散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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6月23日:クーベルタン男爵 国際オリンピック委員会を設立(1894年)

2024-06-23 03:31:16 | 日記
2024年6月23日(日) 沖縄慰霊の日

> 1894年6月23日パリ大学ソルボンヌ講堂でピエール・ド・クーベルタン男爵の「ルネッサンス・オリンピック」の講演が、各国のスポーツ界、教育界の著名人を前にして行われた。クーベルタン男爵の語る古代オリンピックの復活は、多くの賛同者を得、国際オリンピック委員会(IOC)の発足が決まった そして第一回オリンピックは、発祥の地ギリシャのアテネで、二年後の1896年に行われることになった。
 クーベルタン男爵は、イギリス留学中に英国式のスポーツ教育に感銘を受け、また、独仏戦争の敗戦はフランス青年の軟弱さに起因するとの考えから、多くの青年がスポーツ教育を受ける機会を作るべきだと考えた。健全な青年たちがさまざまなスポーツに興じる機会、と考えた時に思い浮かんだのは、古代ギリシャのオリンポスで行われたという競技会のことであった。
 この記念すべき講演で、クーベルタン男爵はまさに「現代オリンピックの生みの親」となった。五輪のマークも彼の考案である。初代IOC会長は、当時は開催国が会長を出すと言う規定だったためギリシャのピケラスが就任し、彼は第二代会長となってパリ・オリンピックを開催した。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.180

Pierre de Frédy, baron de Coubertin
1863年1月1日 - 1937年9月2日

 フレディ(Fredy)家はイタリアから来た家系であるという。
 「独仏戦争(普仏戦争)の敗戦」云々はもっぱらナショナリスティックな動機によるものだが、そこから彼が構想した近代オリンピックはフランスのみならず、ドイツを含むすべての国民を利するもので、その懸隔が面白い。
 五輪のマークは五大陸を表し、その一つはアフリカである。19世紀末のこの時代にあっては、時代を超えた見識というべきか。下記の逸話が面白い。

> 「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」(フランス語: L'important, c'est de participer、直訳:重要なのは、参加することである)という有名な言葉は、実はクーベルタンが考え出したものではない。聖公会のペンシルベニア大主教であるエセルバート・タルボット(Ethelbert Talbot)が1908年のロンドンオリンピックの際にアメリカの選手たちに対して語った言葉である。
 1908年のロンドン大会が開催された当時、アメリカとイギリスは犬猿の仲となっており、アメリカの選手団はロンドンに来てから色々な嫌がらせを受けた。それで気の滅入ってしまったアメリカ選手団が気分転換にセント・ポール大聖堂の聖餐式に出かけたところ、この大聖堂で上述のメッセージを含む説教にあずかって大いに勇気づけられた。
 この出来事と言葉を伝え聞いて感銘を受けたクーベルタンが、各国のオリンピック関係者を招いての晩餐会の席上でのスピーチで引用したところ、この言葉が「クーベルタン男爵のスピーチ」として有名になり、世界に広まったというのが真相である。
 同じ席でクーベルタンは「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」とも語っており、こちらは本人が考え出したものである。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/ピエール・ド・クーベルタン

Ω

6月22日:フランクリンが雷雨中にたこをあげる(1752)

2024-06-22 03:24:34 | 日記
2024年6月22日(土)

> 1752年6月22日、ベンジャミン・フランクリンは降りしきる雷雨の中で凧を揚げ、雷が放電現象であることを確かめる実験をした。この実験によって、雷の電気は人工の電気と同じで、プラスとマイナスの両方の極性があることがわかった。
 フランクリンは、実に多彩で努力を惜しまぬ人だった。貧しい家に生まれ、印刷工として働きつつさまざまな学問を学び、出版事業で成功した。自然科学にも興味を持ち、これも独学で学んで、雷は電気の現象であると考え、見事にそれを証明したのである。その後、政治家として活躍し、アメリカの独立宣言の起草に参加し、イギリスとの外交交渉にも手腕を発揮している。
 さて、この凧の実験だが、実は大変危険を伴うものだった。フランクリンのタ凧は絹のハンカチで作られ、先端に30センチほどの針金がついていた。凧を揚げる麻糸にライデン瓶(電気をためる瓶)を取り付け、瓶に電気をためる。フランクリンが慎重だったのか運がよかったのかはわからないが、彼の後、同じやり方で実験をした科学者が、落雷によって命を落としている。このため、現在ではこの実験についてはあまり紹介されない。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.179

Benjamin Franklin
グレゴリオ暦1706年1月17日(ユリウス暦1705年1月6日)- 1790年4月17日

 大統領を歴任したという訳でもなく、そうした意味での印象が薄いが、「アメリカ人」という類的存在が形成されるにあたっての貢献度は、誰よりも大きかったかもしれない。
 "Time is money." という彼の有名な言葉などもその一部で、あたかも拝金主義者の言のように聞こえるがさにあらず、重点は時間のかけがえのなさにこそ置かれている。「夏時間を考案したが、この時代には採用されなかった」という逸話が、いかにも彼らしい。おそらくは循環気質であり、その良さを存分に発揮したものと思われる。
 
