散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

川上・吉原・沢村栄治/ハロウィーンの怠け者

2013-10-31 08:52:06 | 日記
2013年10月31日(木)

川上哲治さん28日に他界、最近姿を見かけないが、お元気なんだろうかと言ってたところだった。
93歳、そうだよな、そういう御年だ。

熊本工業でバッテリーを組んだキャッチャー吉原は、巨人入団当時、川上より評価が高かったらしい。
吉原も、彼が球を受けた沢村も、1944年に戦死した。
吉原はインパール作戦後のビルマ、沢村は屋久島近くの東シナ海だった。
そういう世代である。

川上も入営したが、内地で敗戦を迎えた。
帰農して郷里に在り、1946年4月のプロ野球再開に向けて巨人から誘いがあった時、家族を養うため
「3万円もらえるなら」と答えたという。これがプロ野球における契約金の原型だそうだ。

川上さんは、いったいいくつのマンガに登場したろう?
『巨人の星』なんてのはずっと後発で、あの時代の野球マンガは川上に王・長嶋・金田がいなければ話にならなかった。ストーリーを組み立てる上では、ON以上にドン川上の存在がカナメだったんじゃないかな。

僕が最後に覚えているのは、西武ライオンズが何度目かに優勝した日本シリーズのテレビ解説。
主砲秋山が値千金のホームランを打ち、ホームインの際にバクテンしてみせた。
それを見て川上さん、「ほほう、熊本出身にもこんな剽軽な男がいますかな」と、ことこと笑ったものだ。


(沢村と吉原 Wikipedia)

***

ハロウィーンなんだそうだ。
渋谷はコスプレ満開と、次男情報。
何だかなぁ・・・

ヨーロッパの基層をなすケルト他界の、年に一度の祝祭と思えば、これは相当に面白い現象なんだけど。
「万聖節」として取り込もうとするカトリック、そこからはみだし、あふれだす闇の力、

ゾクゾクする話だ。
コスプレじゃあ、ゾクゾクしない。

吉原と沢村が、連れ立って川上さんを迎えに来るとか、ないかな。

***

「何しろ怠け者なので」と、ある人へのメールに書いたら、
「『怠け者』というのが善悪ではなく、性格でもなく、貴兄の心情を物語っているようで笑いました」
と返ってきた。
なるほど、これって心情なのか。

怠け者は偉いんだ、三年寝太郎のあの爆発力をみなさい。

ふるまわないと、イタズラしちゃうぞ。
Trick or treat!


六本木から渋谷へ/アシュトン・マニュアルとKM先生

2013-10-30 08:47:51 | 日記
2013年10月29日(火)

午後から「放送大学創立30周年」記念行事。
六本木のホテル会場で、式典とシンポジウムに3時間。その後は立食パーティー。
向い側の部屋には「S君のいっそうの活躍を期待する会」との看板がかかり、国会議員などが集まるふうである。

パーティー会場への入場を促す声がかかり、歩きだす傍からホテルマンが連呼する。
「右側からもお入りできます」「右側の扉からもお入りできます」

お入りできます・・・
言ってて背筋がゾッとしないのかな。

すぐに「年齢のせい」などと言うのは愚劣だが、確かに加齢の影響があると思うのは、十年前まではイヤイヤながらも耐えられた状況が、今はガマンできなくなっていることである。
たとえば満員のパーティー会場の人いきれだ。
あっという間に頭痛がしてきて、開会早々にリタイア。
乾杯までもたなかった。

***

その足で渋谷へ移動し、外の風にあたって一息つく。
牛タン・麦とろの定食、パーティーのフォアグラ食よりこのほうがいいや。

イザベルさんとクチブエ君が主宰する薬の勉強会、今回からアシュトン・マニュアルを丁寧に読んでいく。
僕が碁にウツツを抜かした一日、クチブエ君は釜石で17kmあまりのマラソンを走ってきた。
アップダウンの激しい難コースだが、彼はもう何年もこれに出走することを習慣にしている。

