散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

ヘンリー vs ハインリヒ、真相判明

2024-02-13 17:08:00 | 言葉について
2024年2月13日(火)

1月25日付の当ブログで、ケストナーの小品から下記の会話を転記した。

「息子のホールバインご存じ?」
「正直言うと、知らんですな!おやじのほうも知らんです」
「ホールバインは有名なドイツの画家なんですよ。長い間ヘンリー八世の宮廷にいたんですの」
「そりゃあ知っとるです」
キュルツは嬉しそうに言った。
「そりゃああれでしょう、裸足で一日雪の中に立ってたやつでしょう」
「ちがうわ、それはヘンリー四世よ」
「しかし、だいたい当たったでしょう?」
「そうね、まあだいたいね。ヘンリー四世はドイツの皇帝で、ヘンリー八世はイギリスの王様なの…」

 キュルツ親方は英国王ヘンリーとドイツ皇帝ハインリヒを混同しているのだが、そもそもトリュープナー嬢は英国王を指して「ヘンリー」と言ったか「ハインリヒ」と言ったかが気になっていたのである。
 本日、真相判明。原文は下記の通り:

"Kennen Sie Holbein den Jüngeren?"
"Wenn ich ehrlich sein soll: nein! Den Älteren auch nicht."
"Holbein der Jüngere war einer der berühmtesten deutschen Maler. Er lebte eine Zeitlang am Hofe Heinrichs VIII."
"Den kenn ich", meinte Külz erfreut. "Das ist der, der einen Tag lang barfuß im Schnee stand."
"Nein, das war Heinrich IV."
"Aber ungefähr hat's gestimmt, was?"
"Ziemlich. Heinrich IV. war deutsher Kaiser, und Heinrich VIII. war König von England..."
"Die verschwundene Miniatur"

 つまり、どちらも Heinrich だったのだ。そりゃそうか、というところだが、このあたりが「近場はかえって不便」だというのである。どれもこれも Heinrich では、ヘンリー8世とハインリヒ4世ばかりかアンリ2世もエンリケ1世も区別がつかず大混乱であろう。こちらは少なくとも、どこの国の王様だか皇帝だかは、名前を聞けばすぐ分かる。
 ただし同種のことはこちら側にもあって、漢字を共有する便利さの反面、それぞれがそれぞれの読み方で読むのでかえって混乱しがちである。たとえば中国人は、「松山」をソンシャンと中国読みする。ソンシャンとマツヤマでは似ても似つかないが、なまじ漢字を共有しているからこういうことが起きるのだ。地名ぐらい日本語に倣えば良いのにと思うが、こちらも習近平(シー・ジンピン?)を「シュウキンペイ」と呼ぶのだから文句は言えない。
 お互い様、そしてこのあたりが言葉の面白さである。


Ω


 

なづさふ

2023-09-14 07:31:29 | 言葉について
2023年9月14日(木)
 白露の記事を読み直して、家持の歌の「なづさふ」という言葉に注意を引かれた。
 「なづさひ上る」は「難渋して上っていく」と訳されているが、どうなのだろうか。少し語感が違うような気がして引いてみると…

なずさ・う〔なづさふ〕[動ハ四]
1 水に浮いて漂う。または、水につかる。
   「はしけやし家を離れて波の上ゆ―・ひ来にて」〈万・三六九一〉
2 なれ親しむ。なつく。
   「いときなきより―・ひし者の」〈源・夕顔〉
出典:デジタル大辞泉(小学館)

 これならしっくりくるが、先の歌の趣旨がこれではわからない。手許の古語辞典(同じく小学館)にさらに詳しい解説があり。

なづさふ(物にひたり着いて離れにくくするという意味で「なづむ」と同根)
1:水中、または水上に浸り着く
   「八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ」(万葉集 430・柿本人麻呂)
2:海上や水上をはるばると苦しい旅を続ける
   「海原の遠き渡りをみやびをの 遊びを見むとなづさひぞ来し」(万葉集 1016・作者不詳)
3:人に慣れ親しみ、まつわり着く
   「いときなきより なづさひしもの(幼い時から親しくまつわってきた人、ここでは乳母)」(源氏・夕顔)
(中田祝夫編・古語辞典)

 これでストンと合点がいった。先のは第二の語義である。「遊びを見む」なら暢気な話だが、むしろ海上難民の絶望的な旅が今は思いやられる。第一の用例はなまめかしいもののように読んだが、実は人麻呂特有のルサンチマンの表現らしく、そう知ると黒髪の印象が一時に変わった。
 第三の語義は、ベランダの亀そのものだ。
 なづむ、なづさふ、セキレイのように親しみ深い言葉である。

Ω


「ちげえよ」は平成の発明

2023-08-28 08:45:43 | 言葉について
2023年8月28日(月)

 「違うよ」を「ちげえよ」と発音するのは平成生まれの子どもたちが始めたことで、それ以前にはなかったものである。一見(一聞?)、東京下町言葉のように聞こえるとすれば、「違いない」を「ちげえねえ」などと発音することからの連想なのだろうが、これは ai(あ‐い) が eh (え-え)に変わるという古い通則に従った現象である。「たいしたもんだ」が「てえしたもんだ」、「大丈夫か?」が「でえじょうぶか?」になる要領。結果的に中国語や韓国朝鮮語の読みに近づくのが面白い。大門 → でえもん →  damonというのは、某局の面白い工夫でしたね。

 似たれども非なり、au(あ‐う)の方は決して eh (え-え)にはならない。au(あ-う)が変化する先は、 eh (え-え)ではなくて ou(お-う)であり、これなら古来いくらも例がある。

