散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

ドクターAのデジタル教育反対論

2025-01-28 08:37:50 | 日記
2025年1月28日(火)
 時おり紹介しているAファミリークリニック院長のA先生、毎月A通信を発行して意気盛んである。
 2月号の一部を許諾を得て転載する。結論に熱烈賛同。

 デジタル先進国が軒並み紙教科書に逆戻り
 6年前から政府が進めてきた「GIGAスクール構想」でタブレットなどの電子端末が小中学校に1人1台与えられ、昨年4月からデジタル教育がスタートし、本年になってデジタル教科書も正式な教科書に位置づけられました。配布した端末でのデジタル教科書の利用率は英語で100%、算数・数学で55%です。昨年・一昨年ともに3000億円弱ずつの予算をつぎ込み、通常の政策では考えられないスピードで日本の教育のデジタル化が進んでいます。
 しかしIT先進国では今になってデジタル教育に「待った」がかかっています。2006年から1人1台の端末配布政策を進めてきた北欧スウェーデンでは2022年の国際学習到達度調査(PISA)で読解力などが大きく順位を落としたのです。スウェーデンの教育大臣は、読み書きに最適なのはペンと紙を使うアナログツールだと言い、全ての生徒への紙の教科書の再配布を義務付けました。
 日本が見習ってきた先達スウェーデンの方針転換には日本の識者が高評価を下し、デジタル機器を使った教育に懸念の声を上げています。デジタル画面で教科書を読んでも集中力が続かず記憶力も散漫になり、学力の向上の妨げになる恐れがあると。また紙媒体を使用した方がデジタル媒体の場合よりも脳が活発に動いているというデータも出ています。またデジタル教育とは別の話になりますが、オーストラリアでは16歳未満の子供のSNS利用を禁止する法律が成立することになっています。子供がデジタル機器(スマホ・タブレットなど)中毒になることを防ごうという強い意思が感じられます。
 デジタル化では世界の潮流に遅れていた日本ですが、世界がデジタル化の害に気付いた今、日本でもデジタル化を再考すべき。私は子供達のデジタル漬けには反対です。

Ω

翡翠のふしぎ

2025-01-25 09:27:59 | 日記
2025年1月25日(土)
 日本の国石 ~ 国の石というものが決められていて、それがヒスイだという。検索してみて七千年にわたる驚くべき事情を知った。
 以下、文も写真も下記から拝借。

 ヒスイ(翡翠、英: jade、ジェイド)は、深緑の不透明~半透明な宝石の一つ。東洋(中国)や中南米(アステカ文明)では古くから人気が高い宝石であり、金以上に珍重されたこともある。古くは玉(ぎょく)と呼ばれた。
 翡翠と称される鉱物には「硬玉(ヒスイ輝石)」と「軟玉(ネフライト : 透閃石-緑閃石系角閃石)」がある。両者は鉱物学的には全く別の鉱物である。しかし見た目では区別がつきにくく、宝石としてはどちらも「翡翠」として扱われる。
 ヒスイは非常に頑丈なことから、先史時代には石器武器の材料でもあった。ヨーロッパでは翡翠で作られた石斧が出土する。
 現在判明している世界最古のヒスイの加工は、日本国内の新潟県糸魚川市(の現領域)において約5,000年前に始まったものである。世界最古の翡翠大珠が同国内の山梨県で見つかっている。2016年時点では国内の翡翠加工史は7千年前とされている。

【日本のヒスイ史】
 上述のように日本列島においては世界最古と考えられるヒスイ加工文化が発展したが、のちに衰退して忘れ去られていた。しかし20世紀に再び国内での産出が発見されたことで、歴史学的・地理学的な注目を浴びることとなった。

古代における発展
 日本におけるヒスイ利用文化は約5,000年前の縄文時代中期に始まり、縄文人がヒスイの加工を行っていた。のち弥生時代・古墳時代においても珍重され、祭祀・呪術に用いられたり、装身具や勾玉などに加工されたりしていた。
 新潟県糸魚川市(現在)のヒスイ海岸に打ち上げられたヒスイの原石が交易品として海路を用いて広く運ばれたとされ、北海道から沖縄に至る範囲で一千箇所以上でヒスイの加工品が発見されている。
 糸魚川のヒスイは海外にも運ばれ、朝鮮半島からも出土している。さらに中国の史書「魏志倭人伝」に記載された邪馬台国の台与が中国王朝に贈った2個の勾玉がヒスイだったという説もある。