マニュアルは、
「ベンゾジアゼピン系を長年のんでいる患者自身が副作用による不調を訴え、医師のほうは気づかない」
という状況を提示している。
しかし、イザベルさんの実体験では、
「のんでいるほうが体調が良いのだけれど、飲み続けるのは体に悪いと聞くので何とかやめたい」
という相談が多いという。
患者自身は、自分の不調が原病から来るのか、それとも薬の副作用なのか、渾然として分からなくなっているとも。

確かにそうだ。
どこから生じる違いなんだろうか、興味深い。

今日は初めての参加者あり、Kさんとおっしゃる苗字をうかがって、ふと連想が働いた。
「KMさんとは、何か関係がおありなのですか?」

KM先生はずいぶん前に他界なさったが、僕などにはいつになっても「そこ」に存在する偉人である。
ただ、さほど珍しい姓でもなく、質問としては突飛なものだ。
ところが、

「関係が、あります。そんなふうに訊かれたのは初めてですけれど。」

お互いに驚いた。
Kさんの、お姑さんだったのだ。

世界って、どういうカラクリになっているんだろう。

また当たった/二年越しの卒論/人から好かれること

2013-10-30 00:32:29 | 日記
2013年10月28日(月)

週が明け、通勤の途次に新木場駅のホームで週刊「碁」を買う。
表も裏も井山が勝っているが、中を見ていくとポスト井山を狙う十代棋士の台頭しきり。
楽しみなことだ。

週末にみっちり打って、まだ腰が痛い。
電車の扉脇の手すりに背中をぐりぐり押しつけながら、段級位認定問題のプレゼントコーナーを見て目が丸くなる。
また当たった・・・



これで確か5回目だ。
何カ月ぶりかで何となく思いついてハガキを出してみたら、また当たったよ。
応募者は毎回400人近くもいるんだから、これは相当な強運、
「この趣味は続けてよい」という天の導きか、それとも悪魔のささやきか。

「囲碁書籍」って何だろう、既に持ってるものでないといいな。
どうせなら一等の対局時計が良いのに。あれ、買うと高いんだ。

***

Nさんが卒論の仕上げのため、八王子から2時間以上かけてやってきた。
この人に卒論は難しいと思ったが、非常な熱心を退けるに忍び難く、
「二年かけてもいいなら、受けましょう」と回答した。
そしたら本当に二年間、たいへんな努力を重ねて頑張ってきた。

結局ここへ来て時間との競争、あと一息である。

***

Eさん:

信念に従って生き、結果的に人から賞でられた時には、喜びがあるでしょう。
しかし、人の視線に縛られ、好かれることに汲々として過ごすならば、首尾よく好意を得たとしてもたかだか安堵が残るにすぎず、それ以上の喜びは期待できません。
肩の荷を降ろした次の瞬間から、またしても視線を覗う生活が始まります。
これを徒労と呼ぶのではないでしょうか。

そのような呪縛から、自由になってほしいのです。

囲碁大会(続き)/碁会所デビュー

2013-10-29 23:05:11 | 日記
囲碁大会の件、続き。

***

気合の入る一局目、相手のテヅカさん(三段)を見て、オヤと思った。
昨年一月、初めてこの種の大会に出た時、2勝2敗の第5局にあたった人だ。
大石を取って取られて大乱戦の末、時間が切迫して対局時計をもちこまれ、数十人のギャラリーに取り囲まれての大立ち回り。数えてみたら意外の大差で勝たせてもらった思い出の一局だ。
背が曲がり杖を突いて跛行しておられるが、碁は激しく若々しい。
「え、そうかな?前に打ちましたか、そうだったかなあ・・・」
相手など見ず、碁に集中しているのであろう。今日はじっくりした揉みあいになった。

