散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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カラスにポン!

2024-12-19 10:09:12 | 日記
2024年12月18日(水)
 海浜幕張駅から北東に向かう広い歩道、頭上には冬の朝の冷涼な青空。今朝からのことを反芻しながらいつもの早足で歩いていると、いきなり帽子の上から頭をポンと叩かれた。
 いたずら好きの同僚の、長身の姿を予想して振り返ると、黒い塊がふわりと身を翻し、宙を上って街路樹の高枝に止まった。
 カラスに頭をハタかれた?!
 後を歩く人々が、驚き顔で枝を見あげている。その一人に声をかけた。
 「いま、カラスが私の頭を叩きました?」
 「叩いてはいないと思うんですが、すごく近くを飛び去って…」
 叩いてはいない…でも確かに感じたのだ、友達が冗談に、軽く平手でたたいたような接触の感覚を。
 カラスは怖い。爪でむしられたら「ポン」ではすまない。嘴も鋭いこの鳥が、こんな軽い叩打をどうやって与えることができたのか。翼で?それとも風圧で?怖い怖い!
 職場に向かって足を速めながら、あらためて今朝からのことを思い返した。短い時間に実際いくつもの発見があり、それらの間を頭の中で往来しながら歩いていたのである。

【その1】
 ~ 柄谷さんは、近代文学、つまり小説が決定的な意味を持つ時代は終わったと言います。文学が消滅するとか無意味だということではなく、世界の変化の中で(小説が)一定の役割を終えた、という議論です。
 「J・L・ボルヘスは、60年代末に、小説が行き詰まっていると米国での講義で語っています。短編や物語は永遠のものだろう、とも言っていますが。2000年前後には、V・S・ナイポールも、小説は終わった、と主張した。皆同じようなことを感じているんだな、と思いましたね」
柄谷行人回想録 近代文学の終焉(下)12月18日朝刊

 あ!
 それでなのか、そうかもしれない。
 小説が読めなくなっている / 物語的な小説しか読めなくなっている / 小説をあたかも物語のように読んでいる等々、『百年の孤独』は小説か物語か、『まっぷたつの子爵』や『不在の騎士』はどうか。
 小説と物語の違いを説明せよと言われたら口ごもるが、今すぐ説明できなくともわかっている、知っていると主張する声が内にある。ボルヘスが「短編」を「小説」から分けたのは理屈ではない、フランス語で短編は conte、長編は roman、そもそも別の言葉であり別のジャンルである。スペイン語ではどうなのか。
 かまわないよ、短編と物語が永遠のものであるならば。いつか自分でも書けたらと望み、思わず知らず手を出してもいたのは、小説ではなく短編であり物語だったのだ。

【その2】
 「ひょっとしたら、麻衣子の内部にも、元来、柔和で鷹揚で包容力に富んだものがひそんでいて、それが、ヨネや、喜代の祖母との触れ合いによって顕在化したのかもしれなかった。
 鷹揚、包容力、それは麻衣子の父・周栄文の特質でもあった。その特質は、熊吾が、中国人の友の何人かにも感じたものだったので、熊吾は、やはり麻衣子のなかに、中国という巨大な大地と歴史によってつちかわれた血が流れているのを感じた。
 熊吾は、酔った頭で<風土と人間>という言葉を思った。
 体格や体質、性格や性質だけでなく、物の考え方や処し方も、先祖からの血の中に連綿と刻み込まれて、親から子へ、子から孫へと受け継がれていくのに違いない。そうでなければ、国民性によって、思考方法や価値観が、これほどまでに異なるはずはない。
 しかも、風土から得た経験や精神性が、ひとりの人間の根底に影響するとすれば、風はその人間ひとりにではなく、その子や孫たちの広大な心の部分に極めて重要な落款を捺し続けるということになるではないか……」
(『流転の海』第三部『血脈の火』P.322)
 