> 勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つである。

 『フランクリン自伝』に記された「十三徳」と「日課」を末尾に記しておく。
 さてしかし、凧揚げ実験については諸説紛々である。Wikipedia のこの項の記載が混乱を呈しており、「有名な凧揚げ実験は、本人ではなく彼の婚外子が行った」と記すかと思えば、以下のごとく「彼が最初ではない」と記すといった具合である。

> この実験を提案したのはフランクリンだが、初めて成功したのは1752年5月、フランスのトマ・ダリバード(en:Thomas-François Dalibard)らである。ダリバードらはフランクリンの提案に従って、嵐の雲が通過するときに鉄の棒(避雷針)から火花を抽出した。フランクリンが凧を用いて同様の実験を行ったのは同年の6月、または6月から10月までの期間である。(アルベルト・マルチネス「科学神話の虚実」)

 いずれにせよ、検証実験や同じような実験をしようとして多くの死者が出たことは間違いなく、そのことをフランクリン自身がどのように受けとめていたか、記録があれば見てみたいものだ。

***
  • フランクリン十三徳:
  1. 節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
  2. 沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
  3. 規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。
  4. 決断 なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
  5. 節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
  6. 勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。
  7. 誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出すこともまた然るべし。
  8. 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。
  9. 中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。
  10. 清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
  11. 平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
  12. 純潔 性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。
  13. 謙譲 イエスおよびソクラテスに見習うべし。

  • フランクリン日課:
【朝の問 今日はどのような善行をなすべきか】
5~8時 起床、洗顔。祈り。一日の仕事の計画、その日の決意。朝食
8~12時 仕事
12~14時 読書、帳簿を見る、昼食
14~18時 仕事
【夕の問 今日一日どのような善行をしたか】
18~22時 整頓、夕食、音楽、娯楽、雑談。一日の反省
22~5時   睡眠
『フランクリン自伝』P.148-150

Ω

6月21日: パンクハーストによる婦人参政権要求デモ(1908年)

2024-06-21 03:48:22 | 日記
2024年6月21日(金)

> 1908年6月21日、ロンドンのハイドパークで、婦人参政権を要求するデモが行われ、約二十五万人の女性が参加した。このデモはエメリン・パンクハーストを中心とする女性社会政治同盟(WSPU)が主催したものだった。この団体は1903年10月に結成され、女性の地位向上、参政権のために運動しており過激な行動で知られていた。
 パンクハーストは1858年にマンチェスターで生まれた。母ソフィア・クレーンも女性運動家だった。また、パンクハーストの二人の娘も母親に劣らず熱心な活動家であり、三代にわたる筋金入りの活動家の家系だった。
 その運動があまりに過激だったため、 婦人参政権論者や運動家たちの賛同を得る事は難しかったが、この日のデモには多くの女性が参加し、しかも平和裏に終了した。
 しかし、一向に女性の権利が考慮されないことに業を煮やしたWSPUは、さらに行動をエスカレートさせていく。1913年には、ダービーレース中に国王所有の馬の前に飛び込み、一命をかけて抗議行動に出た運動家もいた。 翌年には暴動騒ぎも起こしている。
 パンクハーストは、イギリスで婦人参政権が認められた年、1928年の6月14日に亡くなっている。まさに婦人運動に捧げられた一生だった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.178

Emmeline Pankhurst
1858年7月14日 - 1928年6月14日

 これは大変な人物だが、娘たちがまた凄い。上掲には「二人の娘」とあるが、実は三人であるらしく、その一人一人がいずれ劣らぬ傑物である。四つの個性が激しくぶつかり合い、すさまじいばかりの家族ドラマを織りなしていく。

    

左:長女クリスタペル、Dame Christabel Harriette Pankhurst、1880 – 1958
中:次女シルヴィア、Sylvia Pankhurst、1882 – 1960
右:三女アデラ、Adela Constantia Mary Walsh、1885 - 1961

 クリスタベルがいちばん母に近く、過激な戦術を決して捨てなかった。第一次世界大戦終結直後の1918年、母とともに設立した女性党から総選挙に立候補し、僅差で当選を逃した。1921年にアメリカに渡って伝道師となり、キリスト再臨運動の有力なメンバーとして活躍する。1930年代にイギリスに帰国した時期、再臨運動についての講演を行っては、約1万人収容のロイヤル・アルバート・ホールを何度も満員にしたという。

 シルヴィアは24歳以来15回逮捕され何度も投獄されたが、WSPUの方向性には反対で、「命を犠牲にすることなく抗議行動を行う」べきであると主張し、女性参政権に限定されない社会活動を志向していた。結果的に母・姉と衝突してWSPUから追放され、第一次世界大戦ではイギリスの戦争を支持する母・姉に対して、戦争反対や良心的兵役拒否を支持するなど亀裂が深まり、結婚問題を機に母から義絶される。結婚に伴って姓を変えることを拒み、またエリク・エリクソンの母親と同じく、息子の父親の名を生涯明かさなかった。
 1936年のイタリアによるエチオピア侵攻を非難し、その後一貫してハイレ・セラシエ1世とエチオピアを支持し続ける。この時期、イギリスの諜報機関は彼女の行動を監視し続けた。1956年には息子とともにアディスアベバに移住し、そこで生涯を終えている。