衰退と忘却
 奈良時代に入り仏教が伝来すると、王朝はそれまで重要とされていたヒスイの利用を避けるようになり、急速に日本の歴史から姿を消した。ヒスイを多くあしらった国宝である東大寺不空羂索観音立像はその過渡期のものである。
 そのため以後はヒスイの加工文化のみならず日本国内で産出することも忘却されており、昭和初期までの研究者たちは、日本国内の遺跡から出土するヒスイの勾玉等は海外(ユーラシア大陸)から持ち込まれたものだと考えていた。

再発見
 1938年(昭和13年)、糸魚川市に在住する文学者の相馬御風が、史書の記載によればかつて糸魚川周辺を治めていたという奴奈川(ぬながわ)姫がヒスイの勾玉を身につけていたとされるため、付近にヒスイの産地がある可能性があると考えた。
 相馬が知人の鎌上竹雄にその旨を話したところ、鎌上はさらに親類の伊藤栄蔵に口伝し、伊藤は同年8月12日に居住していた小滝村(現・糸魚川市)を流れる小滝川に注ぐ土倉沢の滝壷で緑色の美しい石を発見した。
 翌1939年(昭和14年)6月、その石は鎌上の娘が勤務していた病院の院長である小林総一郎を通じて、小林の親類であり東北帝国大学理学部で岩石鉱物鉱床学を研究していた河野義礼へ送られた。河野の上司である教授の神津俶祐が所有していたビルマ産のヒスイとその石とを河野が分析比較した結果、小滝川で採れた緑色の石はヒスイであることが判明した。
 さらに翌7月、河野は現地調査によって小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることを確認し、河野は同年11月に論文を発表した。
 この結果、日本国内にはヒスイの産地が存在することが証明された。奈良時代に忘れられて以降、約1,200年もの時を経た再発見であった。
 日本列島周辺で太古に利用されていたヒスイ加工品が海外渡来でなく日本国内由来のものであったことが示され、考古学上および地質学上の通説を覆す、歴史的意義の大きい画期的な発見となった。

再発見にまつわる謎

 この再発見に関してはさまざまな疑問点、またそれ以前の「再発見」の可能性を示す異説が存在する。

現代
 2016年(平成28年)9月には日本鉱物科学会により日本の国石と認定された。
 なお、日本の天然記念物に指定されている場所での翡翠の採取は、文化財保護法に違反するおそれがある。


Ω

7時のニュースと翌朝のオマケ

2025-01-22 19:02:00 | 日記
2025年1月23日(木)
 夜7時にTVでニュースを見る習慣は、たぶん一生やめられない。オールドメディアに飼い慣らされた昭和の残党ということになるのかな。それでもこちらは、少なくとも報道の真偽について疑うことは忘れずにいる。
 長期政権を終えようとする佐藤栄作氏が、記者会見の席上で珍しく感情をあらわにして新聞記者全員の退席を求め、「TVは真実を伝えるから」とカメラに向かって笑顔を向けたことを記憶している。高校一年の夏頃だったか、「それは違うだろ」と思うぐらいの分別が芽生えつつあった。
 SNSを駆使するのは結構なことだが、声が大きく再生回数が多いから正しいのだと思い込むなら、昭和の愚かさのニューバージョンでしかない。それもこれも使うものの了見次第である。

 昨夜のニュースから二件。
 その1:
 イチロー氏が米野球殿堂入り。
 満票に一票足りなかったそうで、「満票でなかったことは良かった」と語ったのはこの人らしいが、誰がどんな理由で不賛成だったのかは知りたいところである。「全員一致の死刑判決は無効」という話が『日本人とユダヤ人』の中に出てきたっけ。
 「自分よりも才能のある選手は大勢いた。自分の能力を生かす能力は、また別にある。」
 これは至言、まったく同感。忸怩たる思いもあるが、ただ「生かす」にもいろんな生かし方があるのが難しいところで。
 
 その2:
 トランプ氏が教会に出席。
 会衆席の作りや侍者の動きなどから一瞬カトリック教会かと思ったが、実際は聖公会、つまりイギリス国教会系のプロテスタントである。ワシントン大聖堂の礼拝に出席するのが米大統領就任後の伝統行事なのだった。
 その講壇から女性の説教者が「少数者に慈悲を」と訴えたのに目を見張った。以下、NYタイムズから。

 Bishop Mariann Edgar Budde was nearing the end of her sermon for the inaugural prayer service on Tuesday when she took a breath and looked directly at President Trump.
 “I ask you to have mercy upon the people in our country who are scared now,” said Bishop Budde, the leader of the Episcopal Diocese of Washington. “There are gay, lesbian and transgender children in Democratic, Republican and independent families, some who fear for their lives.”

