散日拾遺

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1月31日 レマルク『西部戦線異状なし』出版(1929)

2024-01-31 04:18:25 | 日記
2024年1月31日(水)

> 1929年1月31日、ドイツの作家エーリッヒ・マリア・レマルクの処女作『西部戦線異状なし』が出版された。この作品は刊行後大きな反響を 呼び、25か国語に翻訳されるとともに、映画化・舞台化もされ、350万部の大ベストセラーとなっ た。
> 1898年生まれのレマルクは、第一次世界大戦開戦当時、ギムナジウムの生徒だったが、級友たちとともに徴兵されて西部戦線に配属され、五度も戦傷を負う。『西部戦線異状なし』はその体験をもとに、19歳の一兵卒の見た複雑怪奇な戦争の表裏をリアルに描いている。彼は戦後教師やジャーナリストとして働き、この作品を世に出すまでに10年の歳月を要している。
> しかし、戦争の恐怖や残酷さを描き、反戦の傾向が顕著なレマルクの作品は、ほどなく台頭したナチスによって弾劾され、焚書にあう。レマルク自身も危険を 察知して1932年スイスに逃れ、その後アメリカに亡命した。ナチスは禁書処分だけでは飽き足らず、その後彼の国籍も剥奪した。
> 第二次大戦後、レマルクは『凱旋門』(1946)で文筆活動を再開し、『愛する時と死する時』『汝の隣人を愛せよ』などの作品を残した。

 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.36


 エーリヒ・マリア・レマルク(Erich Maria Remarque, 1898年6月22日 - 1970年9月25日)
 本名はエーリヒ・パウル・レマルク(Erich Paul Remark)で、これならドイツ名であること明白である。しかし作家は家名の「Remark」をフランス語風の「Remarque」という綴りに、また「Paul」を「Maria」に置き換えてペンネームとした。そこにどんな思惑があったのか。パウルの名は作品の主人公に与えられている。
 『西部戦線異状なし』と訳したのは誰だろう、「異状なし」の語を充てるのに悩みはなかったか訊いてみたい。"nichts Neues" は英語なら "nothing new"で、「目新しいことは何もない」といったニュアンスである。「異状なし」との表現からは、たとえば停戦協定が成立して戦闘が止み、穏やかな状態が続いているといった連想が浮かびそうだが、もちろんそんなものではない。
 Wikipedia 「マジノ線」の下記の解説が的確である。

 第一次世界大戦下の塹壕戦における膠着した戦闘の様子は小説『西部戦線異状なし』に鮮明に描かれている。最前線に塹壕を構築し、両軍がにらみ合いを続け、双方が笛の音を合図に一進一退の突撃を繰り返す、お互いに塹壕を掘っては取り合うという戦い方は、多くの兵士の命を意味もなく無駄に奪うばかりであった。西部戦線の戦いは、互いの国民を大量に動員し大量に消費しあうものであった。生身の人間の貧弱な防御力と兵器の絶大な攻撃力、あまりに大きな両者のアンバランスが約500万人の犠牲者を生み出した。

 このように両軍の死者が日課のように増えていく現実が、昨日と同じように今日も続くという意味で "nichits Neues" なのである。主人公パウル・ボイマー(パウル!)が戦死した、その日の司令部報告は「西部戦線異状なし、特記すべきことなし」と記録される。題名はそれ自体、痛烈な風刺であった。

 レマルク自身は5回もの戦傷を経て生還し、嵐の時代を生き延びた。真摯な作家であり作風であるが、女性関係は驚くべく華やかである。
 まずはジュッタ・イルゼ・ザンボナ(Jutta Ilse Zambona)というダンサーと1925年に結婚し1930年に離婚したが、1938年にこの相手と再度結婚している。そのおかげでジュッタはスイスへの移住およびアメリカへの亡命が可能となったとあるから、二度目の結婚は元妻を救うための偽装かもしれない。
 アメリカ亡命後は、マレーネ・ディートリヒやグレタ・ガルボといった超大物女優らと浮名を流すなど、華やかな女性関係で知られたという。ナタリー・パレ(1905-81)というフランス出身のモデル・女優があり、ロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル大公が、身分違いの女性と恋に落ちて誕生した美貌の女性である。ロシア革命が起きて父パーヴェル大公が殺害され、ナタリー・パレはフランスに亡命。ジャン・コクトーと恋仲になって妊娠・中絶するなどあった後、アメリカへ移った。このナタリー・パレともレマルクは関係があったという。これらはすべて、形式的にはジュッタと婚姻関係にあった時期のことであり、「偽装」は1957年に解消されるまで続いた。

