全うしたドイツ人と、あてがいぶちの東京裁判で煙に巻かれた日本人との間に、世界大戦一つ分の隔たりが埋まらぬまま存在する。

Ω