散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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Let it go, let it be. ~ KM先生の教え ②

2019-01-30 11:59:43 | 日記

2019年1月27日(土)

 加藤先生の問題提起、次のポイントは心理臨床や教育一般につながる話である。どこで聞いたか、こんな話もあったっけ。

 悟りを求めて精進する求道者に向かって、禅僧が云った。
 「それでよい、そのままでよい」
 相手が喜んで「では、このままで良いのですね」と聞き返すと、禅僧はまた云った。
 「いや、ダメだ、そのままではダメだ」

 まるで禅問答、というか実際に禅問答なのだろう。向上を求め自らを変えようと煩悶苦闘する dynamic なあり方は既に貴し、けれども現状に甘んじて自己肯定に居直った瞬間、すべてが反転して否となる。本当はもっと深いんだろう、この程度の浅知恵しか出ないが、そこは御勘弁。

 話を戻せば、「こんな私でも神は愛してくださる」というのが耶蘇教の確信であるとして、下の句が「そうと知ったからには、こうしてはいられない」のか、「それならこのままこうしていよう」なのかで、できあがりは180°違うことになる。

 加藤先生のもち出されたのが、『アナと雪の女王』であるのが面白い。抜粋引用、一部字句改変。

 ...「ありのまま」は流行語になり、小さな子どもまでが気もちよさそうに「ありのままで!」と高吟している。ただ、この語はもともと"Let it go!"なのだ。悩み相談の場などで「今あなたが固く握りしめ、しがみついているものを手放しなさい」という意味で放たれる言葉であり、単なる現状肯定とは似ても似つかぬものである。

 雪の女王エルザは自分の感情をコントロールできず、葛藤に苦しんでもがき、氷の城に閉じこもる。もし「ありのまま」を単純に肯定してよいのなら、閉じこもったりせず、すべてを凍らせながら好き勝手に生きればよいのである。

 しかしエルザの方向は正反対だ。”Let it go!”は、自分を変えたいのにそれができない苦しみの叫び、前に踏み出し自分を成長させようとする者の叫びである。それが日本では「ありのまま」に変わり、原作のメッセージから遠く離れてしまっている。何とも残念である...

***

 いや、これは気がつかなかった。まことにごもっとも。そう伺ってみると、"Let it go" はなかなかのコンセプトで、強迫傾向の強い自分などにはうってつけと思われる。断捨離しながら "Let it go !" ってね。

 あわせて "Let it be" を思い出した。発表されたのは中2の年、そして高2の秋だったか、自分の鼻歌を自分で聞きとがめ、昂揚とも朦朧ともつかない気分で家路をたどった。

 これだ、"Let it be"、それでいい、それがいいのだ、まさしく words of wisdom だと興奮して当時の親友に電話したものの、これは全く不発だった。

 45~6年も経ち、今あらためて拾ってみたい気もちになっている。"Let it go" と重なりもし、離れもする好一対のように感じられる。

 Ω

     

※ https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20170306-00068399/ 日本版『アナと雪の女王』現象とは何だったのか ― 英語版とまったく違う物語の秘密 

千田有紀  | 武蔵大学社会学部教授(社会学)2017/3/6(月) 6:38

 いち早く指摘した人が、当然ながらあったのでした。


エートス ~ KM先生の教え ①

2019-01-30 11:59:00 | 日記

θ2019年1月26日(土)

 三重CMCCの加藤幹夫先生が、数年前にお書きになったものを送ってくださった。

 一読ただちに家族全員に転送。ここにも全文を掲載したいところながら、もともとの発表趣旨からしてここは控えるところかもしれない。こちらが哲学・倫理学の素養を欠くものだから、基本的なことに他愛もなく感動しているということもあるだろうか。もちろん、そのことは受け取ったものの価値をいささかも減じはしないのだけれど。

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 「倫理的な卓越性(徳)は本性的に与えられているものではない、それは行為を習慣化することによって生まれる。いかに行為すべきか、一般に過超と不足とを避けねばならない。中庸をとる習慣としてのエートス」(『ニコマコス倫理学』)