    
左:エーリッヒ・マリア・レマルク(1928年) 
右:ナタリー・パレ(ナターリア・パヴロヴナ・パーリィ)

 遍歴の仕上げはポーレット・ゴダード(1910-90)、『モダン・タイムズ』や『独裁者』に主演し、実生活でもチャールズ・チャップリンの妻であった彼女とレマルクは1958年に結婚し、今度こそ添い遂げる。ポーレット・ゴダードにとっても、レマルクは4人目にして最後の夫になった。スイスはロカルノの近郊に、仲良く並んで埋葬されているそうである。

 

左:ポーレット・ゴダード(『モダン・タイムズ』から)
右:レマルク(左)とポーレット・ゴダード
Wikipedia:レマルクから

 レマルクのことを考えていて、ふとラディゲを思い浮かべる。何の似たところもない組み合わせだが、ただ「第一次世界大戦」というキーワードがどちらにも絡んでくること、そして生まれ年の5年の違いが、戦争との関りでは決定的な世代の隔たりを生むことなど。
 そう言えばビゴーの息子モーリス、彼はレマルクと同世代で、パウル・ボイマーの運命をフランス側からたどることになったのだった。 

 Raymond Radiguet(1903 - 1923)、夭折の天才とは彼のことである。

Ω

1月30日 マハトマ・ガンジー暗殺(1948年)

2024-01-30 08:27:44 | 日記
2024年1月30日(火)

> 1948年1月30日、インドの宗教家であり政治指導者のマハトマ・ガンジーがニューデリーで狂信的ヒンドゥー教徒によって暗殺された。78歳だった。
> マハトマ・ガンジーは、1869年にインドの裕福な家庭に生まれ、弁護士を志してロンドン大学に留学した。弁護士となった彼は南アフリカで仕事につくが、 激しい人種差別を体験し、非暴力・不服従による抗議行動を起こす。帰国後は、 英国植民地であったインドの独立を目指し、インド国民会議派の指導者として活躍した。
> ガンジーは、常に思想を生身の体で表現しようとした。糸つむぎがイギリスの紡績業に対抗する手段だと考えて、生涯、糸でつむいだ簡素な服だけを身にまとった。また、政府専売だった塩の採集に反対するため、386キロを歩いて海水から直接塩を採るという抵抗運動を行った。彼はいかなる思想や制度よりも、生身の体のほうが強い、という信念を持っていたのである。
> ガンジーの死は、1947年8月のインド独立の矢先の出来事だった。「マハトマ」は「偉大なる魂」を意味する尊称である。

 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.35

 ガンジー自身は「マハトマ」と呼ばれることを求めはせず、むしろ「塩泥棒」を喜んだ。
 ときどき何を勘違いしてか、ガンジーの思想を「無抵抗主義」と呼ぶものがあるが、とんでもない誤りである。文中にもある通り「非暴力・不服従」が正しい。無抵抗どころか最強の抵抗であろう。
 暴力に依らない抵抗は、相手もまた暴力を控えてくれる保証があれば比較的容易であるが、相手が暴力をもって迫ってくる状況下でこれほど難しいことはない。動物としての本能が激しく逆らわずにはおかない。
 福音書はその難事を公然と人に求め、読み手の大多数はこの部分を「努力規定」として読み流す。ヒンドゥー教徒であるガンジーはこれを文字通り実践し、人にも勧めた。
 映画『ガンジー("Gandhi")』は1982年に公開され、アカデミー作品賞・監督賞・主演男優賞を獲得するなど評判になった。それよりずっと古く、暗殺犯に焦点をあててホルスト・ブッフホルツが熱演した作品をテレビで見た記憶がある。調べてみると『暗殺5時12分("Nine Hours to Rama")』(1963)がそれらしい。その中では撃たれたガンジーが、撃った相手に神の祝福を祈りながら倒れていった。
 別の記録ではガンジーは「おお神よ」とだけ、くりかえし呟いたとあり、映画『ガンジー』もこれに依っている。『暗殺5時12分』の脚本あるいはS. ウォルパートによる原作小説に脚色が窺われるが、これは「正しい脚色」と言えそうである。暗殺犯ナトゥラム・ゴドセの裁判にあたってガンジーの遺族は減刑を嘆願したが、容れられず死刑が宣告され翌年執行された。
 ガンジーはヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和を一貫して訴え、パキスタンの分離独立に反対し、インド・パキスタン紛争にあたってもパキスタンへの理解を示す言動を続けた。これが熱狂的なヒンドゥー教徒の憤激を買ったのである。その後、暗殺犯の復権と愛国者としての讃仰を要求する動きが起き、現在まで続いているという。