 会衆席のトランプ氏は口をひん曲げて横を向いていたが、果たしてその後、SNSで反転攻勢に出た。

 トランプ氏は自身のSNS「トゥルース・ソーシャル」で、バディ主教の名前を出さずに「21日朝に礼拝で話をした主教とやらは急進左派のトランプ嫌いだ」と主張。
 「彼女は非常に無礼なやり方で自分の教会を政治の世界に引き込んだ。陰険な口調で、説得力も知性も感じられなかった」とこき下ろした。
 さらに、「彼女の不適切な発言は別として、礼拝自体も非常に退屈で、つまらないものだった。彼女はあの仕事に向いてない! 彼女と教会は国民に謝罪するべきだ!」と非難した。

 これからしばらく主教も聖公会もたいへんな思いをすることだろう。それを承知で直言する勇気に感服する。
 「政治に宗教が容喙するのか」というのはこの場合あたらない。主教の言葉の中にあるように、民主党支持者・共和党支持者・どちらでもない者の別を問わず、多くの家族と子どもたちに命の危険すら感じさせていることを、改めてほしいと懇願したのである。
 日本人視聴者の多くはプロテスタントとカトリックの区別もあやふやだから、しばしば「教会」を盾に使うトランプ氏とのあいだで何が起きているか、解説が必要であろう。トランプ氏を後押しするのは「福音派」と呼ばれるプロテスタントの非主流派で、これはもはや聖書の解く「福音」とはほぼ無縁の過激な政治勢力になっているが、これ以上はおっかないので書かないでおく。
 ただ、アメリカもアメリカ人も健在であることを、画面の中に見たとだけ。
***
 一杯やって寝て目が覚める起き抜けに、右のふくらはぎがつった。中学に上がって以来、ときどきあることだが、ここ数年激しさが増している。「若いわねぇ」と家人はフォローしてくれるが、逆に筋肉がスカスカになって起きる現象ではあるまいか。
 手でさすろうと脚を曲げる動作で、痛みがまた二倍になり、ジタバタしながら思わず叫んだ。
 「トランプの悪党め!」
 これは見かけほどの他意はない。チェーホフの短編に海水浴場の水が冷たいのでむかっ腹を立て、「ドイツ人め!」と悪態つくロシア人が出てくるのがおかしくて、ときどき真似してみるのである。
 どの作品のどこだったか、心当たりを探してみるが見つからない。ただ、チェーホフに限らずロシアの小説の中では、良きにつけ悪しきにつけドイツ人がシンボリックな表象として用いられる。たとえば以下のごとくに。

 (ピョートル・イグナーチエヴィチの)もう一つの特徴は、科学の無謬性への、そして主としてドイツ人の書くすべてのことへの狂信である。
チェーホフ/小笠原豊樹『退屈な話』新潮文庫版 P.20
 
 …サモイレンコは言った。
 「…きみは偉い学者で、優秀な人間で、祖国の誇りだが、惜しいかな、ドイツ人に毒された。そう、ドイツ人!ドイツ人!」
 サモイレンコは医学を学んだデルプトの町を去って以来、ドイツ人には滅多に逢わず、ドイツ語の本は一冊も読んだことがなかったが、この軍医の意見によれば、政治上、学問上の悪のすべてはドイツ人のせいなのである。一体どうしてこんな意見になったのかは自分でもよく分からなかったが、とにかくこの考えを固く信じていた。
同上『決闘』 P.151-2

 それにしても、パリ協定離脱は伝えられて覚悟していたけれど、WHO離脱の大統領令には驚いた。対岸の火事ではおさまらない四年間が、既に始まっている。

Ω

緩みのおもしろさ

2025-01-14 22:23:31 | 日記
2025年1月14日(火)