 論旨には賛成し難いものがある。証明できない「国民性」といったものを想定し、そこから天下りに物事を説明しようとすることは、多くの大きな間違いを生むもとであり、恩師K先生がとりわけ強く警戒なさったことだった。それでもあながちに否定する気になれないのは、自分自身の思い出につながるところがあるからだ。
 20代半ばでマレーシアを数週間旅行したとき、人口の三分の一が華僑とその子孫であり、一方では観光やビジネスで訪れる日本人が珍しくもない当時の状況下で、僕は行く先々で中国人と見なされた。そしてそのことが少しも不快ではなく、むしろ知り得ない自分のルーツについて、あるファンタジーをもつきっかけになった。
 父方は15代にわたって松山郊外に住み続けてきたが、目の前の海は半島とも大陸とも一衣帯水、有史以前からおびただしい数の人びとが、繰り返し海を渡ってやってきたのだから。

【その3】
 愚図のうえに優柔不断、ソバを頼むかウドンにするか、出発は来週か再来週か、決めず決められず面倒を増やしているくせに、人生の大きな分岐点であっさり決断し、人に驚かれることがある。今回もそのような次第で、自分としては迷いはないが、なぜ迷わないのか考えてみれば不思議である。
 本当にこれで良いのだろうか、自分らしいとはいえ、いささか怪しげな…
 
 そう思った刹那の「ポン!」
 いいも悪いもないさ、やってみなよ、それしかないだろと、カラスが背中を押す代わりに、帽子の上から頭をなでていった、どうもそういうことらしい。
 悪役扱いされることが多いこの鳥を、ときどき庇いだてするのを知っての挨拶か。
 そういうことにしておこう。

Ω

モズの季節

2024-12-17 15:53:00 | 日記
2024年12月17日(火)

O君から:
 午前中、荒川に行って帰ってきたところです。昨夜、話題になったモズを二か所で撮影したので、何かの縁と思い写真を送ります。
 一羽はバスケットボールのゴールの板(「バックボード」と言うようです)の上隅にいて、しばらくすると地面に降りて来て虫?を捕えると(お見事!)、どこかに飛んで行ってしまいました。

 ⇒ 


O君へ:
 2カ所で別々のモズと会ったのですか?羨ましいこと!写真もさすが、よく撮れていますね。
 モズという鳥の、小さいくせにグンと胸を張って、何ものにも負けない気概を示すところが大好きです。
 貴兄の目の前で獲物を捕らえてみせた一羽は、数年前に松山郊外のわが家の庭で、立てかけた鍬の柄に舞い降りた鳥と重なります。

 冬はモズ夏はツバメの遊ぶらむ

 ありがとうございました!

Ω

少しだけ多い

2024-11-18 08:07:15 | 日記
2024年11月18日(月)

E君より来信:
 いい詩に出会いました。ロシアのロックグループ「マシーナ・ブレーメニ」(タイムマシンのこと)のリーダー、アンドレイ・マカレーヴィチの歌詞です。 
 彼は今、外国に出ているようです。

幾百年の世紀をまたぎ 悪がはびころうとも
空がふたたび 煙で覆われようとも
それでもこの世界の生は 死より少しだけ多い
そしてこの世界の光は 闇より少しだけ多い

アンドレイ・マカレーヴィチ「空虚な約束を」より
訳 奈倉優里

 大統領選以降、国外へ出ようとするアメリカ人が増えている。県知事選の結果を知って、兵庫を離れたいと親族が言ってきた。
 それよりさしせまったロシアの状況の中、詩人が籠の外で無事に歌い続けられますように。

Ω

アメリカ大統領選開票結果

2024-11-07 09:24:23 | 日記
2024年11月7日(木)
 昨日は一日、この件で落ち着かなかった。落ち着かなさが数日続くことも覚悟していたが、蓋を開ければその日のうちにあっけなく決着した。
 2000年の大統領選では当初ゴアの勝勢が伝えられ、それを前提に記事を日本に書き送って床に就いたところ、朝起きたらブッシュが勝っていて大慌てで記事を差し替えたという逸話をベテランのテレビ記者が語っていた。同じことが起きないかと、一抹の期待も虚しく終わる。
 民主党の政策やハリス候補を評価するものではないが、トランプ氏が当選するようでは何も語れないし、今後に向けて不安と恐怖しか浮かんでこない、そればかりはどうぞ御勘弁というところだった。