 「もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、インドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。しかし、わたしは非暴力は暴力よりもすぐれており、許しには罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力が要ることを知っている。許しはすべてにまさる。そして、罰をさしひかえ許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。」
写真ともWikipedia より

モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー
(મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી 1869-1948)

Ω

1月29日 エドガー・アラン・ポー(1845年)

2024-01-29 19:12:52 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.34

1月29日 ポーが「大鴉」を発表する

> 1845年1月29日、エドガー・アラン・ポーは詩「大鴉(おおがらす)」をイブニング・ミラー紙に発表し、好評を得た。ポーは18歳で最初の詩集を匿名で出版し、その後多くの作品を書いたが、世間的評価を受けたのは、この「大鴉」が初めてであった。
> エドガー・アラン・ポーはアメリカのボストンで1809年に生まれた。両親ともに俳優だったが、彼が3歳の頃には二人とも亡くなり、裕福な商人ジョン・アランに引き取られ、エドガー・アラン・ポーと名乗るようになった。しかし、ジョン・アランは彼を籍には入れず、その財産を継がせるかどうかも決めなかった。この不安定な立場は青年期のポーに大きな影響を与えたと思われる。
> バージニア大学に入るものの放校処分となり、その後軍隊に入るがそこでも解任される。自活せざるを得なくなったポーが選んだ道は、懸賞小説に応募するために短編を書くことだった。
> その後、懸賞小説の仕事を通して雑誌に寄稿するようになり、編集助手の仕事につく。27歳の時に14歳年下のいとこと結婚するが、11年後妻を結核で亡くしてからは、ひどく酒に溺れるようになり、泥酔して倒れ亡くなった。享年40歳。

***

 Wikipedia には、彼の父は「蒸発」したとある。1810年にリッチモンドでの公演を終えた直後に突如失踪し、長女を身ごもっていた妻エリザベスと3歳と1歳の二男子が遺された。エリザベスは長男を夫の実家に託し、次男エドガーを引き取って育てようとしたが、産後の肥立ちが悪かったうえに結核にかかり、1811年に他界した。三人の遺児はそれぞれ別の家庭に引き取られた。
 27歳の時に14歳年下の、つまり13歳のいとこヴァージニアと結婚したというのは誤記ではない。結婚誓約書には21歳と記されていたそうだから、文書偽造である。この妻が24歳の若さで、母と同じ結核で亡くなった。その2年後の泥酔死だった。
 『大鴉』、原題は "The Raven" である。ravenとはワタリガラス(Corvus corax)のことで、サイズが大きく羽色が真っ黒である。crow はスズメ目カラス科カラス属(Corvus)の総称であるが、実際には北米のアメリカガラスを指すことが多いのだそうだ。漢字の「烏」は象形文字で、カラスの体が黒いため目の位置がわかりにくいことに由来するのに対し、「鴉」は形声文字すなわち意味と音の組み合わせであり、ガーガーという鳴き声が「牙」の部首に託されているという。
 「心乱れる主人公(語り手)の元に、人間の言葉を喋る大鴉が謎めいた訪問をし、主人公はひたひたと狂気に陥っていく」という筋立ての、その『大鴉』は以下のように始まる。
Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore,
While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
"'Tis some visitor," I muttered, "tapping at my chamber door —
Only this, and nothing more."

ギュスターヴ・ドレ挿画(1884年)
"Not the least obeisance made he"
Wikipedia より

Ω

1月28日 チャレンジャー号(1986年)