 伸仁は、粗忽長屋の落ちの場面を熊吾に説明し、
 「この最後のセリフ、大阪弁でやったら、ぜんぜんおもしろないねん。なんでやろ……」
 と言った。
 熊吾は湯につかったまま首を大きく何度も廻しながら笑った。自分の死体をかあけて長屋に帰ろうとしている男の姿や表情が目に浮かんだのだ。
 「言葉の切れじゃろう。その最後の、男のセリフは難しいぞ。名人でないと、そのセリフに奇妙さと深いおもしろさを加味させることはできんぞ。大阪弁は緩みのおもしろさじゃけん、粗忽長屋には向いとらんのじゃ」
宮本輝『慈雨の音』(『流転の海』第六部)P.161

 ユーモア、ゆるみ、ゆるしについて考えながら出かけたら、とたんにこんな文に出会う、この構図そのものがユーモアでなくて何であろうか。

Ω
 

あらためてユーモアに関心を注ぎこれをたいせつにすること

2025-01-14 09:24:36 | 日記
2025年1月14日(火)
 親しいつきあいの中にも自ずとグレードがあり、家族・親族であれ知人であれ、時々でもぜひ一緒に過ごしたいと願う相手と、たまに会うのも悪くないがそれほど強く願うわけではなく、悪くないといったものの妙に気疲れするといった相手とが、いつの間にか分かれてきている。
 もちろん相手の側からも同じように値踏みされているのだが、こちらの勝手な思いを自由に泳がせた場合、ユーモアがキーワードであることに今朝になって気がついた。
 ユーモアを解せぬやつにはかなわない
 
 面白いことを言うとかするとか、そういうこととは少し違う。かなり違う。具体的に言うとかするとかいうことではなく、基本的な構えの問題である。

 笑うという行為自体が大きな謎(ミステリー)というべきもので、動物は笑うかどうかとか、笑う時の表情筋の動きと威嚇・攻撃のそれとは妙に似ているとか、現代日本語では粗雑に「笑う」と括ってしまうものの中に「ゑむ / smile」と「わらふ / laugh」の別があり、両者は本質的に違う行為ではないかとか、21世紀に持ち越された痛快な難問が数多くある。
 その笑いの中でもユーモアはまた別格の謎というべきもので、端的に言ってそれが spirituality と深く結びついていることは疑いない。
 とはいえユーモアを定義しようというのはそもそもバカげたことで、それ自体ユーモアの「構え」に反している。ナザレのイエスの顰みに倣って、例や譬えで語るほかないものだが、ユーモアが何と近しく何と疎遠であるかをあげつらうことはできそうだ。
 ユーモアは、ゆとり・あそびと深く関わっている。「ハンドルのあそび」などという時のあそびで、その反対は(過度の)規則正しさ、例外をゆるさないこと、あるいは何であれ「ゆるさないこと」である。「ゆるす」という言葉は「ゆるみ」や「ゆるさ」と語源的に関連しており、「ゆるめる」ことと「ゆるす」ことは互いにきわめて近く、その双方がユーモアとつながりをもっている。
 ユーモアは自己義認とは両立し難い。ユーモアという言葉のイメージにも幅があるとすれば、ここは逆に「自己義認/他者の価値下げと相携えたものは、一見ユーモラスに感じられても、真のユーモアとは似て非なるものである」としてみたい。ユーモアは「自分を笑うこと」のすぐ隣りにあるもので、以前に読んだ下記の逸話がほぼ核心を衝いている。

 「何も難しいことはありませんわ」とある婦人が言った。
 「わたしが『あなたはでくのぼうだ』と言ったら、それがエスプリ、
  わたしが『わたしはでくのぼうだ』と言ったら、それがユーモアなんです。」
河盛好蔵『エスプリとユーモア』(岩波新書)から

 となるとその系として、ユーモアは信仰の不可欠の要素ということにもなる。少なくとも「律法によるのではなく、信仰によってのみ義とされる」という型の信仰は、必然的に大きなユーモアの腕の中に抱き取られていく他はないはずのものだ。
 いまはこのぐらいにしておこう。

 「こんな時だからこそ、朝起きたら口角をあげましょう」
西田敏行
Ω