散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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麦秋

2019-04-29 20:07:06 | 日記
2019年4月29日(月)
 信じて待つことは、ただ待つこととは違う。信じて待つためには、まず信じなければならない。それは能動的・意志的な行為であり、待つことの意味を根本から変える。時間の経過を諦念とともに甘受するのではない、幻の実現を忍耐強く呼び込むのである。
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 朝、最寄り駅を発って新神戸から岡山までは一瞬の間、岡山駅の乗り換えは至って便利で、1時間も経たずに讃岐路に入る。それからが長い。何でこんなにかかるのかな。
 答えは分かっている。列車の遅さではなく、単線であることが原因だ。子どもの頃から見慣れたようでも、野中を一筋に走る二本一組の鉄路を見ると、今でも一抹の不安を覚える。ぶつかるということ、正面衝突は本当に起きないものだろうか・・・
 ぶつからないよう途中駅で待ち合わせ、すれ違いつつ運行するからやたらと時間がかかるのである。日露戦争の際、当時単線だったシベリア鉄道の輸送効率を上げるため、ロシアは極東側の終点(ウラジオストク?)で到着した列車を焼却し、片道で物資を送り続けたという。
 不便さも四国の魅力のうちとはいえ、大動脈である予讃線・土讃線が複線化されぬまま終わったことには、さすがに考えさせられる。
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 不平を言うわけではない、車窓には遅さゆえの楽しみがある。西条を過ぎたあたりで、畑一面が金色に輝いているのに気づいた。麦が収穫の時を迎えている。壬生川(にゅうがわ)を過ぎて今治あたりまで、ずっと同じ眺めを堪能した。


 刈り取り間近の稲田が重たげに頭を揺らすのと対照的に、麦は整列佇立で密集している。「麦秋」という言葉が浮かんだ。麦の収穫期、つまりちょうど今頃を指すものである。小津安二郎監督の映画にこのタイトルのものがあり、笠智衆、淡島千景、杉村春子、そして原節子と錚々たるキャストである。

『麦秋』(1951)

 この題名がなぜ選ばれたか。原節子扮する主人公が、映画の末尾でやや遅い結婚に至り、家族のありようが変わっていく。ヨーロッパで June Bride が祝福の象徴であるのは、6月が小麦の収穫期であることが背景。日本では稲の秋に比べて影の薄い「麦秋」に、祝福と哀惜をこもごもこめたものか。
 母が「麦秋」という言葉を好んだのは、農家の生い立ちに依るものとばかり思っていたが、あるいは映画の影響があったのかもしれない。
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 壬生川駅停車中、ホームに見かけた真新しい椅子。中央のくりぬかれた部分に注目。四国の形はこうしてみると蝶のようにも蝙蝠のようにも見え、ふっくらと意味ありげでロールシャッハの図版に使えそうだ。


Ω

チョー回文

2019-04-28 10:08:11 | 日記
2019年4月28日(日)
 研修医時代に患者さんから教わった傑作:
 ・ 軽い機敏な子猫何匹いるか

 高校時代の次男が学校で仕入れてきた代物:
 ・ ●●●●●●●●●●●●●●●●●

 英語のネタ本から:
 ・ Able was I ere I saw Elba.

 どこで教わったんだったか古典の名作:
 ・ 長き夜の遠のねふりの皆めさめ波乗り船の音の良きかな

 今次帰省の途上たち寄った某所に一枚の紙片あり。一瞥、記さずにはすまないお宝だが、著作権が発生するものじゃないんでしょうね。元の持ち主は長男くんか姪っ子ちゃんか、返して欲しくば申し出られよ。

1 まさか逆さま
2 磨かぬ鏡
3 カルビーでビールか
4 声で活かせ世界でエコ
5 預金いくらで楽隠居  ← !!
6 大臣がぁアカン辞意だ
7 数学と理科ばかり解くガウス
8 ダメよダメ最悪 愛冷めたヨメだ
9 喜べタマ鰯はいま食べ頃よ  ← !!!

 「ヨメ」という言葉は、昭和の標準語では姑(しゅうと・しゅうとめ)から見た場合の息子の配偶者を指していた。ただ関西で、配偶者を「うちのヨメはん」などと呼ぶ表現がローカルに通用していた事情はある。そのあたりが発火点か、平成の後半から夫が妻を指して「ヨメ」と呼ぶことが急速・広範囲に汎化してきた。そのどちらの意味なのかで、8から浮かぶ情景は微妙に変わってきますね。
 何しろ力作揃い、楽しませていただきました。どなたか知らないが、ありがとう!

