散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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学びたい言葉

2022-07-14 10:53:52 | 日記
2022年7月14日(木) 
 フランス革命記念日。以前書いたとおり、現代フランス人にとって事実上の建国記念日である。今夜は満月、パリの様子はどうだろうか。

 地下鉄サリン事件の時はちょうどアメリカ滞在中だったので、研究室の人々からいろいろ訊かれた。
 説明しようとして、ことの初めに「特異な宗教団体(religious group)があって…」と言いかけたら、とたんに「religion じゃなくて cult ね」と訂正の声があがり、周囲の全員が一斉に頷いた。誰かが話し始めたら、遮ることなく一通り聞くというのがアメリカ社会に浸透した不文律 ~ この点トランプ氏はきわめて異色 ~ であるだけに、この時のことは今も印象に強い。
 これを日本の友人らに知らせたら、法社会学の研究者であるH氏がとりわけ感心し、
 「そういう明晰な言葉の使い方を、日本人は学ばねばなりません」
 と書いてきたものだが、あれから四半世紀を経て誰かが何かを学んだ形跡は、とりたてて認められない。先週の金曜日以来、「宗教」に対する人々の嫌悪感と警戒心は高まる一方であり、海底火山が新島を造る勢いで、ここに新たなスティグマが形成されるかとも思われる。
***
 トランプ氏による「替え玉選挙人」工作の依頼に対して、アリゾナ州議会下院のバウワーズ議長は
 「私はあなたを支持し、票も入れたが、あなたのために法律を破ることはできない」
 とトランプ氏に直接伝えたという。
(朝日新聞7月14日朝刊 国際面)

 「あなたを支持しているが、あなたのために法律を破ることはできない」というこの言葉こそ、日本人が学ぶべき明晰な表現というものだ。この原文を英語の教科書に載せ、生徒らに暗誦させるがよい。構文や語彙は中学英語で十分足りるものだが、その内容は日本の多くの大人、とりわけ政界や官公庁、一般組織に属する人々に決定的に欠落しているものである。
 この欠落の淵源が鎖国時代の統治システムにあることを、何人かの論者が「明晰に」指摘している。

Ω

土佐の高知のイソヒヨドリ

2022-07-02 10:07:52 | 日記
2022年7月1日(金)
 N先生よりメールをいただく。

 彼の地も猛暑、日課の午後の散歩を午前中の涼しい時間帯に変更のうえ、海に面した木陰を選んで散策しておられると、イソヒヨドリが頭上の枝に飛んで来てとまった。
 いつも会っている鳥かどうか、先生が「ピーコー、ピーコー」と呼びかけると、逃げもせずしばらく相手をしてくれている。やがて少し先へ飛んでいき、先生がそこまで歩いて行くと、またしばらく相手をする。そんなことが二度、三度。
 そのうち地面に降りて餌をついばみ、やがて飛び去ったのだと。

 先生、今日も今頃お出かけだろうか。

   
 
 Ω

聖書の中のある笑い

2022-07-01 07:44:15 | 日記
2022年7月1日(金)

 ダビデは立ってその日のうちにサウルから逃れ、ガトの王アキシュのもとに来た。アキシュの家臣は言った。
 「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。」
 ダビデはこの言葉が心にかかり、ガトの王アキシュを大変恐れた。そこで彼は、人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした。
 アキシュは家臣に言った。「見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ。わたしのもとに気の狂った者が不足しているとでもいうのか。わたしの前で狂態を見せようとして連れて来たのか。この男をわたしの家に入れようというのか。」
(サムエル記上 21:11-16)

 このくだりを笑わずに読めというのは無理な話であるし、笑わずに読んだとしたら何も伝わっていないことになる。もとよりダビデは生き延びるために必死であり、本人にとって笑い事どころではない。だから可笑しい。壮絶な可笑しさである。
 「ユーモア」とは別の話になるか、あるいはこれをも聖書のユーモアの系譜に加えてかまわないか。
 「わたしのもとに気の狂った者が不足しているとでもいうのか。」

 そうそう、わが職場の考査基準によれば、この表現はアウトなのだった。

 「わたしのもとに精神に異常をきたした者が不足しているとでもいうのか。」

 とせねばならない。
 失礼しました。
Ω