碁は形勢判断ということがあるので面白い。
僕はいくらか自分が苦しいと思っていたが、テヅカさんも自分が悪いと思っていたようなのだ。
終盤やや無理気味のヨセを打ってきたのは勝負手だったらしい。
反発し合っての大きな変化はこちらの有利に転び、大差がついた。
「負けました」と呻くようにおっしゃるテヅカさん、心底残念そうである。
「そうか、前にも当たったか、あんた強いなぁ・・・」

勝負事の面白さで、一度対戦した相手はよほど感じが悪くない限り、心理的な距離がぐんと近くなる。
テヅカさんもそんなところだったのか、その後はすれ違うごとに声とハッパをかけてくださった。
僕はこれがこの日唯一の白星、テヅカさんは残り3局を全勝してめでたく入賞である。

***

二局目はタケダさん(三段)、この人は初対面だ。
どこかで会ったような気がするのは、CCC(CMCCとは違う)でお世話になったK先生に似ているからかな。
相手は中国流、コモク側に遠く高くかかったところを強引にハサンでくる。見かけによらず乱暴な。
定石に依らずに切り結ぶこと20手ほど、好みに反して石が下に行き、相手に外勢を張らせるワカレになる。

中盤の競り合いは手応えあり、筋はこちらの方が良いようだ。
シチョウアタリ2本を利かして中央に進出し、気持ちよく寄せていく。
終盤一瞬ヒヤリとしたのは、立ち上がりに封鎖された石の死活。やはりモグるのはよくない。
幸い相手の見損じに救われて、いざ作ってみると盤面一目の負け。
タケダさん、しきりに申し訳ながるのだが、この時が不思議だった。
なぜか悔しくないのである。

これが互先ならコミがかりで5目半の勝ち、途中の好感触は間違っておらず、ただ一段分のハンデを返しそこねたわけなんだが、しかし何でかな?頭の中は原因探しに向かっている。
どうやら序盤が悪かった。
注文通り外勢をプレゼントしたのが考えもので、注文を外すことを考えるべきだった。

テヅカさんがやってきた。
「なに、一目負け?何ともったいないことを、ワシに勝っといて、あんたしっかり勝たんかいな」
「すみません」
代わりに悔しがってくださる。

***

昼休みにワタナベさんを見つけた。
五段とおっしゃるが、往時はそれ以上に強かったらしい。
テヅカさんと対局した昨年一月に、ワタナベさんとも当たって貫録負けした。
「難しく難しく打ってこられましたね」
と巧みな表現で敗因を指摘され、学士会の囲碁部へ誘っていただいたものだ。
かなりの高齢と見えるが、お元気そうで安堵する。

2局も打てばもう堪能、食後の眠気も手伝って、このあたりから勝負へのこだわりが一段と下がるようだ。
午後の一局目はフジモトさん。
二段なので二子置かせて打つのだが、何だか相手が落ち着かない様子である。
「四段ですか、どうもなあ」としきりにぼやいている。僕は僕で、置かせて打つのは勝手がわからない。

流れは悪くない。
左辺・左下・下辺、三分された相手の石が、どれも怪しげな形をしている。
後から考えると、ここで判断を誤ったのだ。

まず左下を下から攻め起こす。部分的に一眼しかできず、中央に逃げ出すのを追って右下とのカラミに入り、これは理想的なパターン。
行けると踏んで右下の眼をとりにいったのが無理手だった。
打ち過ぎは八年の患い。猛然と反撃され、逆にこちらがちぎれてしまった。
やむなく右辺の大石に狙いを絞るが、これも一歩及ばず二眼の生き、そうなると地が足りない。

乱戦の中でまたしても「時計」導入。
そこからフジモトさんが激しくぼやき始めた。
「いやだなあ、これが切れたら負けかい」「考えられやしない、こんなの碁じゃないよ」
しきりにぼやいては、着手後にボタンを押し忘れてまたぼやく。
しかし僕も心中は同感、これは僕の打ちたい碁ではない。