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 「倫理規範ではなく、内面的な機動力(起動力?)をもたらす倫理的姿勢としてのエートス」をM. ヴェーバーが例の著作で論じていること。

*

 「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。」(ルカ 22:39)

 「いつものように」と訳されたのが κατά το εθος 、字義通りには「習慣によって」である。ος が英語の as, like に相当し、εθω は「習慣である」の意の動詞、εθος は as usual というところか。εθω は εθνος (民族・国民)とも関連するのだろう。

 何しろ一時的な情熱ではなく、持続的な習慣であるところのエートス。‘‘Habit is a second nature.'' と言われて、"No, ten times stronger !" と返したのは、ワーテルローでナポレオンを破ったウェリントンとされている。

 ただし、習慣は形骸でもなければ義務でもない。加藤先生はここで僕にはとても面白く見える連想を提示する。祈りの習慣はヴェーバーが「内的機動力」(原語が知りたい!)と説明する通り、Sollen ではなく Sein に根拠づけられるというのである。

 さらに目映い飛躍、それは習慣の中で無理なく楽しくできる行為であって、R. ボーレンが『天水桶の深みにて』の中で「スポーツ的霊性」「遊びの範疇」と表現する行為に通じるという。

 消化不良を防ぐため、ここでいったん置く。

θ


アップ&アンダー

2019-01-29 09:55:59 | 日記

2019年1月28日(月)

 土曜日に大坂なおみが全豪オープンで優勝し、世界ランキング1位を決めた。にわかファンも大いに熱狂する。「なおみ」は誰がつけたのだろう。旧約聖書にナオミという女性名があり、日本的でありながら世界に通用する、自然で良い名前である。ヘブル語のナオミ(נעמי)は「幸せ」「和み」を意味するらしい。1971年にヘドバとダビデがブレイクさせた『ナオミの夢』のタイトルも、この仕掛けが背景にあったのだな。ヘドバ・アムラニ - 祖父母がイエメンからの移民で自身はイスラエル生まれ - は医者と結婚してアメリカで健在だが、ダビデ・タル ー ロシア人の父とポーランド人の母の間にフランスで生まれた - は1999年に麻薬中毒で亡くなったと、目まぐるしいようなプロフィルはすべてWiki情報である。

 日曜日には玉鷲が34歳の初優勝。今場所は内容が立派で腰の降り方が正統的に美しい。特に初顔以来14連敗中の白鵬に勝った一番が良かった。立ち合いはまともな当たりだったが、その後この大横綱が相手の顔をピシャピシャ張りまわす - どうしても止められないらしい - のにひるまず、いなしから押し出した。手芸やお菓子作りが趣味なのは聞いていたが、初土俵から15年間、一度も休みがないとは知らなかった。片男波部屋から優勝力士が出るのは第51代横綱玉ノ海以来48年ぶりだそうで、その玉ノ海も横綱在位中に亡くなるまで一度も休まなかったという。玉ノ海の急逝のこと、その報に接してライバルの北の富士が涙したことなど、鮮やかに思い出される。

 休場がないのはよく稽古して体をしっかり鍛えている証拠で、四股やすり足を人一倍励行していることは聞かなくても分かるが、18歳の時に両国の路上で鶴竜に偶然出会って角界入りが実現するまで、相撲をとったことがなかったというには驚いた。それからでは股割りなどさぞ苦労があったろうに、よくぞここまで鍛えあげた。来場所はこの玉鷲と大関挑戦の貴景勝が東西の関脇、小結が御嶽海と北勝富士で、横綱大関はまた大変なことだろう。

***

 大坂なおみに杉山愛さんが助言というのだろうか、高低を使った三次元のテニスで盤石の女王を目ざせといった趣旨のことを言ったそうである。テニスはまるで素人だが、サーブやロブ、スマッシュなどの高さと、ネットすれすれの低い弾道のコンビネーションだろうか。別の文脈でアップ&アンダーについて考えていたところだったので、面白く感じた。

