2016年9月30日(金)
重ねて言い訳、下記は2日(日)発行予定の柿ノ木坂C.S.通信からのフライング転記である。
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日曜日の朝、教会へ来る途中で目黒通り沿いのビルの角を曲がったら、ネズミが路傍に顔を出しました。人が住むところならネズミもいるでしょうが、朝っぱら から人目につくようでは町のネズミ失格です。未熟なのか御高齢かと眺めていたら、通りすがりの壮年男性が二人、立ち止まって言いました。
「あれ、ネズミかな、それともリスかな?」「さあ・・・」
これにはびっくりしました。ネズミとリスの区別がつかないようでは、おとな失格!しかし、どこがどう失格なのでしょう?考え込んでしまいました。
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私は転勤族の子で地方の県庁所在地を転々として育ちましたので、都会と田舎と半々のような生い立ちです。中途半端な存在で、郷里の愛媛で休暇を過ごすとき はいろいろ失敗もやらかしました。中でも傑作は、サンダル履きで夏の田んぼに踏み込んだことです。どうなると思いますか?
田んぼの泥はミクロン単位の微粒子からできた極上のなめらか素材です。重く柔らかくとらえどころなく、手に掬(すく)うとつやつや輝きながら指の隙間を逃 げ落ちていきます。そんな泥の中にうっかり踏み込めば足首までずぶずぶ沈み、足を抜くのも差すのもままなりません。二歩目で左足、三歩目で右足のサンダル を田んぼにからめとられ、苦労して取り戻した時には全身泥だらけになっていました。
これを見て田舎のいとこ達が喜んだこと!しばらくの間、「サンダル履きで田んぼに入った都会の子」というフレーズが、親戚一同に笑いの種を提供したものでした。
振り返ってみると、私の幼年期は「都会の子の田舎発見」と「田舎の子の都会発見」の往復だったように思います。今にしてそれがひどく懐かしいのは、今では 日本中が「田舎を知らない都会の子」ばかりになっているからかもしれません。それは私たちの中の大切な可能性を、開花させないまま枯れ凋(しぼ)ませてし まう危険があります。
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リスカ(リストカット)と呼ばれる 行動が、精神科の外来でしばしば見られます。手首の血管を深く傷つければ命に関わりますが、リスカはもっと浅い傷をむやみにたくさん皮膚につけるもので す。生きるのをやめてしまおうと決意して行うのではなく、むしろストレスをぶつけたり、生きている実感を確かめたりするために行うことが多いようです。
わざわざ自分に痛みを与えることが、なぜそういう目的に適うのだろうか、思いめぐらす中でふと考えました。リスカを繰り返す若い人たちには、私たちが本来 必要とする健康な痛みが不足しているのではないでしょうか。そしてそれは、私たちが自然と触れ合う生活から遠ざかってしまった結果ではないでしょうか。大 のおとながネズミとリスの区別もつかないことと、根はつながっているのではないかと思います。
試してみればす ぐ分かりますが、自然の中で暮らしていると実に多くの痛みを経験するものです。枝がはねて顔に当たり、石に蹴つまずき、虫に刺され、草のとげに手足を引っ かかれ、それこそきりがありません。愉快なものではありませんが、自然と触れ合う充実感に紛れて気にも留めないのです。かえって一日の終わりに振り返る と、体のあちこちに残る痛みの記憶が今日も確かに生きたことを証ししてくれるようにさえ感じられます。「痛快」という不思議な言葉は、こうした「痛み」の 逆説的な手応えを見事に表すものですが、気がつけば都会の生活にはこうした痛快さが決定的に欠けてしまっています。
長い歴史の中でつい最近まで、自然が与える痛みの手応えを味わいながら生きるのが、人生の標準形でした。人の体は、一定量の痛みを日々経験する想定のもと につくられています。過剰に管理され保護された都市環境の中で、小気味よい痛快さを味わうことなく過ごす生活は、安全ではあっても落ち着けるものではない のかもしれません。自然との接続を奪われた人の体が悲鳴をあげている、その一つの表れがリスカという行動ではないか、そんな風に私には思われます。
「空の鳥、野の花を見なさい」とイエス様はおっしゃいました。そのことの意味を、こんな角度から考えてみることもできるのではないでしょうか。
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