「フジモトさん、もうやめましょう、私の負けです。」
「いいんですか?」
「いいです、この大石が死んでますから」
最後まで打てば何が起きるか分からない。
しかしどう転んでも、この碁はこれ以上楽しくはならないだろう。
「弱い石を追い立ててカランだところまでは、私が良かったと思います。ただ、決めに行った手が打ち過ぎで、それをきっちりとがめられましたから。」
「そうなんですか」
「そう思います。もう少しゆっくりアオっていけば、白が打ちやすかったでしょうけれど、見事な逆襲でしたよね。」
相手は少し不機嫌そうに黙っている。

よく考えれば、失敗はもっと早い段階にあった。
左下でも右下でも、部分的に活きがないという判断は正しく、相手が気づいていないと考えたのも正解だったが、それをとがめにいくのが一手早すぎた。
「次は行きますよ」と中央から圧迫し、その利きで中央に模様を張るのが自分本来の流儀でもあった。
取れると思った時がいちばん危ない。ピンチがチャンスであるように、チャンスはピンチでもあるのだ。
「仰向けに高転びに転ぶであろう」とは、絶頂期の信長を評した安国寺恵瓊の言葉である。

用を足して帰ってきたフジモトさんに、声をかけられた。
表情が、今はいくらかさっぱりしている。
「下手(したて)の私が言うのもなんですけど、イシマルさんの碁はきれいですね」
「え?」
「いえね、上手(うわて)ってのは大概わけの分からない手を打ってきたり、ハメ手でひっかけたりしてイジメるでしょう。だから四段と聞いてイヤだなあと思ったんですよ。でも今日はきれいな手で堂々と打ってこられて、驚きました。」
「ありがとうございます!」

碁をやっていて、こんなに嬉しいことはない。
美しい碁を堂々と打ちたいのだ。
指導碁でプロから褒められたことはあったが、まさか下手から褒められるとは思わなった。
「私ら、毎週ここで打ってるんです。ぜひまた教えに来てください。」

ああ、今日は好い日だ、来てよかった。

***

やりとりを横で聞いているオダさんも、この会館で打っているらしい。
オダさんとは、一月の大会で二年続けて当たった。
同じ四段だが少々ムチャ攻めの癖のある人で、それを咎めて昨年は盤上に相手の石がなくなるほど取ってしまった。今年一月も似たような展開で、テヅカさんと違いオダさんははっきり覚えている様子。

最後の相手は、そのオダさんである。
そうと知って、残り少なくなった闘争心がほぼ枯渇した。といって、いい加減に打つわけにもいかない。
ここは発想転換、いつも考えながら実行できないでいる打ち方を、いろいろ試してみるとしよう。

で、ノゾキをツガず、捨てて外に回ってみる。
あるいは断点を敢えて切らず、まとめて大きくアオってみる。
あれこれやってみたが、慣れないことはうまく行かない。あちこちハミ出されて地合いで大差をつけられた。
それでもこれが本日最後の局、いちおう作ってみようか。すると碁は最後まで分からない。
打ち終えてダメづめ、最後の最後にオダさんが間違えて超大石が頓死してしまった。
「負けました、大逆転です。」
「よしましょうよ、オダさん、ダメづめですよ、こんな勝ちをいただくわけにいきません。」
「いや、私の負けです。」
「いいえ、私が負けです。」
押し問答に、みんなが笑い出した。審判が困った顔をしている。

「なんだい、あんた強いに何をやっとる、優勝せんかいや!」
「すみません」

テヅカさんが、決めのハッパをかけてくれた。

***

会場から家まで、真正面から照らす夕陽を避けながら3kmほどの道を歩く。
急に腹が減ってきて、昼に残した握り飯を食べながら歩いた。
ああ、今日は好い日だった。勝負にこだわらなければ、碁はこんなに楽しいのだ。