 別のこと、ひとつはラグビーである。今年の大学ラグビーは明治が復活、22年ぶりの優勝を遂げた。縦の突進の明治と横に展開する早稲田の角逐は大学ラグビーの原風景みたいなもので、リーグ戦で早稲田が勝ち大学選手権で明治がリベンジした経緯など、22年を飛び越えて往時が戻ってきたようである。

 ここにもう一つ絡んでほしいのが慶応のタイガージャージーで、そのお家芸が果敢なタックルとアップ&アンダーなのである。ハイパントやゴロパントを駆使し、タテヨコではない高低の揺さぶりでゲームを動かしていく。二次元のラグビーが三次元に拡がり、また別の楽しみが現れる。慶応は早明ほどコンスタントに強くはないが、何年かに一度きまって大ブレイクするのだった。

 そう、アップ&アンダー、それでもう一つつながってくるのが、山下敬吾九段の碁である。これは言葉で説明するのが難しい。何しろ碁は二次元のボードゲームで、そこにどうして「高低」があるか、「何で?」とチコちゃん風に直撃されると言葉に窮する。ただ、ある程度碁を打つ者であれば確かに分かることだ。こうなると例の「囲碁宇宙論」を引っ張り出すしかないかな。盤側が地面で中央が宙天、われわらヘボアマは碁盤上の地面をのたくる知恵しかないが、地上の戦いに高低の次元 - 盤の中央を高みとする立体的な構想を持ち込める打ち手というのがある。

 この方面で押しも押されぬ代表格が宇宙流の武宮正樹大先生であるが、山下九段はまたひと味違った戦闘的発想に立って、上から下へ圧迫する打ちかたをする。中央指向というのだけれど、棋譜を追っていると上からしっかりダメを詰めておいて、やおら低いところへ抉るようなツケやらオキやらが飛んでくる、ダイナミックなコンビネーションがカッコいいのだ。何期か前の名人戦リーグで河野臨九段相手に見事に決まったことがあったっけ。中央近くでグイと曲がった力強い一手が、何と一団の大石の下腹部あたりに鬼手を生んだのである。まさしくアップ&アンダーで、その片鱗が進行中の第43期棋聖戦第1・2局にも出ている・・・ような気がする。こんなふうに打てたらな。

 相撲には高低や空中戦はないかと言えば、そうでもない。相手を高々と吊り上げる「つり出し」はかつて有力な決め業で、目の覚めるような相撲の醍醐味だった。輪島と貴ノ花などは土俵中央での吊りあいで、何度も旧国技館を沸かせたものだ。力士の大型化でこれがめったに見られなくなったのは残念というほかないが、いつか復活の日もあろう。

***

 考えたくないが、やはり欠かせぬ註というものがある。スポーツやボードゲームではない、ホンモノの戦争においてこそアップ&アンダーは恐るべき破壊力を発揮した。航空機による爆撃(アップ)と、陸では戦車、海では潜水艦(アンダー)の組み合わせである。第一次世界大戦中の両軍とりわけドイツ軍がパンドラの蓋を開け、第二次世界大戦当初の日本海軍もこの力を大いに活用した。今は制空権から制宙権へと射程が飛躍し、米中露などが主導権争いにしのぎを削っている。最悪最凶のアップ&アンダーである。

 これらすべてを盤上のこととし、盤と垂直方向に第4の軸を立てる想像力がほしい。ヒントを与えてくれるとしたら、数学と神学そしてSF、そこにテニスとラグビーと相撲と囲碁を加えるか。

 4次元アップ&アンダー、絵にかけるかな、かいたらどうなる?

Ω

 


各個撃破とナポレオン秘話

2019-01-25 09:30:17 | 日記

2019年1月25日(金)

 各個撃破、という言葉はどのくらい使われているんだろうか?

 僕がこの言葉を知ったのは、父の本棚にあった『統帥綱領』という軍事解説書からで、中学生時分に盗み読みしたのだが非常に面白い本だった。logistics という言葉が「兵站」をも意味する一事から知られるように、軍事の発想は平和を維持するためにこそ有用ということがある。

 この本で、各個撃破の最大の成功例として挙げられていたのがナポレオンの軍隊である。フランス革命は近代史上に国民軍という怪物を登場させた。その動員力は王や貴族の私兵の集合体である他国の軍隊を桁違いに圧倒したが、それでも全ヨーロッパに大同団結されたら勝負にならない。

 そこでナポレオンは戦力の迅速な移動と効果的な集中で局地的な数的優位を作り出し、諸国の軍隊を個別に打ち破る戦略をとって、それができた間は勝ち続けた、そういう話だったと思う。

 それがどうしたって?

