2018年3月23日(金)
この日に撮ったきり、ほったらかしてあった。肉眼に映った朧な美しさはこれとは微妙に違う。違うものに置き換えてしまうのが惜しかったのである。あらためて開き、しばらく眺めた。肉眼の記憶の方は既に何ほどか抽象化され、具(つぶさ)には思い出せなくなっている。
逆さのようなのは、遊歩道で頭上の桜を見上げて撮ったからだ。逆さにするとまた趣が変わり、小さくするとこれまた別に見える。蛍光染色の顕微鏡写真を思い出すようだ。
小さなピースが無数に集って大きな図を描く様相には何か共通の、胸をときめかせるものがある。個別の相貌と共通の法則、その関わりのどこにどう注目するかで、芸術と科学の諸分野が分かれ立つ。それらがまた大きな図を描いて広がっていき、そこにもまた規則性があり法則の影が垣間見えている。法則は確かに存在するのに、その全容は決して知り得ない。
宇宙という池の面の、終わりのない波紋を連想する。
Ω
センチメンタルに亡き父の想いを感じる私とは、随分違うと驚きました。違った連想ですが、やはり自然は宇宙と繋がっているのかもしれません。