散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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町のネズミと町の人間 ~ 柿ノ木坂C.S.通信から

2016-09-30 08:15:43 | 日記

2016年9月30日(金)

 重ねて言い訳、下記は2日(日)発行予定の柿ノ木坂C.S.通信からのフライング転記である。

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  日曜日の朝、教会へ来る途中で目黒通り沿いのビルの角を曲がったら、ネズミが路傍に顔を出しました。人が住むところならネズミもいるでしょうが、朝っぱら から人目につくようでは町のネズミ失格です。未熟なのか御高齢かと眺めていたら、通りすがりの壮年男性が二人、立ち止まって言いました。

 「あれ、ネズミかな、それともリスかな?」「さあ・・・」

 これにはびっくりしました。ネズミとリスの区別がつかないようでは、おとな失格!しかし、どこがどう失格なのでしょう?考え込んでしまいました。

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  私は転勤族の子で地方の県庁所在地を転々として育ちましたので、都会と田舎と半々のような生い立ちです。中途半端な存在で、郷里の愛媛で休暇を過ごすとき はいろいろ失敗もやらかしました。中でも傑作は、サンダル履きで夏の田んぼに踏み込んだことです。どうなると思いますか?

  田んぼの泥はミクロン単位の微粒子からできた極上のなめらか素材です。重く柔らかくとらえどころなく、手に掬(すく)うとつやつや輝きながら指の隙間を逃 げ落ちていきます。そんな泥の中にうっかり踏み込めば足首までずぶずぶ沈み、足を抜くのも差すのもままなりません。二歩目で左足、三歩目で右足のサンダル を田んぼにからめとられ、苦労して取り戻した時には全身泥だらけになっていました。

 これを見て田舎のいとこ達が喜んだこと!しばらくの間、「サンダル履きで田んぼに入った都会の子」というフレーズが、親戚一同に笑いの種を提供したものでした。

  振り返ってみると、私の幼年期は「都会の子の田舎発見」と「田舎の子の都会発見」の往復だったように思います。今にしてそれがひどく懐かしいのは、今では 日本中が「田舎を知らない都会の子」ばかりになっているからかもしれません。それは私たちの中の大切な可能性を、開花させないまま枯れ凋(しぼ)ませてし まう危険があります。

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 リスカ(リストカット)と呼ばれる 行動が、精神科の外来でしばしば見られます。手首の血管を深く傷つければ命に関わりますが、リスカはもっと浅い傷をむやみにたくさん皮膚につけるもので す。生きるのをやめてしまおうと決意して行うのではなく、むしろストレスをぶつけたり、生きている実感を確かめたりするために行うことが多いようです。

  わざわざ自分に痛みを与えることが、なぜそういう目的に適うのだろうか、思いめぐらす中でふと考えました。リスカを繰り返す若い人たちには、私たちが本来 必要とする健康な痛みが不足しているのではないでしょうか。そしてそれは、私たちが自然と触れ合う生活から遠ざかってしまった結果ではないでしょうか。大 のおとながネズミとリスの区別もつかないことと、根はつながっているのではないかと思います。

 試してみればす ぐ分かりますが、自然の中で暮らしていると実に多くの痛みを経験するものです。枝がはねて顔に当たり、石に蹴つまずき、虫に刺され、草のとげに手足を引っ かかれ、それこそきりがありません。愉快なものではありませんが、自然と触れ合う充実感に紛れて気にも留めないのです。かえって一日の終わりに振り返る と、体のあちこちに残る痛みの記憶が今日も確かに生きたことを証ししてくれるようにさえ感じられます。「痛快」という不思議な言葉は、こうした「痛み」の 逆説的な手応えを見事に表すものですが、気がつけば都会の生活にはこうした痛快さが決定的に欠けてしまっています。

  長い歴史の中でつい最近まで、自然が与える痛みの手応えを味わいながら生きるのが、人生の標準形でした。人の体は、一定量の痛みを日々経験する想定のもと につくられています。過剰に管理され保護された都市環境の中で、小気味よい痛快さを味わうことなく過ごす生活は、安全ではあっても落ち着けるものではない のかもしれません。自然との接続を奪われた人の体が悲鳴をあげている、その一つの表れがリスカという行動ではないか、そんな風に私には思われます。

 「空の鳥、野の花を見なさい」とイエス様はおっしゃいました。そのことの意味を、こんな角度から考えてみることもできるのではないでしょうか。

Ω


カエルのほっかむり、トンボのハチマキ ~ 井伊直人出世物語から

2016-09-30 07:35:46 | 日記

2016年9月29日(木)

