散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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行きはよいよい

2018-09-30 16:26:54 | 日記

2018年9月30日(日)

 昨日は午後、岳父没後百日のミサのため西下 ~ 「西下」なんて言ったら舅殿は火を噴いて怒っただろうな、「大阪 > 日本」という不可思議な世界像をもった公同の(catholic)人だった。今日は東京で午後からお役が当たってるので、早朝発って東上。往復ともに読書で時間をつぶしたが、風景はずいぶん違ったものになった。

*** 

 性体験はないものの、自分のセクシャリティを特に意識したこともない私は、性に無頓着なだけで、特に悩んだことはなかったが、皆、私が苦しんでいるということを前提に話をどんどん進めている。たとえ本当にそうだとしても、皆が言うようなわかりやすい形の苦悩とは限らないのに、誰もそこまで考えようとはしない。そのほうが自分たちにとってわかりやすいからそういうことにしたい、と言われている気がした。

 子供の頃スコップで男子生徒を殴ったときも、「きっと家に問題があるんだ」と根拠のない憶測で家族を責める大人ばかりだった。私が被虐待児だとしたら理由ができて安心するから、そうに違いない、さっさとそれを認めろ、と言わんばかりだった。

 迷惑だなあ、何でそんなに安心したいんだろうと思いながら・・・

村田沙耶香『コンビニ人間』文春文庫版 P.42-3

 この「迷惑感」が全編の基調を為すもので、そんなことにはおかまいなしの容赦ない同調圧力が、強い磁場のような「地」として描き出されている。鮮やかなものだ。

 ・・・正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。
 そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人たちに削除されるんだ。
 家族がどうしてあんなに私を治そうとしてくれているのか、やっとわかったような気がした。

同上 P. 84

 強靭な「地」の中に描かれる「図」がしばしばユーモラスである。

 「はあ……まあ、白羽さんに収入がない限り、請求してもしょうがありませんよね。私も貧乏なので現金は無理ですが、餌を与えるんで、それを食べてもらえれば」

 「餌……?」

 「あ、ごめんなさい。家に動物がいるのって初めてなので、ペットのような気がして」

同上 P.110

 のぞみ号の自由席で思わず膝を叩いた。こんなに気持ちよく噴き出したのは、たぶん20日ぶりぐらいだ。

 作品から社会的な示唆ばかりを読みとるのは、料理を味わわずに専ら栄養価を評価するようなものだが、この作品については「同調圧力下の少数者の生きにくさと、生き延びる努力が見事に描かれ・・・」といったことを言わずにおれない。栄養価の高さゆえである。

***

 呑気な往路と対照的に復路は小難儀。台風24号が接近中とて、先に懲りているJR西日本は結果から見れば少々過剰な計画運休、午前9時前の新大阪駅新幹線ホームは結構な混雑になった。急ぐ僕は目当ての「のぞみ」に乗りこみ、急がぬ次男は一台見送って「ひかり」で後から戻る。気の毒な外国人観光客らが英語や中国語で不安気に囀るが、日本人乗客の落ち着いた諦め顔が伝染してか次第に鎮まってくる。

 京都駅でホームの駅員が「もう一歩、通路に入ってください!」と中の様子を見ずに押し込もうとするので、「通路も、もう入られへんよ!」と顔の見えない自分の場所から言い返した。こういう状況でただ黙って乗っていられる心理が僕には全く分からず、「コンビニ人間」に通じるような作りの違いを自分も抱えているのかと思ったりする。

 とにもかくにも、半径30cmほどの空間で新横浜まで行儀よくしているほかはない。話に聞く戦中戦後の鉄道事情を考えたら天国のようなもので、時々足を踏みかえたり胴体をぐにゃぐにゃ動かしたりしてナントカ症候群を防ぐついでに、こういう時にありがたい Kindle を身をよじってカバンから取り出した。

 年来愛読の『宇治拾遺物語』と、芥川龍之介の378作品を1冊にまとめたおトクなものを交互に読んでいて、それで時間はスイスイと過ぎてくれる。前者は『敏行朝臣事』から例の『猟師佛射事』、さらに『瀧口道則習術事』あたりまで。最後のものは、アダムとエバの愚かしさを罵る貧しい夫婦が宮殿に招かれて、結局同じ愚を犯すというフランスの小咄を連想させる。

 芥川のは、『あの頃の自分の事』と題する学生時代のスケッチのようなもので、大正8(1919)年「中央公論」所収とある。「以下は小説と呼ぶ種類のものではないかもしれない。さうかと云って、何と呼ぶべきかは自分も亦不案内である」と書き出され、何と呼ぶにせよ僕などには非常に面白い。