 中東で終わりの見えない人道危機に関連して、アラブ系市民の票がトランプ氏に流れているという直前の新聞報道が、ことの一面を説明する。
 この人々が2017年のできごとを忘れているとは思えないし、思いたくない。同年5月、当時のトランプ大統領は在イスラエル米国大使館をテルアビブからエルサレムに移し、12月にはエルサレムをイスラエルの首都として正式に承認した。親イスラエル的なアメリカの歴代政権が、中東の歴史と現実を慮って手を出さずにいた火中の栗を、この大統領は躊躇なく拾ったのである。当時ロイター通信はこの決断が「悲惨な代償を招くことになる」と警告した。まさしくその通りで、現在のガザの惨状については他ならぬトランプ氏自身が小さからぬ責任を負っている。
 そうと分かっていても、大量殺戮に資する武器兵器の供与を止めようとしない民主党政権は、現時点でよりさし迫った目に見える敵なのである。この選挙でNO を突きつけることは当然の反応だが、トランプ氏の任期が始まってこれらの人々が安心できるかと言えば、おそらく現実は逆の方向に動くだろう。
 
 日中は都内で用事があり、居合わせた婦人たちに開票結果が気になってと話したところ、即座の反応が「そうなんですか、よくわからないし関心もないので」というものだった。人生経験も教養も豊かに備え、社会奉仕に淡々と携わる人の言葉だけに驚いた。意識や見識がどうこうというのではない、我々の生活に直接影響を与えかねない事柄であり、生活防衛を考えるなら聞き耳を立てずにはいられないこと、のはずなのだが。

 夜、E君からメールあり:
> かつてヒトラーとスターリンが秘密協定でヨーロッパを二分しようとしたように、トランプとプーチンと習近平が世界を三つに分ける暗黙の合意を結ぶことになりそうですね。ジョージ・オーウェルの予言が現実となるわけです。
 「悪の支配する世界でどう生きていくべきなんでしょう」とメールが結ばれている。「終わりの始まり」という言葉が頭上にちらつく。

 いつの時代にも多くの人々がそのように感じ、それにも関わらず歴史は続き人類は生き延びてきたのだと、努めて考えながら一日を始める。

Ω

犬に薬をかじられて

2024-10-29 10:25:50 | 日記
2024年10月28日(月)

 15時過ぎに診療が途切れ、目の前にぽっかり空間が開けた。
 「笑い」というものについて、何か書くことができるだろうか。
 何が必要といって、笑いほど大事なものはない。人はいずれ死ぬに決まっているが、和やかに笑って死ぬことができるなら、死の怖さも不快も超えやすいものになるだろう。
 笑うというより笑むと言いたい。「笑む」は「咲む」とも書くことまでは、週末に調べがついている。「花のつぼみが咲きほころぶように、頬が明るく開きこぼれる」のが「ほほえみ」である。
 微笑みの讃頌を記せないかと思ってみるが、この主のことを賢(さか)しらに言挙げしようというのが野暮な話で、くどくど書かかれた千万言も、幼子の無心な一笑に軽く吹き飛ばされるだけである。
 それでも何か、書けないかしらん。

 「先生、あの」
 「はい?」
 「モリグチさんからお電話がありまして、」
 「はぁ」
 「犬がお薬をかじってしまったんだそうで、」
 「犬?」
 「はい、愛犬にお薬を食べられてしまって、足りなくなった分を処方していただきたいと」
 「はぁ」
 「でも犬も具合が悪くなって、これから病院に連れていくので、今日は来られないから、明日処方していただきたいのだそうで」
 「はいはい」
 
 いつもの調子で淡々と報告する女性事務長が、見あげて目が合った途端たまらず笑いくずれた。おっちょこちょいの美人さんが、愛犬を抱えて右往左往する姿が目の前に浮かんだ。

 「何をどれだけ食べちゃったのかわかりませんけど、大した薬は出てませんから心配要らないかな。そう言ってあげましょうか?」
 「たぶん、もう受診してらっしゃる頃かと」

 朝からの鬱(ふさ)ぎの虫が、これであらかた融けて流れた。
 どうぞお大事に。
Ω