 日曜日は囲碁NHK杯に続いて「日本の話芸」が放映され、折々に楽しんでいる。この日曜日は講談で、留守中に家人が録画しておいてくれたのを帰宅後に流してみた。神田紅(かんだ・くれない)の名調子は何度か聞いたが神田紫(かんだ・むらさき)は初めてで、『井伊直人出世物語』という題目も初めて聞くものである。コトバンクに以下の解説があり、主として講談の世界で語り継がれた存在のようである。

「1587-? 江戸時代前期の剣術家。天正(てんしょう)15年生まれ。伊達政宗の家臣。慶長5年(1600)陸奥松川(福島県)の戦いで剣術師範の父をうしない、14歳で家をつぐ。妻とした薙刀の名手の貞(さだ)にはげまされて6年間修行し、柳生新陰流の道場を再興したという。講談の「寛永御前試合」では山田真竜軒に敗れるが、直後に妻が対戦し勝ったとする。」

 松川の戦いとあるのは軍記物の脚色で、そのモデルになったのは上杉相手の福島城攻防戦らしい。慶長5年というタイミングから分かるとおり、関ヶ原に連動して徳川に同盟する伊達氏が、西軍に属する上杉から旧領を奪回しようとしきりに運動するのだが、相手は直江兼続を擁し謙信以来の精強をもって鳴る上杉のことで、おおかた不首尾に終わっている。

 聞き入る中で、思わずメモを取ったのは下記の言い回しである。

 「・・・これが蛙の頬被り、蜻蛉の鉢巻き、己の未熟ゆえ周りが見えていなかったのでございます。」

 一瞬遅れて思わず手を打った。カエルの両眼は顔の横に付いているから、ほっかむりしたら塞がってしまう。トンボの大目玉は頭全体を覆っているから、ハチマキしたらやはり塞がってしまう。そんなふうに自分の視界を閉ざすことを指すのだが、うまいことを言ったものだ。残念なことに聴衆の反応がやや遅くやや小さいのは、僕と同じく理解するのにわずかな時間を要するからである。しかしそれはまだ良い方で、何のことだか分からない人々も少なからずあったのではあるまいか。

 僕らの生活が自然とどんどん遠くなっていることが、こんなところにも影響を及ぼす。聖書の読みにも関連することで、イエスはパレスチナ地方の庶民に訴える言葉で語ったから、その中に農耕漁労を知らなくては理解できないフレーズがたくさんある。これは考えどころである。

 ということで、2日(日)発行予定の柿ノ木坂C.S.通信に掲載予定の原稿を、先行公開しちゃうのだ。

Ω

 


取り急ぎ・・・

2016-09-29 08:26:27 | 日記

2016年9月29日(木)

 

 写真が違う、これじゃないのだ。ともかくこんな感じの厚ぼったい雲の下を帰ってきた。懐中に『宇治拾遺物語』、旅行中などこれに限るんです。

 

 これは何を撮ったでしょう?

 ところで、 「戦争に負けない」といったら、どういう意味だと思う?

(この項続く)


輩出と排出/2つまたはそれ以上

2016-09-28 07:15:12 | 日記

2016年9月28日(水)

 職場関係の某氏とだけ言っておく。名誉なことでも、どこでどんな迷惑をかけるかわからないので。ともかく日本語に関するセンスと博識では、日ごろから一目も二目も置く相手である。この人にひょんなことから当ブログを御高覧いただく光栄に浴し、下記のコメントをいただいた。なるほどなので、転記しておく。

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 「自動詞/他動詞」の項、激しく膝を打ち共感しましたので一言書かせてください。私も昨今の自動詞と他動詞の混同もしくは誤用が気になっております。大和言葉では必ずしも自動か他動かがはっきりしない場合が多いので、それほどではありませんが、漢語起源の動詞の場合はそれがはっきりしています。

 たとえば「輩出する」です。これは漢熟語の成り立ちからすれば「主語+述語」の順ですから、当然「輩(いっぱしの人物)」が主語で「出(出る)」が述語ということになりましょう。つまり、「その大学からは多くの逸材が輩出した。」というのが正しい(というか唯一の)用法です。しかし、日本語には不幸にして「排出する」という同音異義語がありました。しかもそちら の方が頻繁に使われます。「排出する」は、もちろん「排す」と「出す」の連語で完璧な他動詞です。どうもその二つが混同されて、本来自動詞の「輩出する」まで他動詞的に用いられるようになったしまったのではないか、というのが私の見立てです。

 したがって、非常にしばしば「その大学は多くの逸材を輩出した。」という誤用が見られます(まるで排出口から垂れ流しているようです)。大新聞やあのNHKですらそうです。(もっとも、NHKはいまだに「こちらのVTRを見てください。」などと平気で言っていますので、そんなものだとは思いますが・・・。)このような指摘をどこにどのようにすべきか、最近大いに迷っています。放っておいてもいいのですが、どうにも気持ちが悪くて仕方ありません。そのうち誤用の方が正しいとされそうで心底心配です。実際ある原稿にこの言葉を使ったところ、「人材が輩出」ではなく「人材を輩出」の間違いでは?と編集者に鉛筆書きされてしまいました、うーん。