家の近くまで帰ってきて、ふと思い立って商店街の碁会所に立ち寄ってみる。
前々から気になっていたが、良い機会だ。
10人ほどの男性に女性が一人、思い思いに盤を囲んでいる。
受付の女性に挨拶し、「四段ぐらい」と自己紹介して入れてもらった。
紹介されたスズキイチローさんは、三段とのこと。今日は三段相手が多かった。
「同じイチローさんでもだいぶ違うわね」
「何を言う、ワシの方がイケメンじゃ」
と和気藹々。

今度は時間を気にせず、向う先で二局。
「打ち過ぎず、丁寧に」と、反省を込めて手を選ぶ。

「ほほう、温厚な人だの、ワシみたいな乱暴をせんわいな」
「そうでもないんですよ」

今度こそ堪能した。


稲尾と田中/兄弟たち/趙治勲 ~ サブカル相互浸透の英雄

2013-10-29 08:11:26 | 日記
2013年10月29日(火)

田中将大、二度目の沢村賞、文句なしだ。
外角に決まる彼のストレートが絶品である。伝説の沢村のストレートはどんなだったんだろうか。
僕の知る範囲で、田中は稲尾さんに重なるところが多い気がする。

うなる豪球と緻密なコントロール、積み上げた勝利の数、日本シリーズで読売の前に立ちはだかるところまで、よく似ている。稲尾さん、もう少し長命して今年の田中を見てやってほしかった。

***

前にも書いたが、長男が高校の修学旅行で九州を訪問中に稲尾さんが他界された(1937-2007)。
長崎でビードロを買ったあの旅行で、ちょうど彼は大分県内にいたのではないかと思う。
よくそのことを思い出すのは、なぜなんだろうか。
晩年の稲尾さんの温顔に惹かれるところが僕の内に強い。

長男と次男は2歳違いで、くんずほぐれつ一対として育ってきた。
長男は3歳から6歳、次男は1歳から4歳をアメリカで過ごし、出先でよく「双子?」と訊かれた。
特に似てはいない。白人や黒人はアジア系に比べて多胎率が高いので、そういう発想になるのであろう。
ただ、彼らの育ち方はある種の「双子」と言えたかもしれない。もって生まれた個性は容姿同様に違っていたけれど。

三男は少し年が離れている。
7歳年上の長男にけっこう「いじられた」ことを、今になって明かすのが可笑しい。

ケーキを切ったのが置いてあって、
「こっちは4分の1、こっちは5分の1、どっちがほしい?」
「え~っと・・・」
「4と5は、どっちが大きいの?」
「5・・・わかった、5分の1をちょうだい!」

三男が訪ねていく先の道を、長男がよく知っているという。
「駅を降りて、坂を上っていくとね、右側にコンビニがあって」
「コンビニね」
「もう少し行くと、左側にカラスがいるから、そこを右に曲がるの」
「カラスだね、わかった」
・・・着かないって

末っ子は鍛えられる。
むろん、兄たちには兄たちの苦渋も忍耐もあったのだ。
血を分けた他人の始まりたちが、共に育つ幸いを思う。

***

テーブルの上に、何かの広告冊子が置かれてある。
特集記事のテーマが「和のお・も・て・な・し」云々と日本の伝統美を前面に掲げるらしく、しかし表紙を飾る写真がKARAの華やかな面々なのに思わず笑ってしまった。

このことひとつをとっても、良い時代になったと思う。
政治的な対立があり、人心を蝕むヘイト・スピーチの応酬があるいっぽうで、サブカルチャーのレベルでの相互浸透は確かに進行している。エントロピー増大則と関連づけることができるのかどうか分からないが、この種の浸透は巨視的には止められないもののようだ。
むろん、それが少数者にとっての脅威となる場合もある ~ たとえば北米やオーストラリアの、そして日本の先住民にとって。しかし今のこの極東情勢の中では、それこそが希望であるように思われる。

で、

結局お前の話はそこに落ちるのかと言われそうだが、趙治勲という棋士に敬服するには、そういう文脈も手伝っているのだ。

彼は僕のちょうど半年前に生まれた。まさに同世代人である。
幼くして囲碁の手ほどきを受けるや直ちに異才をあらわし、ソウルに天才少年ありとの噂が立った。
来日して木谷實道場に入門したのは1962年、治勲6歳の時だ。