 目の前に積みあがったタスクの山、どうしたってこなせる気がしないんですよ。そんな時は少々誇大的に構え、対仏大同盟に包囲された革命フランスに自分をなぞらえて、「各個撃破」と唱えつつひとつひとつやっつけるのね。その伝で、どうにか印刷教材の3章までと専門医更新手続きが終わった。2月末まではこれを続けていくしかない。

 ブログ書くのを止めて、その時間を仕事にあてる?

 それはダメ、フランス人に「勝ちたければワイン飲むな」というようなものだ。ワインの空き瓶を火炎瓶に仕立ててレジスタンスを続けたんだからね、あの人たちは。

***

 『ナポレオン秘話』ジョルジュ・ルノートル/大塚幸男訳(白水Uブックス)、1992年以来の愛読書である。世界史上稀有の英雄の魅力を17の秘話で綴ったものだが、一から十まで英雄を讃仰したものではない。とりわけエルバ島への途次 - 皇帝は囚人の如く護送連行されたのではない、かなり自由度の高いお忍び旅行といった体だったのだ - ある宿屋で相手が誰だか知らずにおかみが毒づく場面が忘れ難い。

 「ではあんたはそんなに憎んでいるのか、あの皇帝を。あの人があんたに何をしたっていうのだね?」

とナポレオン。おかみの返答は、

 「あいつがわたしに何をしたかって?あの人でなしが?わたしの息子や甥が死んだのはあいつのせいなんだよ。そしてあれほど多くの若い者たちが死んだのも。」(上掲書 P. 113)

 覇業の美布を絞れば、無告の民の涙が滴り落ちる。常にそうしたものである。

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ダグ・ハマーショルド

2019-01-24 11:01:39 | 日記

2019年1月24日(木)

 「われわれが人格神を信じなくなった日に神が死ぬ、などということはない。むしろ、いっさいの理性を超えたところに源を発する、たえず更新してやまぬ奇跡の放つ光に照らされて、われわれの生が変容を遂げるということが絶えてなくなった日に、われわれのほうが死ぬのである。」

『道しるべ』ダグ・ハマーショルド/鵜飼信成(訳)みすず書房 P.61(一部改変)

***

 ダーグ・ヤルマル・アグネ・カール・ハンマルフェルド(Dag Hjalmar Agne Carl Hammarskjöld; 1905 - 1961)、スウェーデンの外交官。第2代国連事務総長(任期:1953年4月 - 1961年9月)。在任中に死去した唯一の国連事務総長。コンゴ動乱の調停に赴く途次、搭乗機がローデシア(現ザンビア)で墜落した。当然ながら謀殺が疑われ、いったん否定されたが、潘基文事務総長時代に設置された国連調査委員会は「外部からの攻撃・脅威」の可能性を示唆する報告書を2017年10月25日に公表した。たぐっていけばJFKとよく似たところにたどり着くものと、個人的には考えている。

 幼年期のハマーショルドが、スウェーデン首相であった父と交わした会話について、小学生の頃に聞いた覚えがある。第一次世界大戦中の1915年、ドイツが潜水艦による無差別攻撃を開始し、スウェーデンの艦船にも被害が出た。対独参戦の世論が高まる中、父ハマーショルドは中立の立場を崩さず、疑問をもった息子は「一国民として」父に存念を問うたという。

 そこで父もまた、スウェーデン首相として答えた。いかにもドイツの所業は非道であるけれども、参戦すれば現状とは比較にならない夥しいスウェーデン人の命が失われるであろう、それは首相として自分の選ぶところではない、と。

 男子の本懐。

 そういえば、彼は『野いちご』を見ただろうか?

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ダグ・ハマーショルド

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