 アデラもまた初めはWSPUの闘士だった。24歳の1909年には、チャーチルの演説を妨害するデモに参加し、建物から追い出そうとする警官を平手打ちにして逮捕された。しかしながらシルヴィア同様、母と長姉の過激な行き方には反対で、WSPUおよび母との交わりから放逐されたのも同じであるが、どういう経緯かアデラには「20ポンドとオーストラリア行きの切符、そしてヴィダ・ゴールドスタイン(オーストラリアの女性活動家)への紹介状」が突きつけられた。1914年にオーストラリアへ移住し、結婚して生涯同地に住んでいる。
 その後、政治的には共産党から極右政党まで遍歴があったが、フェミニズムと平和主義は一貫していた。1939年には来日した後、対日講和を主張したため、対日戦争勃発後の1942年に逮捕され7ヶ月間拘留されている。1960年にカトリックに改宗し、翌年他界した。

 おみごと。

資料と写真は全て Wikipedia から

Ω

6月20日:マイケルソンとモーレーが光速度を測定(1878年)

2024-06-20 03:30:05 | 日記
2024年6月20日(木)

> 1878年6月20日、アメリカの科学者アルバート・マイケルソンとエドワード・モーレーは、いろいろな方向に進む光の速度の違いを干渉現象から測定し、その結果を発表した。彼らは、光の進む方向によって速さに違いが出ることを予測してこの実験を行ったのだが、予想に反して光はどの方向にも一定の速さで進むことがわかったのである。
 当時光は、音波が空気を媒質として伝わるように、媒質となる物質の中を伝わっていくのだと考えられていた。その物質は「エーテル」と呼ばれ、宇宙空間は絶対静止のエーテルに満たされていると考えられていた。マイケルソンとモーレーは、エーテルに対する光の進む方向と地球の運動の方向が同じなら、速度が相殺されて光はゆっくり進むのではないかと考え、これを証明するために、精巧な実験装置を作った。計測は正確で、全く狂いはなかったが、結果として光の速さはどの方向にも一定だと言うことがわかったのだ。
 この実験結果は多くの科学者に衝撃を与えた。地球はエーテルの中を動いているはずなのに、まったく逆の結論が出てしまったからだ。この問題の解決は、27年後のアインシュタインの特殊相対性理論の登場を待たねばならなかった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.177


   
左:Albert Abraham Michelson, 1852年12月19日 - 1931年5月9日
右:Edward Williams Morley, 1838年1月29日 - 1923年2月24日



 高校物理の教科書ではなかったと思うが、ではどこでだったか思い出せない。ともかくこの実験系のごく簡略化された模式図を見た時、ほれぼれ感心したのを思い出す。天文学の真実に関わる壮大な事象を、生活空間に収まるサイズの装置で解き明かすことができること、そしてその原理の巧妙で簡潔なことにである。実はその時理解し得たほど単純な話ではなかった。その詳細について、下記のサイトがすごい。

Ω

6月19日:マルクス、イェニーと結婚(1843年)

2024-06-19 03:24:47 | 日記
2024年6月19日(水)

> 1843年6月19日、ドイツの思想家カール・マルクスは、イェニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚した。マルクスは25歳。4歳年上のイェニーは29歳だった。結婚式はクロイツナハの小さなルター教会で、家族だけが隣席して行われた。
 結婚後のマルクス家の生活は、決して楽なものではなかった。極度の貧困と当局からの圧力に苦しみ、度々追放されて居所を変えている。その中で常に彼を支えたのが妻イェニーと、無二の親友フリードリヒ・エンゲルスであった。
 不幸なことにマルクスは、5人の子供のうち3人を幼くして亡くしている。人生のあらゆる悲嘆を共にした妻イェニーが69歳で先立った時、マルクスはエンゲルスに「私の思いはほとんど妻の思い出で占められてしまっている」 と嘆いている。
 だが、マルクスとイェニーの関係を複雑にしたのは、貧困や家族の不幸だけではなかった。マルクスはイェニーの召使いで、マルクス家とずっと苦楽を共にしたヘレーネ・デムートとの間にも子供を一人もうけているからだ。この息子、フリードリヒ・デムートはエンゲルスが認知し、その後養子に出されたが、とてもマルクス似だったという。
 ヘレーネは、イェニーの希望で、マルクス家の墓に葬られている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.176


Karl Marx
1818年5月5日 - 1883年3月14日

 マルクスの公認された子どもたち(二男四女)の悲劇的な生涯や、エンゲルスの婚外子と皆が信じ、自分でもそう思わされていたフレディ・デムートの比較的平穏な人生については、下記にそこそこ詳しく記されている。しかし、問題とすべきことは、そうしたスキャンダルとはもちろん別にある。ずっと前からよく分からずにいることで、それを言葉にする準備が依然として整わない。

Ω