 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし 
中納言朝忠

 『拾遺集』から百人一首に選ばれた有名な歌だが、カルタ取りの詠み人は冒頭を「おうことの」と発音するはずだ。「逢瀬」を「おうせ」と読むのと同じである。
 「違うよ」についても「ちごうよ」と発音される例を実際に読んだり見たりした記憶がある。しかし「ちげえよ」は知られていなかったし、口がそのように動こうとはしなかっただろう。
 ちなみに、昭和の耳に「ちげえねえ」は威勢良く快活に聞こえるが、「ちげえよ」は下卑た響きしか残さない。このあたりは習慣の影響力ということか。
 
 毎朝なにかしら、考えたり確認したりする材料をもらっている。

Ω

旦那様が申しておりました

2023-08-22 09:15:52 | 言葉について
2023年8月22日(火)
 頭がどうかなりそうだ。
 時は明治20年代、亡夫の遺志を汲んで蔵書を届けに来た未亡人が、故人のことを一貫して尊敬語で語っている。「旦那様は」「旦那様が」と繰り返すたびに、聞く耳がむずむずしてくる。
 言うまでもなく、外に対して身内を低めること、日本語の敬語法の大原則である。今でも職場なら、上司の留守中にかかってきた電話に「部長さんは出かけていらっしゃいます」とやったら厳重指導の対象になるだろう。「部長イシマル、ただいま席を外しております。もどりましたら折り返し云々」といった表現がマニュアルに明記されているはずだ。
 そのくせ「旦那様がおっしゃっていました」とは言わない、「申しておりました」との謙譲語を「旦那様」という尊敬語にくっつけるから、上げてるのか下げてるのか皆目わからない。こんな気持ちの悪い言葉を平気で俳優に語らせる脚本のセンスに恐れ入る。「タナベは生前、このように申しておりました」と、こう来なければどうしたって落ち着かないところである。
 厄介かつ面白いのは、韓国朝鮮語では「旦那様がおっしゃっていました」式が正しいとされることで、自身の尊属に対する尊敬表現こそが彼の地では絶対不動の原則となる。これ実は意味深いものがあり、もちろん言葉だけの問題ではない。世間秩序と身内の序列とどちらを優先するか、儒教道徳の継受のあり方にもかかわる、彼我の対比の要点である。
 それにつけても揺るがせにできない、「世間に対して身内を低める」のが、良し悪しは別として我が敬語法の鉄則である。「韓ドラでも言ってるじゃん」は反論にならない。
 
 鉄則とはいったものの、実際には至るところでボロボロの体。A君の婚約者であるBさんについて、第三者であるC氏がA君に「お相手はどんな方?」と訊くのはまず当然として、A君自身が「お相手は…」とやったら本来はアウトである。のみならず、Bさんが古風な人ならこれを聞いて気を悪くするかもしれない。「お相手」呼ばわりされるのは、A君がBさんを身内として認知していない証拠とも解せるからである。しかし実際には、今どきそんなことを気にする若者はいないだろうし、現に「お相手」流が堂々と横行している。(ついでながら、テレビ囲碁トーナメントの対局前挨拶も微妙な並行現象。)
 それもこれも日本人の人間関係そのものが変わってきているからであり、言葉遣いはそれを正直に反映するにすぎない。そうした世の移ろいを悲憤慷慨するほど後ろ向きではないし、むしろそこに現れてくる変化を注視観察したいとも思う。とはいえ仮にも古い時代を舞台にし、多少とも考証に留意してドラマにするのなら、もう少し丁寧につくりこんでほしい。
 視聴者の中の若い人々は、逆にドラマの脚本から言葉を学ぶ。そこで固定される一連の誤用は、意味のある変化ではなく単なる乱れであり、退廃でしかない。

Ω
 

伐採と在庫

2023-08-10 10:36:31 | 言葉について
2023年8月10日(木)
 ある組織のある会議で、ある人が「近隣からの苦情を受け、塀沿いの樹木を伐採しました」と報告、配布資料にも同様に記されている。
 思わず目を向いた。
 「伐採、しちゃったんですか 、苦情があったからって ?」
 「はい、確かにずいぶん枝が伸びていましたので…」
 こちらの剣幕に驚きうろたえ気味、何がいけないんですかと当惑の様子でもある。さてはわかった、
 「もしかして、枝を伐ったってこと ?」
 「あ、はい」
 「……」

 国語辞典を使いましょうよ、日本人なんだから、と言いたくなるのはこういう時である。 

 【伐採】樹木を切り取ること。木材などを切り出すこと。(岩波国語辞典 第四版)
     不要な樹木を切り倒すこと (伐採110番)

 【剪定】枝の一部をはさみ切ること。庭木などのかり込み。(同上・上)
     木の枝を切ること (同上・下)

 見回せば「剪定」の意味で「伐採」の語を使う人は、他にも一人ならず見られている。おおかた「ばっさり切り落とす」といった語感に後押しされたもので、「吐き気・嘔吐」の意味で「おえつ」と言うのと同類の錯誤ではあるまいか。
 こういうのは早晩、悪貨が良貨を駆逐して主流の座につくものと思われる。

 ついでながら、「手許の予備」という意味で「在庫」という人が最近たいへん多い。
 「前回と同じ処方で ?」
 「痛み止めはまだ在庫があるから、今回は要りません。」
 という具合。すごいですね、商売してるんだ。

 【在庫】(取引に備えて)品物が倉庫にあること。(岩波国語辞典 第四版)

 薬局の棚にあるのが「在庫」である。「在庫」の「庫」は「倉庫」の「庫」、つまり「庫(くら)」のことだ。処方薬が自宅の引き出しに残っているのは「手持ち」とでも言ったらよい。
 日本語は難しいって ? 
 こんなの何語だっておんなじですよ。

Ω