 まだ途中だが、たとえば武者小路や花袋について当時の彼らがどう感じていたかとか、前者について「久しく自然主義の淤泥にまみれて、本来の面目を失していた人道(ユウマニテエ)が、あのエマヲのクリストの如く「日昃(かたぶ)きて暮に及んだ」文壇に再び姿を現した時云々」と評するところとか、音楽会で見かけた谷崎潤一郎の様子を「動物的な口と、精神的な眼とが、互いに我を張り合ってゐるやうな、特色のある顔」と記すところとか、成瀬という友人の仕組まれた見合いの話とか、ともかく面白くて退屈しない。

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 むっとした大気の中を予定通り目的地に着き、教会の人々が思いがけず30人余りも集まった中で、30分ほど自由に話をさせてもらった。テーマは『老年期の心と信仰』というもので、どう考えても僕は教わる立場なのが皮肉に愉快である。この日の予定はずっと前から決まっており、岳父のことは端から頭にあったが、いよいよ日が近づいて母が他界した。主催者は無理せぬよう気遣ってくれたが、僕にすればそれだから尚更話したい気もちがあり、それが正しい直観だった。

 ちょうど一週間前、望んで得られなかった懐かしい人々への挨拶の機会を、思いがけなく遥かにふさわしい形で与えられ、強行軍後の身体疲労が覆い難い中で、気もちは確かに回復しつつあることを知る。「刺繍の表と裏」の比喩のことや、刺繍を縫い進め縫い上げる手の存在を、あらためて考え巡らしたりした。

Ω


コメント御礼 ~ 出藍の誉れについて

2018-09-29 12:49:12 | 日記

2018年9月29日(土)

・コメントが届いた記事: ニラと荀子とイタリア民話

・コメントが届いた記事のURL: https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/1343a90668c198cbddb14f16cdcaf428

・コメントを書いた人: 被爆二世

・タイトル: 不断の学問精進が藍から青を生むこと

・コメント:2018-09-15-09:15

 面白いお話、ありがとうございます。

 まず、子どもが親離れしている私は、母として、ニラのようでありたいと思いました。

  また、ちょうど国試を受験し勉強が足りないことを実感している所でした。学歴ではなく、不断の学問精進こそが人を救うのだと実感しました。

 人間性主義が好みの私は、性善説だと思っていました。でも、この話を読んで、性悪説、悪い人が良くなっていくというのも、人間性主義なんだなと思いました。

 私たち人間は、青くなるために生まれて来たのでしょうか。

***

 2週間もほったらかしで、ごめんなさい。タブラ・ラサ(白紙)という考え方などは性善でも性悪でもない中立説ですね。もっとも現在では、この説をそのまま支持する人は少ないようですけれども。

 巨人の肩に乗った小人は、巨人よりも少しだけ遠くを見ることができるという譬えがありました。荀子はよく似た譬えを語り、だからこそ感謝をもって精進せよとも言っているようです。出藍の誉れも藍あればこそです。

 私たち人間は、藍のおかげで青たり得ることと、後進が青たり得るよう藍の役割を果たすこと、その両徳に向けて招かれているように思います。

 コメントありがとうございました。

Ω

 


パウロに深く共感

2018-09-28 08:15:08 | 日記

2018年9月28日(金)

 キリスト教とはケッタイな宗教で、そもそも十字架刑に処せられた大罪人を神の子と崇めている。その信仰の核心がまた「死者が復活した/する」というとんでもないものだから、理知的なギリシア人らが「その件は後日あらためて」とドン引きしたのも無理はない。(使徒言行録 17:32)

 そんな教えが世界24億人に拡がっているというのがヘンな話で、おおかた何か勘違いがあるのだろう、人口の1%にも及ばないという本邦のありようがフツーである。ところが、そのなけなしの1%のうち少なからぬ人々が、復活ということを本気で信じてはいないらしいことに時々気づかされる。

 バカバカしい。十字架と復活を取り除いてしまうならキリスト教はとりたててユニークでもなければさほど面白みもない、平凡な一宗教に過ぎない。教会などは結婚式・葬式サービス付き社会福祉施設か、良い子の教育機関にでも転用してしまったほうがマシである。そんなものにコミットする酔狂はもたない。

 パウロという人の説教がましさにはしばしば閉口するが、少なくとも二つのフレーズがいつの間にか身のうち深く刻まれていることに気づく。

Ⓐ もし死者がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお罪の中にあることになろう。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた者たちは、滅んでしまったのである。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな存在である。しかし事実、キリストは死者の中からよみがえり、眠っている者たちの初穂となられたのだ。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:16-20)

Ⓑ 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙 12:15)

 Ⓐを信じつつⒷを行うのが Χριστιανος と呼ばれる者の全てであって、このいずれかが欠けては話にならず、これ以外のことはどうでもよい。要するにそういうことだ。