1962年・・・

今とは違う、全く違う。
日韓基本条約によって両国の国交が正常化するのは1965年のこと、かつて韓国を植民地として支配した日本との間には国交すら樹立されず、李承晩ラインはベルリンの壁や鉄のカーテンに匹敵するほどの隔たりを作り出していた。
そこへ6歳の愛児を送り出す時、両親はどんな思いであったか、治勲少年(少年というにも早すぎる!)またどんな気持であったか。



しかしこの子はまさしく臥龍であり、やがて昇竜となった。

来日翌日、こちらは台湾から来日し、当時気鋭の二十歳であった林海峰六段に、五子局で勝ちを収める。
1968年、11歳9か月でプロ試験に合格。これは当時の最年少記録だ。
1971年、五段昇進。この時のインタビューで、「僕は五段になるために日本にきたんじゃありません」と答えたという。こういうところが、常に気魄をむき出しにする対局姿勢とともに、反感を買いもしただろう。

彼が最初にビッグタイトルに挑戦した時、新聞社などに寄せられる「ファン」からの手紙の中に、相当量の趙バッシングが含まれていた。
「日本の伝統あるタイトルを韓国人に取らせるな」式のものだ。
ある記者がこれを憂慮して記事を書いた。趙は確かに韓国生まれだが、木谷道場で育ち日本棋院で活躍する日本の棋士である。そのように彼を見てほしい、と。
すると思いがけないところから文句が出た。
記事を見た韓国の関係者が激しく抗議したのである。
「彼はれっきとした韓国人であり、国民的な英雄だ、日本の棋士などと言わないでもらおう・・・」

それもこれも趙治勲が強すぎたからである。
嬉しいことに、趙自身はただの一度もブレることがなかった。
「日本」に阿ることなく、「韓国」に媚びることなく、他の誰もまねできない独特の棋風で打ち続け、勝ち続けた。

趙が大きな交通事故に遭ったことがある。1986年1月のことである。
乗用車を運転中にオートバイに接触し(接触され)、相手が転倒した。
助けようと車外に出たところを(実に趙らしい)、後ろから来た車にはねられた。
全身に多数の骨折を生じる重症だったが命に別状なく、幸い「頭と右手」を動かすことができた。
自重を促す周囲を押し切り、車椅子で番碁に臨む。小林光一に敗れて棋聖位を失い無冠となったが、夏には大竹から碁聖位を奪取し、翌年の天元戦で小林を破って史上初のグランドスラムを達成した。
逸話を語ればきりがないので、この辺でやめておこう。

中韓の台頭について語る時、趙は常に「日本の碁」の一員として自分を位置づける。
くどいようだがことさら「日本」に阿ってではない、彼自身がそこで育ってきた木谷門と日本棋院が、血肉になっていることの素直な表現だ。

「日本も韓国もない」などということは、今ならば易しい。
しかしあの時代、あの難しい時代に一徹な生き方を通してそれを表現して見せたのは、ただ事ではない。
それは趙治勲という稀有の人物の魅力であり、同時に「碁」の包容力の素晴らしさでもあるだろう。

中国、台湾、そして韓国から、数多くの「渡来人」が日本の棋界に参入して活躍してきた。
呉清源、林海峰、趙治勲はそれぞれを代表する「名」と言える。それが僕らの誇りとなっている。
記紀万葉の時代に黎明期の「日本」を生み出した、それと同じダイナミズムがここにあると僕は思うのだ。

「日本」とは血統ではない、文化概念だ。そこに東アジアの、ひいては世界の最善のものが流れ込み結実する。
それに参与するもの皆が仲間である。

***

オマケに最近号の「お悩み天国」を添付しておこう。
先の写真のかわいい坊やと、この筆者と、
同一人物なんだよ、ほんとうに!