Ω


戦国策

2019-04-25 13:04:05 | 日記

2019年4月24日(水)

 会議の後で図書館に立ち寄り、『戦国策』を探す。明治書院の新釈漢文体系に上・中・下三巻本があり、上の末尾あたりが「斉策」である。戦国七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)の中から次第に秦が抜きんでようとし、これを横目に諸国の思惑が交錯する。一国を王一人で経営できるものではなく、王に対して賢人らが進言・助言・諫言するものの、そこには甘言も讒言も混じるのが必然で、これを選ぶ王の目が運命を分ける。

 

 燕と斉は秦からやや遠隔にあり、直接国境を接していない。それだけにこの二国の動向が合従連衡のあり方をしばしば決定したようである。『玄々碁経』に出てきた「解連環」の逸話は下記のようである。前後に分け、明治書院版の翻訳を少々変えながら転記する。
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 斉の閔王が殺されると、子の法章は難を避け、姓名を変えて身を隠し莒(きょ)の太史の家僕となった。太史敫(きょう)の娘は法章の容姿のとりわけすぐれているのを見て常人ではあるまいと見抜き、同情して密かに衣食を恵み、情交を通じ合った。やがて斉の旧臣らが勢力を回復し、閔王の子を探して王に立てようとしたので、法章は名乗り出て即位し襄王となった。
 襄王は太史敫の娘を立てて王后にし、子の建を生んだ。しかし太史敫は「媒酌人もなしに嫁いだ娘は血族ではない。わたしの生涯を台無しにしてしまった」と言い、死ぬまで(娘や孫と)対面しなかった。ところが君王后は賢い婦人で、父が対面を許さなくとも人の子として礼を欠くことはしなかった。
 襄王が亡くなると、子の建が立って斉王となった。君王后は秦に仕えるの恭謹を以てし、諸侯と交わるのに信義を以てした。このため建が立って四十余年、外部からの侵攻を受けることがなかった。
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 秦の昭王(始皇帝の曾祖父)がかつて使者を君王后に玉を連ねた環(知恵の輪)を贈って言った。「斉には知恵者が沢山おられるようだが、この環をお解きになれるかな」と。君王后がもろもろの臣下に示したが、誰も解き方が判らなかった。すると、君王后は傍らの椎(つち)を引き寄せて環を打ち砕き、秦の使者に謝して言った。「謹んでお解きいたしました。」
 君王后が病んで死に際に、太子の建を戒めて「わが亡き後、群臣の中で用うべきは誰某」と言った。建が「どうぞ書き取らせてください」と言うと、君王后は「いいでしょう」と言ったが、いざ筆と書板を取って待ち受けると、「この老婆は、とっくに忘れてしまいました」と言った。
 君王后が亡くなると、後に后勝が斉の宰相となったが・・・(以下略)
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 言うまでもなく、建は后勝に謀られて国を滅ぼし、非業の最期を遂げることになる。斉は春秋五覇の一でもあり、紆余曲折を経つつ春秋・戦国時代を長らえた。紀元前221年に斉を併呑したことをもって秦の覇業が完成に至る。
 君王后の建に対する遺言の場面は興味深い。これほどの重大機密を書き記すわけにはいかず、文字として遺れば必ず災いの許になる。40余年にわたって賢母の薫陶を受けながら、その機微が飲み込めていない息子に君王后は絶望したことだろう。若い日に父の使用人の中から未来の斉王を選びとったこの女性の慧眼は、最後まで曇ることがなく、それゆえ苦い未来を予見することになった。
 この女性を主人公として歴史小説を書いたら、面白いことだろう。

Ω

河鍋暁斎

2019-04-24 07:58:42 | 日記
2019年4月24日(水)
 昨夕は4か月ぶりにミルクワンタンに出かけ、その席でO君から河鍋暁斎という鬼才について教わった。大変な画家があったもので、日本の絵画はどこまで奥が深いものかと驚嘆する。
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 河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、天保2年4月7日〈1831年5月18日〉 - 明治22年〈1889年〉4月26日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。

 
Ω