Ω


エナガの柿行列

2018-09-27 08:12:17 | 日記

2018年9月27日(木)

 残り柿を目当に団体で飛び来たり、また飛び去る。短時間にバラバラと去来するのでなかなか作品にならないのが、偶然きれいに並んだ2017年秋、静岡県は南箱根の風景だそうである。

 「グリーン・パワー」10月号の表紙を飾った「秋色コレクション」、加藤利光氏の撮影と寄稿に依る。

 エナガ(柄長、学名:Aegithalos caudatus)は、スズメ目エナガ科エナガ属に分類され、ユーラシア大陸の中緯度地方を中心にヨーロッパから中央アジア、日本まで広く分布する。日本では九州以北に留鳥または漂鳥として生息する。

 体長は約14 cmだが、これには長い尾羽を含む。翼開長は約16 cm。体重は5.5-9.5 gで、スズメ(体重約24 g)と比べてもずいぶん小さい。学名は、長い尾をもつカラ類を意味する。和名は極端に長い尾(全長14 cmに対して尾の長さが7-8 cm)を柄の長い柄杓に例えたこと由来し、江戸時代には「柄長柄杓(えながひしゃく)」、「柄柄杓(えびしゃく)」、「尾長柄杓(おながひしゃく)」、「柄長鳥(えながどり)」などとも呼ばれていた。

 おもに平地から山地にかけての林に生息するが、木の多い公園や街路樹の上などでもみることができる。山地上部にいた個体が越冬のため低地の里山に降りてくることがある。

(Wikipedia から抜粋)

 ともかく、尾が長いんだね。ホバリングできるぐらい小さな鳥だそうだ。松山でも見られるかな・・・

Ω


仏典と聖書のトリビアルな類似

2018-09-26 20:11:15 | 日記

2018年9月25日(火)

 たぶん珍しいことでもないのだろうが。

 『今昔物語集』の天竺・震旦部(岩波文庫版)をつらつらと読み進めるにつれ、仏教説話と旧新約聖書の記載に似たところが見つかって面白い。

 たとえば舎利弗(シャーリプトラ)が外道らと神通力を競う場面(P.48-)は、「列王記」(上)18章のエリヤとバアルの預言者らの対決と酷似している。どちらもただ一人で群がる有象無象を鎧袖一触、痛快にやっつけちゃうのである。もっとも大まかな設定は似ているものの、舎利弗が巨大な象だの怪鳥ガルーダだのを自在に呼び出して外道を粉砕するのに対し、エリヤはひたすらな祈りによって神の火を下らせるもので、自ずとそれぞれの「らしさ」が現れている。

 今夜心に残ったのは、「仏、婆羅門の城に入りて乞食し給へること」のくだりで、貧しい女が米のとぎ汁の腐ったものを捧げたのを仏が嘉し、外道らがこれを嘲笑したのに対して語られた譬え話である。

 仏の宣はく、「汝は高堅樹の実は見たりや」と。外道の云く、「芥子よりもなお小さし」と。仏の宣はく、「高堅樹の木はいかばかりぞ」と。外道の云く、「枝の下に五百の車を隠すになお木の影余る」と。仏の宣はく、「汝、その譬えを以て心得べし。芥子よりも小さき種より生いたる木、五百の車を隠すになお影余る。仏に少しきも物を供養する功徳無量なり。世間のことかくの如し、いかにいわんや、後世の事はこれをもって知るべし」と。外道これを聞きて「貴し」と思ひなして礼拝し奉る時に、頭の髪空に落ちて羅漢となりぬ、云々。

 「似た話があるのが面白い」と言ったが、こちら実はピタリと一致する聖書の箇所が思い当たらない。一対一ではなく複数の箇所が浮かぶという意味である。

○ 「実」と「樹」の対比から、まずは下記:

 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31-2)

○ いっぽう、貧しい女が粗末ながらも自身のもてる全てを捧げたというモチーフからは以下:

 一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ 12:43-4)

○ さらに、聖者をもてなした者が必ず報われるというテーマからは次の箇所など:

 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42)

 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ 25:40)

 宗教の聖典はどれも似たような発想をするものだと言ってしまえば、それまでのことであるけれど、それで済ませたくない面白さをついつい拾ってしまうのである。共通点とともに相違点も面白いので、たとえば釈迦が悟りに至る前の試練には美女による誘惑が含まれるが、イエスに対する荒野の試練にはそんなナマメカシイ話は出てこない。これは非常に残念なことで、イエスがどういう言葉を引いてその種の誘惑を退けたか、是非とも聞いてみたかったものだと思う。

 さて次は何が見つかるか。

ガルーダ(タイ王国国章) Wikipedia より

Ω