2024-01-28 21:51:25 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.33

1月28日 スペースシャトル「チャレンジャー号」爆発

> 1986年1月28日、アメリカのスペースシャトル「チャレンジャー号」が発射73秒後に爆発し、七人の搭乗員全員が亡くなった。「チャレンジャー号」は10回目の飛行だったが、民間人として初めて高校教師のクリスタ・マコーリフが搭乗員に選ばれたことから話題になっていた。 彼女は周回軌道上から生徒たちに「宇宙授業」を行なう予定だった。
> 爆発は、補助ロケット接合部のゴム製のリングが過度に低い気温のために損傷したのが原因と言われている。シャトルは、高度14,400メートルで爆発分解した。搭乗員の乗ったキャビンは爆発時には壊れず、約3分後に海面にたたきつけられた。搭乗員の死亡はこの瞬間だったことが当時の報道からわかる。 
> シャトルの初飛行からすでに5年が経過し、宇宙開発が日常化したと感じられていた頃である。人々のスペースシャトルに対する関心を呼び戻すための政治的シンボルとして民間人搭乗者が募集され、クリスタ・マコーリフは一万人以上の希望者の中からスペースシャトル計画のスポークスマンとして選ばれたのだった。皮肉にも彼女の名前はこの痛ましい事故とともに永遠に残ることになった。

***

 クリスタ・マコーリフのことは知らなかった。どんな科目を教えていて、どんな授業を準備していたのだろうか。一方、搭乗者の中に日系三世のオニヅカ空軍大佐が含まれていたことは、新聞一面の写真とともによく覚えている(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次)。日系アメリカ人の物語は既に日本ではなくアメリカの文化と伝統に属するものだが、そうとわかっていても心が弾み、また傷むものである。
 もう一つ、「原因」となったリングについては事前に問題の存在が指摘されていたのに、担当職員が打ち上げ準備中に過度の睡眠不足に陥っており、せっかくの情報を適切に活用できなかったとの指摘がある。睡眠の重要性を強調する文脈では、必ずと言ってよいほど引き合いに出されるものとなっている。
 日米戦争末期のレイテ湾突入作戦失敗に、同じく睡眠不足による判断ミスがあったとも言われるが、こちらはいま一つ確証に欠けるようだ。

Ω

1月27日 実朝の命日(1219年)

2024-01-27 21:56:24 | 日記

 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.32

1月27日 源実朝が鶴岡八幡宮で殺される

> 1219年(承久元年)1月27日夕方六時頃、鎌倉幕府三代将軍、源実朝は甥の公暁に殺害された。鶴岡八幡宮への参拝の帰りに、大銀杏の陰に隠れていた公暁に斬りつけられたのだ。これによって、源氏の正統は絶え、源氏将軍も実質上三代で断絶することになる。
> なぜ公暁は叔父の実朝を狙ったのか。公暁の父は、源頼朝の長子で二代将軍の頼家だが、義父の比企能員(ひき よしかず)と共に北条氏討伐を企てたため伊豆に幽閉され、殺害されてしまう。
> 公暁は、父の死後に三代将軍となった実朝(頼朝の次男)を父の敵と思いなし、殺害の準備を重ねていた。実朝殺害後、公卿は自分が次期将軍になれると思い込んだが、北条義時の命により直ちに刺客によって討ち取られている。
> 実朝は1203年、三代将軍になった後、政治の実権は北条義時に譲り、自分は「飾り物の将軍」に徹していた。藤原定家の指導を受けて和歌をよくし、1213年には『金槐和歌集』を編んでいる。この歌集には、万葉調の名歌「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」などが収められている。

***

 この件、公卿が北条義時の奸計にまんまと乗せられたものと思っていたが、近年は野心にはやる公卿の単独犯行説が有力だという。その日の詳細を Wikipedia から補足。

> 建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ、実朝は落命した。享年28(満26歳没)。『愚管抄』によると次に公暁の一味の3~4人の法師が源仲章を斬り殺したが、これは北条義時と誤ったものだという。『吾妻鏡』によれば、義時は御所を発し八幡宮の楼門に至ると体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲り自邸に戻ったとある。一方で『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しなかったとある。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。

 事件が起きた日の元号について。建保から承久への改元は西暦1219年4月とあるから、1月27日の記載としては建保が正しいのであろう。
 義時が「体調の不良を訴えて自邸に戻った」とすれば義時謀略説が、実朝の命によって同行を控えたとすれば公卿単独犯行説が、それぞれ説得力を増す理屈である。しかし前者の典拠である『吾妻鏡』は北条得宗家の立場から記述されたものであり、わざわざ義時の悪だくみを示唆するような書き方がよく分からない。
 おおかた万巻の書がこの件について記されていることだろう。そのうちとっくり読んでみたい。

 「われて くだけて さけて ちるかも」 … 絶唱、見事なり
 百人一首所収の「海人の小舟の綱手かなしも」(新勅撰集)、それに金槐和歌集の掉尾を飾る下記などもこの歌い手ならではと思われる。

時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ

Ω