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 「輩出」について実はきちんと整理できていなかったが、こう教われば今後は二度と間違える余地がない。「大新聞やNHKですら」の尻馬に乗っかるとすれば「日本精神神経学会まで」と言いたいところで、今日これを抜きにしては精神医学を語ることのできないDSMの翻訳が、飽きもせずに「下記の9項目のうち、2つまたはそれ以上が認められる場合に云々」とやっている。日本語で「2つ以上」は「2つ」を含むということ、小学生でも(小学生なら)よく知るところだ。英語が "two or more" とするのは、「more は当該数字を含まない」というルールが同じく小学生レベルから徹底されているからである。彼我の語法の違いを踏まえ、すっきり「下記9項目のうち2つ以上」と書けばいいのに、20年来それができずにいるのは、いったいどういう心理的カラクリに依るものなんでしょうね?

 「残念ながら精神における植民地根性が抜けていないのだと考えざるを得ず、たかが用語の翻訳についてそうであるなら精神医学の基本的な考え方について、栄えある独立を達成したことを確信するのはなおさら難しい」という説が、言い過ぎ・考え過ぎだったらよいのだけれど。

  

Ω


祭りの記憶

2016-09-27 07:13:30 | 日記

2016年9月24日(土)・・・戻りまして

  http://angelcymeeke.web.fc2.com/kosiore/

 誰かが綺麗に撮っている。田畑の具合がよくわからないが、秋の好日だろうか。

 正面に見えるのは、左、腰折山(こしおれやま 標高214m)、右、恵良山(えりょうさん 標高302m)、松山から北つまり今治方向へ向かう時の景色で、写真の外の左手(西)に瀬戸内海と鹿島、右手(東)に高縄山系が広がる。高縄山は標高986m、四国という島の戌亥(いぬい)の方角に突き出た半島のヘソにあたり、海の向かいの国東半島ほど真ん丸ではないが、似たようなサイズで高縄半島と名がついている。

 この画面から右に大回りしてわが家に向かうところで、母が「あら?」と景色に目を留めた。「恵良山のてっぺんに、何かできたのかな」、言われてみれば白っぽく光るもの、作業用の小屋がけでもあるのだろうか、そこから母の記憶が藤蔓を手繰るようにつるつると語られ始めた。90年近い時の隔たりが、易々と飛び越えられる小奇跡である。

***

 恵良山の麓に母(あらずもがなの注:石丸から見て母の母のこと)の里があった。恵良山のお祭りは毎年9月1日、ちょうど二学期が始まる日で、その朝には母の母ができたてのあんこ餅(おはぎ)を背負えるだけ背負って、一時間の道を歩いて届けてくれた。そして「学校が終わったら皆でお祭りにおいで、きっと来るんよ」と声をかけてくれた。

 9月1日は、始業式だけで学校はすぐに終わる。家に帰ると兄姉妹らと息を切らして母の里に駆けつけた。お祭りには相撲大会がつきもので、兄は相撲が強かったから一等の御褒美に箱いっぱいの梨をもらったりし、それを食べるのが自慢でもあり美味しくもあった。

 4月15日は鹿島神社のお祭りで、こちらは北条の伯母さんが呼んでくれた。伯母さんは父の姉で、その嫁入り先が北条にあったのだ。4月の北条のお祭り、9月の恵良山のお祭り、昭和初めの田舎の子らの何よりの楽しみだった。北条の親戚も、恵良山の親戚も、皆ほんとうに優しかった。優しい人たちばかりだった。

 私らが住んでいた宮内のお祭りは4月24日と決まっていて・・・

 「そういうお祭りの日取りには、どんな意味があったのかな、何でその日に決まったんだろう?」

 「さあ・・・」

***

 集落ごとにお宮さんがあり、決まった日に祭りがあり、人々が祭りに集い、近隣の集落と相互に集いあい、そのようにして日本人は長い時間を過ごしてきた。『忘れられた日本人』(宮本常一、岩波文庫)が名作とされるのは、誰もが属し親しんできたこのような風景を活写し再現するからである。しかし元々は、あまりに当然で言語化する必要すらないものだった。

 それを日本人は捨てた。一世紀足らずの短い時間に、完全に打ち捨てた。是非善悪は問い得ないとして、そのツケが今僕らを苦しめていることは間違いない。失われた何かを違う形で取り戻すということが、できる相談なのかどうなのか。

Ω